49 「美しき終焉」
「ねえ、リトマス。」
血の匂いが満ちた空間に、シラーチルの声が響く。
甘く、蕩けるように、耳朶を優しく侵食する声。
「君は、綺麗だね。」
私を見つめるその瞳には、狂気が張り付いている。
だけど、その奥に、何かが揺れているのを私は見逃さなかった。
「ねえ、君は、何だと思う?」
シラーチルが、ゆっくりと床にしゃがみこむ。
紅い液体を指で掬い、舌先で舐めた。
「ん……あぁ……やっぱり最高……。」
酩酊するような仕草。
彼女の顔には、陶酔と狂気が同時に浮かぶ。
なのに、その声の奥にあるのは、妙な寂しさだった。
——この人は、何を求めているんだろう。
「……ねえ、リトマス。」
顔を上げ、シラーチルはゆっくりと微笑む。
その笑顔は、どこか懐かしささえ感じさせるほど穏やかで——
「君が壊れる瞬間を、私に見せて?」
——やはり狂気に染まっていた。
私は息を呑む。
シラーチルが、ゆっくりと立ち上がる。
その手には、滴るナイフ。
赤黒い血を纏ったそれは、まるで儀式の供物のようだった。
「壊れゆく美しさ。崩壊の瞬間。」
彼女は、言葉を紡ぐたびに、自らの指を胸元へと滑らせる。
指先が自らの鎖骨をなぞり、頬を撫で、唇に触れる。
「私は、それが見たいの。」
「だって、リトマス。君は“リトマス試験紙”なんでしょ?」
「世界を映すもの。色を変えるもの。純粋さを試すもの。」
「ならさ——」
「最後に、君自身が、何色に染まるのか……。」
「教えてよ?」
——カチリ。
音がした。
それは、扉の音だったのか、それとも心が砕ける音だったのか。
シラーチルが、ナイフを握りしめる。
目が、見たこともないほど強く光を宿す。
「ああ……。」
「こんなにも美しく、壊れる準備が整っているのに。」
「……どうして?」
ふと、彼女の声がかすれる。
ナイフを持つ手が、わずかに震えている。
「……ねえ、どうして?」
彼女の瞳が揺れる。
シラーチルが、絶望する瞬間を、私は初めて見た。
——望んでいたはずなのに。
——完璧な結末を。
——壊れる瞬間を。
なのに、どうして?
どうして、この胸の奥に、こんなにも冷たい風が吹き抜けるの?
「リトマス。」
「……私、こんなはずじゃなかったの。」
シラーチルが、ナイフを持つ手を下げる。
「私は……私は……。」
彼女は、ただひとりの劇場の中で。
最も美しく、最も哀しい役を演じながら。
静かに、涙を零した。
「こんな終わり、望んでないのに……。」
ナイフが、手から滑り落ちた。
カラン、と音を立てて転がるそれを、彼女は見つめる。
「ねえ、リトマス。」
「私、何をしていたんだろう?」
その問いに、私は答えられなかった。
「……私、ただ、君と……。」
シラーチルが、涙を拭う。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……まあ、いいや。」
「この舞台は、もう閉幕だからね。」
その言葉とともに、世界が光に包まれた。
そして——
シラーチルは、霧散した。
まるで最初から存在しなかったかのように。
私はただ、そこに立ち尽くす。
何も言えないまま。
何も感じないまま...
シラーチル....
あなたは...
扉の向こうで、誰かが囁く声がする。
「さよなら。そして.......」
ありがとう....
その声は、風に溶けるように消えていった。