エピソード84:背徳と覚醒のカノン
——鐘が鳴り止まない。
ゴォォォォン……ゴォォォォン……!
耳をつんざく轟音。
空気が裂け、脳髄を揺さぶり、骨の奥まで染み込んでいく。
楽園の祝祭は、歪んだ旋律へと変わっていく。
テーブルが倒れ、黄金の皿が砕け、血のワインが滝のように溢れ出す。
天蓋の裂け目から、“何か”が覗き込んでいる。
それは目か? 口か? 無数の”監視者”が、黒い霧となって渦巻いている。
この世界が、崩れようとしている。
「お前は——ここにいてはいけない」
影が、静かに、しかし確かに言った。
楽園の闇が、軋むように蠢く。
“私”だったはずの影が、腐敗した指を動かし、私の喉元へと手を伸ばす。
その瞳の奥にあるのは、嘲笑か、それとも哀れみか。
私は、震える声で問いかけた。
「……どうして」
影は笑う。
「お前は、この世界に甘えている」
「お前は、“楽園”など求めていなかったはずだ」
脳髄をかき乱すような、真実の声。
私は息を呑む。
シラーチルが、目を細めた。
「……つまらないことを言うのね」
彼女は優雅に指を鳴らす。
——ザリッ。
“楽園”が、応じる。
床から無数の黒い触手が這い出し、影を絡め取る。
骸となった”私”を、世界そのものが貪ろうとしている。
「お前は”檻”だと言ったけれど——」
シラーチルは、微笑む。
「檻でいいのよ」
「ここには、何もかもが揃っているのだから」
私は、喉の奥がカラカラに乾いていることに気がついた。
楽園。
救い。
甘美な祝宴。
何も考えず、何も選ばず、ただ享楽に溺れ続ける場所。
本当に、これが”望んでいたもの”だったのか?
影が、最後の力を振り絞るように、私に告げた。
「お前は、“答えを放棄するため”にここにいるわけじゃない」
「お前は、“世界を終わらせるため”に、ここにいるんだ」
世界を——終わらせる?
脳が沸騰しそうなほどの違和感。
意識が揺れる。
シラーチルが、優しく私の手を取る。
「さあ、楽園に戻りましょう」
彼女の声は、甘く、深く、心地よい。
このまま身を委ねれば——
——その瞬間、脳に”刃”が突き立てられたような感覚が走った。
ザクンッ!!!
「——ッ!!?」
視界が、裂ける。
光が弾け、闇が溢れ、頭蓋が砕けるような衝撃が走る。
私は、見た。
——目の前の”楽園”が、肉塊と骨の塊でできていることを。
——床に敷き詰められた赤い絨毯が、蠢く内臓の群れであることを。
——空に浮かぶ光が、無数の”眼球”で構成されていることを。
……気づかなかった? いや、見ようとしなかった?
違う。
——“楽園”ではなく、これは”檻”だ。
私は、ここにいるべきじゃない。
私は——
「……違う」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
シラーチルが、静かに私を見つめる。
「違う?」
私は、拳を握る。
「ここは”楽園”なんかじゃない」
「“安寧”なんかじゃない」
「これは”終わらせるべきもの”だ」
シラーチルが、目を細める。
「——お前、“思い出した”のね?」
影が、嗤う。
「やっと、“帰ってきた”な」
鐘の音が、狂気のように鳴り響く。
世界が、完全に”崩壊”を始める。
私は、“目を覚ました”。
——“私”として。