エピソード86:赫灼の夢宴
——甘い香りがする。
肌にまとわりつくような湿った空気。
指先をすべらせれば、そこにはなめらかな絹の感触。
私は、どこにいる?
頭がぼんやりする。
世界は霞んで、輪郭をなくし、ただひたすらに美しい。
「……ようやく、素直になったのね?」
耳元で囁く声。
吐息が頬を撫でる。
振り向くと、シラーチルがそこにいた。
彼女の白い指が、私の顎をすくい上げる。
その瞳は紅玉のように輝き、妖しく揺れていた。
「貴女が、何者なのかなんて……もう、どうでもいいでしょう?」
シラーチルの指が、私の鎖骨をなぞる。
ゾクリとするほど冷たくて、けれど心地よかった。
「ここは夢。
私たちだけの、蕩ける楽園」
唇が触れそうなほどに近づき、彼女の香りが鼻腔をくすぐる。
花蜜のような甘やかな匂い。
それは私を酔わせるには十分だった。
「……貴女は、どこまで堕ちるのかしら?」
囁きながら、シラーチルはくすくすと笑った。
それはまるで、罪深い遊戯を楽しむ女王の笑みだった。
けれど——
私の中で何かが、微かに軋む音を立てた。
冷たい指先とは裏腹に、彼女の手はわずかに震えていた。
その震えが、心の奥で警鐘を鳴らす。
「シラーチル……」
私は、そっと彼女の手を握った。
瞬間——
世界が割れた。
白い壁がひび割れる。
天井が崩れ、黒い空間が広がっていく。
——これは、“楽園”なんかじゃない。
私は夢から醒めるように、己の意識を取り戻した。
「……私は、ここにいてはいけない」
シラーチルの目が揺れる。
「……どうして?」
「私は……“終わり”へ向かわなければならない」
私の手が、シラーチルの頬をなでる。
「——貴女も、本当は分かってるはず」
シラーチルは、目を伏せる。
そして、次の瞬間——
私を、深く抱きしめた。
「……だったら」
その声は、泣きそうなくらい震えていた。
「だったら、私を置いて行かないで」
——鋭い閃光。
次の瞬間、私たちの足元が、崩落した。
楽園の幻影は砕け散り、現実が剥き出しになる。
私は、シラーチルの手を強く握った。
「——行こう」
狂気も、悦楽も、夢も、すべてを超えて。
私たちは、“終焉”へと踏み出した。
鐘が鳴る。
それは、祝福の音か、あるいは鎮魂の響きか。
もう戻れない。