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アレーニャは窓の方へすばやく歩いていった。
拳が軽く触れただけで、信じられないほどきれいにガラスが吹き飛ばされた。粉々に砕け散った破片は廃墟の町へ吸い込まれてゆく。
呆然として動けなくなっていたハルオの背後に回って脇の下を抱え上げると、アレーニャは外へ向かって一気に飛翔した。空っぽの窓枠を通り抜けると、いきなり空中へ連れ出された恐怖で、二本の脚がバタバタと空回りする。しかし、アレーニャの細い腕は、しっかりとハルオを支えていて、空中でもバランスを崩すことを許さない。
ほとんど落下に近く思われる勢いで、ハルオは地表に待ち構えていたオープンタイプの軍用車の座席にそのまま放り込まれた。
アレーニャは運転席に飛び込むと、車を即座に急発進させた。遠慮のない加速がハルオの身体をシートに押しつける。部屋のドアが空いてからここまで、抵抗するなどということは思いもよらない、あっという間の出来事だった。
シー・ドールの運転はまるで減速を拒否するかのようで、赤信号は当然のように無視され、そのたびにハルオは体をすくませる。アレーニャの小さな手はハンドルとシフトレバーを激しく操作し、ペニーローファーの靴がアクセルを思い切り踏み込む。
アレーニャは何かを気にしている様子で、後ろを振り返ったり、上空を見上げたりしながらの運転だ。
無骨な軍用車は無謀なドライビングによく従い、荒れた舗装路をものともせずに廃墟の町を駆けてゆく。すぐに町並みは途切れ、二人は森のなかに入っていった。
正気とは思えない速度で大きな沼のほとりを走行していた時だった。
──KイsィアアrああアaあrRぁaあrあAあああア!
強烈な金切り声が突如としてあたりの空気を切り裂いた。と同時にアレーニャが急ブレーキをかけ、シートベルトをしていなかったハルオは車から放り出されそうになる。
それは死の可能性に直面した何かが上げる、不吉な悲鳴のような音波だった。背筋を凍らせる高周波の震音が天空から降り注ぎ、何か恐ろしいものが訪れつつあることをハルオに告げた。
気づくと、アレーニャは運転席にいなかった。
「隠れて!」
高いところから厳しい声が飛ぶのを聞いてハルオが顔を上げると、アレーニャはすでに飛行体勢に入っており、さらに高度を上げる途上だった。
──ィshあぁAlぇlerrrあああsRあぁあああ!
ハルオには知る由もないことだったが、この声こそ「バンシーの嘆き」と称されるシー・ドールの駆動音であった。シー・ドールは現実と非現実の境界を侵犯することによって飛ぶ。今、高い悲鳴を上げているのは、得体の知れないテクノロジーによってねじ曲げられつつある宇宙の理そのものなのだ。
おそらくは人類が未だ知らぬ物理法則にまで干渉しているのだろう。。死を告げる妖精の叫びは、この惑星最強の空戦兵器、シー・ドールが真の意味での臨戦態勢に入った証だった。
ふいに、回転するチェーンソウが金属にぶち当たるような音が炸裂した。
視界の端にも入っていなかったもう一体のドールが、通常の運動法則下ではありえない増速を果たし、アレーニャに近接先制攻撃をかけたのだ。これが戦闘開始の合図だった。アイヌ文様の着物と褐色の肌を見れば言うまでもない。襲撃者はラノロロラだ。
「今ので逝っとけば楽に死ねたのになあ!」
初撃をしのがれ、すぐに距離を取ったラノロロラは、稲妻、いや、紫に光り輝く葉脈のような二枚の羽を従えていた。ラノロロラが不規則な機動を繰り返し、翼がアレーニャに接触しそうになるたびに、不快な擦過音が響き渡る。
