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リトマス、リトマス、リトマス、リトマス。
シラーチルは、壊れた玩具のように繰り返す。
その声は柔らかく、甘やかで、耳の奥にこびりつくほどにしつこい。
私は唇を噛んだ。
「……私の名前は——」
「違うよ?」
シラーチルは、くすくすと笑った。
「君はリトマスだよ。変化を示すためにある。
色が変わるたび、世界も変わる。
……つまり、世界は君次第。」
言葉の意味が、脳に浸透する前に——
ズブリ。
足元が沈んだ。
「っ……!?」
黒い液体。
それは泥でも水でもなく、まるで生きているように蠢いている。
いや、違う。私の足を喰っている。
「おかしいね。君、どうしてこんなところにいるの?」
シラーチルが首を傾げる。
「……わからない。」
本当に、わからない。
なぜ私は、ここにいる?
何を探して、何を求めていた?
「そうかぁ……ふふ。」
シラーチルが、嬉しそうに手を叩く。
「じゃあ、試してみようか。」
「……なにを?」
彼女は、懐からナイフを取り出した。
銀色の刃は、鈍く光を反射している。
「ちょっとだけ、君を切るね。」
言葉が終わるよりも先に——
ザクリ。
鋭い痛みが走った。
「っ!!!」
左腕。
血が、一筋、流れる。
「うん、やっぱり普通の赤だね。」
シラーチルは、しげしげと私の血を眺める。
「まあ、すぐ変わるけど。」
「……何……?」
「リトマス試験紙はね、色が変わるものなの。
だから君も、変わらなくちゃ。」
「っ……」
私の血が、ゆっくりと——
黒く染まった。
「ほらね?」
シラーチルは満足そうに微笑む。
「君は、すでに変化しちゃってるんだよ?」
私は、息を呑む。
私の血が、私のものじゃない色に変わる。
それが何を意味するのか——考えたくない。
「ねえ、もっと試そう?」
シラーチルは、ナイフを持ち直した。
今度は、喉元に刃を当てる。
——殺される?
いや、違う。
これは、変化の儀式。
「だって君、“観測体”だもん。」
「……観測、体……?」
聞いたことがある。
私の識別番号。
「思い出した?」
シラーチルが、私の喉元に押しつけた刃を、ゆっくりと滑らせる。
血が滲む。
赤い血は、すぐに黒へと変わった。
「うん、やっぱり。君は、“人間”じゃないんだね。」
耳鳴りがする。
「リトマス。君は、何を選ぶ?」
「……選ぶ?」
「うん。世界を歪ませるか、自分を壊すか。
どっちがいい?」
世界が、揺らぐ。
私は——何を選ぶ?
「リトマス。」
シラーチルが、にんまりと笑う。
「この物語、どこから始まったか覚えてる?」
——どこから?
頭の中が、ぐるぐると渦を巻く。
私は、どこから?
「大丈夫、君が決めていいの。」
シラーチルは、刃を私の胸元に押しつけた。
「さあ、リトマス。答えを見せて。」
——私は、私は....