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アレーニャは去った。新国民たちはもてあました自らの体重を預けに座席に戻っていき、しばらくは別れの後の虚脱感を味わっている様子であったのだが、やがて誰からともなく先ほどの体験の共有作業を始めた。
会話が始まっていた。上野駅を出発してから誰もが無口だった車内に、静かな熱を帯びた語りが行き交っている。追放を選んだ者たち特有の、コミュニケーションを拒否するような重い空気は徐々に薄まってきていた。
「いや、すばらしかったね。最高だ」
流暢な日本語にハルオは驚いた。隣席に座っていた30代くらいの男は、イタリアか、スペインか、南米のどこかといったあたりの出身に見えていたが、完璧と思える発音で語りかけてきた。
「日本語、お上手ですね」
思わずそう言ってしまったが、面食らったような顔を男が一瞬見せたので、この応対は興醒めだったかとハルオは後悔する。ドールの衝撃以外にこの場で語るべきことなんてないのだ。むしろ失礼の領域に踏み込んではいまいか。
「ありがとう。どうしてもこの国に住みたくて。内地に3年いたんだ」
穏やかな話しぶりだった。
「アレーニャちゃん、すごかったですね」
「まだ信じられないよ。もっと近くで見たらどんな気分だろう」
男は胸に手をやって大きく息を吸い込んだ。そして思い出したように赤いスマホをポケットから取り出し、笑顔で飛行するアレーニャの画像が表示された画面をこちらに向けて笑った。
「ベストショットだ」
すでにハルオはこの男に好感を抱き始めていた。この列車に詰め込まれているような人種はお互い軽蔑し合うことも多いものだが、この男にはその種の同族嫌悪を覚えない。やや芝居がかった言動にも、人なつっこさのようなものが見えた。
「地球最強の兵器だってのに、このかわいさ。まさに『人類に対する罪』だね」
「感情に嘘がまったく感じられませんでしたよ。人間性が人間をはるかに超えている」
アレーニャの素晴らしさをどう語ればよいだろう。二人は会話を通じた模索を始める。
彼女の薄緑の瞳や、独特の質感を持った真っ白な肌、黒い靴下に隠された小さな足首、といったことがらを直接語るのはあまりにも恐れ多いようだった。
「空中動作の鮮やかさから見て取れる身体的知性」、「お客様をお迎えに上がる少女、というモチーフの持つ魔力」「崩しの少なく見える制服の着こなしと、おそらく私物であろうペニーローファーの靴からうかがえる個人的な好み」といったふうに、間合いを測りながら徐々に話題は移ってゆく。
「かわいい声を聞きたかったな」
「窓が開かないのがつらいところですね。同じ空気を吸わないと」
歌う、おしゃべりをする、あいさつする、泣く、教科書を朗読する、やまびこを作る、小さく悲鳴を上げる、忘れ物をしたと教師に報告する、「ありがとう」、「おいで」、「わあ」、「ごめんなさい」などの無限の可能性が彼女の発声器官には秘められているのである。
「あるいはアレーニャちゃんは日常言語はほとんど操らず、詩のような、意味のない美しいだけの音声を発するのかもしれませんね」
「君は高踏派だね。僕はむしろ彼女の生活感に惹かれるよ」
男はアレーニャの三つ編みに注目していると語った。スマホの画像を拡大し、編み込みのへたくそさを証明すると、これは彼女本人が編んだと見るのが普通だが、仲のいい不器用な友達の少女が編んでくれたのだと私は確信している、と述べた。
「すばらしい」
ハルオが深くうなずいて妄想に対する賛意を表明すると、逆に男は照れてしまったようで、会話が中断してしまう。
窓の外を国連軍の装甲車が走っていた。
「あ、函館が近いのかな」と沈黙をごまかすように男が言う。
15年前の戦争で破壊されたままと思われる一軒の廃墟がゆっくりと目の前を通り過ぎた。もう国連占領地に入っているらしかった。
「海、見えますねそういえば」
反対側の座席のむこうからは、穏やかな波の様子がのぞいている。
列車が停止した。ホイッスルが鳴り、線路の脇を小銃を持った男たちが走って行った。車内放送の車掌の声には、先ほどの誇らしげな様子はなく、事務的に連絡事項を告げる。
「ただいま、国連軍による封印の最終確認が行われております。10分ほどで終了する予定ですが、今しばらくお待ちください」
ハルオは外に立っていた兵士と目を合わせてしまい、思わず身をすくませる。浅黒い肌をした小柄な兵士は特に何の反応も見せず、仕事が終わるのをただ待っている様子だった。
「閉めようか」
男がカーテンに手を伸ばしている。ハルオはうなずいた。
深緑色のカーテンには強い遮光効果があり、二人を影が覆った。他の乗客たちも次々とそれに倣ったため、車内は一気に暗くなる。
笛の音が響き、列車は再び動き出した。10分は経っていないだろう。
「完全な王国領に入るまでは閉めたままのほうがいいですね」
「じきだよ。国連占領地は広くない」
乗客たちは静かになってしまった。臨検の兵士たちの視線は、彼らの気持ちを重くさせるのに十分だった。
アレーニャの登場によって解かれた抑圧が、ふたたび彼らの上にのしかかってきていた。国連占領地はこの島に残った唯一の現実社会の鎖だった。
突然のアンパンマンマーチが男たちに活を入れる。スピーカーから大音量で流れ出したメロディが暗い雰囲気を無理矢理塗りつぶした。そしてそれをバックに幼い女の子の元気すぎる声がアナウンスを始める。
「あと15分くらいで新函館駅だよお兄ちゃん!忘れ物はない?国民電話端末の電源は入れた?感激でおかしくなっちゃう準備はOK?キラキラ輝く夢の国はもう目の前!食べきれないほどおっきな幸せが、お兄ちゃんを待ってるよ!だから列にはきちんと並んで!暴れないで揉めないで!マナーを守るお兄ちゃんってかっこいいなー!私との約束だよ!あなたの国家妹、のえみんでした!」
トラディショナル・ハイテンションロリスタイルのマシンガントークはほとんどの乗客たちにはおなじみだ。土曜深夜一時半から放送される協定無視の公式海賊ラジオ番組「のえみんのらじかる☆きんぐだむ」は内地でも受信可能で、王国事情を伝える貴重な情報源だった。
支給されていた国民電話端末をまだ確認していなかったことに気づいたハルオは、網棚のリュックサックからパッケージを引っ張りだして開けた。アレーニャの画像を見せられたスマホとは違う緑色だったが、同じ形の端末が箱に入っている。
「入国手続きはそれを使うみたいだ。電源は入れておいたほうがいいよ」
指紋と目の虹彩を使う、ごく普通の認証方式だった。事前に提供してあったデータが入力済みで、起動は特に何のトラブルもなかった。
「アプリ、どんな感じでした?」
「カメラは使えたけど、他はどうかな。大したものはなさそうだった」
連結部にある荷物室に向かう者や、トイレに行く者で通路が混雑しはじめていた。カーテンの隙間から景色を覗くと、列車は高架を走っているようだったので、ハルオは緑色の遮光布を開けた。
荒れ果てた町並みが続いていた。おそらく放棄されたのだろう。ため息をついたハルオに男が解説を加える。
「このあたりに王国民を住ませても揉めるだけだからね」
男の名前をまだ聞いていなかったことをここでハルオは思い出す。新しい知人に名乗るという行為が久しぶりだったので、ハルオはすこし戸惑った。
「あ、そういえば名前、まだですよね……弓野ハルオって言います」
「これはどうも。僕はエミール・ベンセイド。」
握手した手はハルオに比べるとはるかに大きかった。