シー・ドールは次元を食う。侵食を受け、崩壊した三次元空間の破れこそ、今ラノロロラの背中に生じている羽の正体だ。バンシーの叫びが、至上の切れ味を示す死の翼を顕現させる。
アレーニャの背中にも、小さな二枚の発光する青い羽根が発生している。その姿はまさに妖精と呼ぶにふさわしいが、旗色は悪い。羽を盾に使ってなんとかラノロロラの攻撃をさばき、身をかわし続けている。
沼の上空は激しい攻防の場となった。水面を滑る二つの影が交差するたびに、衝突の火花が明滅する。
ラノロロラが挑発する。
「お嬢ちゃんそれでもJ Sなのかよ。戦技研では逃げ回ることしか教えてないのか?お友達はきちんと戦って死んだぞ」
アレーニャに変化はない。
「言っとくが増援なんて来ねえ。時間稼ぎは無駄だ」
ギアが上がる。何かを削り取るような音が途切れずに続くようになった。ラノロロラが手数で押し始めたのだ。
ラノロロラの翼は触手のように拡散し、収縮する。幹から伸びた枝が数限りなく分裂し、アレーニャを捉え損なうたびに、また機会を伺うようにエネルギーを凝集させる。アレーニャの回避と防御もそう遠くないうちに破綻するだろう。
そしてその時が訪れた。ラノロロラの害意のほんの指先が、アレーニャのかかとに触れる。小さな靴が吹き飛ばされ、アレーニャは大きくバランスを崩す。
ラノロロラは老練だった。ある程度の距離を維持し、とどめを焦ることなく削りを継続したのだ。回避を許さず、防御だけを強い続ければいずれ確実に勝利を手にできるはずだった。
「楽しいか?楽しいよなあ。お嬢ちゃんもシー・ドールだもんなあ!」
脈動する剣の叢がアレーニャを包囲する。一対の小さな羽しか持たぬシー・ドールにはもはや逃れるすべはない。戦闘の終わりが近づいてきていた。
瞬間、ラノロロラは自分の左脚が切り飛ばされたことに気づかなかった。
水しぶきが立つ。落下したラノロロラの下肢が水面に沈んでゆく。ラノロロラの意識が事実を認識するまでに数拍の間があった。
あまりにも完璧な切断であった。斬撃はラノロロラに何の感覚も残さず彼女の肉体の一部を奪い去っていった。
笑いとも驚きとも取れる短い息がラノロロラから漏れる。あるいは見事な一撃を称える賞賛の息吹なのかもしれなかった。
四肢の一つを失った体軸には不規則な回転モーメントが生じ、ラノロロラは平衡を失う。安定した飛行はもう不可能だ。
跛行する敵をアレーニャは静かに見下ろしている。駆逐妖精は顔になんの表情も浮かべていない。
アレーニャの周囲にはいつの間にか6枚の輝く刃がかしづいていた。妖精の羽は凶悪な赤光を放ち、ついに侵掠の時を得て翅脈を震わせる。無造作な直線的軌道を描いて、シー・ドールの剣が哀れな敗者に殺到した。
ラノロロラの右手首が、音も立てずに地表に落ちていった。首筋に、脇腹に、定規で引いたような裂け目ができる。
敵をあざ笑うかのような刃の舞踏だった。アレーニャの羽は大気を裂き、喜びの声を上げてラノロロラの身体を切り刻んでゆく。
陵辱にさらされながら、ラノロロラはアレーニャが自分よりはるかに格上だったことを理解した。胴体が両断され、ずたずたになった体をもてあましながら、ラノロロラは内省の穴に落ちてゆく。やがて彼女はある洞察に至ったような気がしたのだが、最後の一撃が迫り、思考は活動を停止した。
ラノロロラの頭部が破片となって落下していくのを、ハルオは見ていなかった。二人の戦いの最中に急激な意識の混濁に襲われ、そのまま昏睡していたからだ。
敵の最期を見届けると、アレーニャは警戒を解いて降下する。
笹薮の中に倒れ込んでいたハルオの体をアレーニャは抱え上げて運び、ブレーキ痕を残して道路に放置されていた軍用車の助手席に乗せる。
片方になっていた靴を脱ぎ、アレーニャはエンジンキーを回した。
車は北へ向かう。