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「風はさ、不思議なものだよね」
リーモアは、どこか遠い目をしていた。
「形がないのに、感じられる。色がないのに、空気を変える。目には見えないのに、確かにここにある」
指先で軽く宙をなぞる。
「それに……風は記憶を運ぶんだ」
彼の声は柔らかく、どこか懐かしい響きを持っていた。
「人が通り過ぎた場所に残る、わずかな香り」
「誰かの笑い声が微かに残る、空気の揺らぎ」
「昔、誰かが立ち止まった影」
「そういうものを、風は全部拾い上げて、どこか遠くへ連れていく」
リーモアはゆっくりと視線を巡らせた。
「この草原もね、そうやっていろんな記憶を吸い込んで、吐き出してるんだよ」
遠くで鳥が鳴く。
低く、のんびりとした声。
「だから、ここに座ってるとね……知らない誰かの記憶が、時々混じるんだ」
「ある時は、雨の匂いがする」
「ある時は、焚き火のはぜる音が聞こえる」
「ある時は、誰かが泣いている」
「でも、不思議と怖くはないんだ」
リーモアは小さく笑った。
「むしろ、心地いい」
風がふっと強くなる。
草の穂が波打ち、空気が渦を巻く。
リーモアは目を細める。
「ねえ」
「君は、何かをなくしたことはある?」
唐突な問いだった。
「ものでも、人でも、時間でもいい」
「『ここにあったはずのもの』が消えてしまった時の、あの感覚」
「ぽっかり穴が開くような、手を伸ばしても掴めないような、あの感覚を知ってる?」
沈黙。
リーモアは、それを肯定と受け取ったのかもしれない。
「……僕もさ、昔、一つだけなくしたものがあるんだ」
「それは、とても美しいものだった」
「それがなくなったとき、世界は少しだけ色を失った気がした」
「でも、風は知ってるんだ」
「それが確かに、ここにあったことを」
リーモアは空を仰ぐ。
「だからね」
「僕は、風が好きなんだ」
「たとえ形をなくしてしまっても、どこかに残ってるんだって、思わせてくれるから」
彼はふっと笑った。
「君がここに座ってることも、たぶん風は覚えてるよ」
「いつか、また戻ってきたとき——きっと、同じ風が君を迎える」
夕暮れの色が、草原に溶けていく。
リーモアは静かに立ち上がった。
「……そろそろ行くよ」
「君は?」
風がまた吹く。
穂がざわめく音がした。