終 章――鉄壁のマリア ―Maria The Iron Maiden―
「――いや……正直、妙にぼかした感じではっきりしない記事ですよね、これ」
鈴木がそんな風に最新号のゲラ刷りをもって私の前にやって来た。私はそれを受け取ると自分で書いた内容に再び目を通した。
『鉄壁のマリア』について私はこう書く事しか出来なかった。理由は簡単だ、決まりきっている。既に彼女は『都市伝説』の様な存在になってしまっているのだ。幾ら何を言った処で混迷さだけが更に増していくだけだ。その結果、結局『訳が分からない、謎の人物』として落ち着く事になるだろう。
例えば――その真相が判明したとする。だが恐らく何を言った処で誰も信じてはくれないだろう。情報が錯綜し混ざりすぎた。もうどうしようもない程に。
例え『これが真相だ』と言ってもどの情報も同じ事を言うから明確になる事は絶対に無い。
伝説とは一人歩きを始めてしまった物でもあるからだ。
「何よりこれ、鉄壁のマリアの真似する奴が一層増える気もしますね」
一通りゲラを読んだ後、鈴木に手渡すと私の記事を眺めながら苦笑する。
だがそんな事を言われても私の知った事じゃあない。大体真似をした処で本物になる事なんて出来ないからだ。
噂になってその時点で本人が言い出さなかった。そこから既にもう始まってしまっているのだ。つまり今後はもう誰も『本物』を主張する事が出来ない。
そう、例えそれが本物の――『藤堂毬絵』と言う少女であったとしても、だ。
全ての取材を終えてそれでも釈然としなかった私は実際にそのゲームをやってみた。情報にあった最後の一つが未確認だったからだ。それは『広場でいつも子猫と遊んでいる』と言う余りにも可愛らしい物だ。
実際に私は仕事の開始より早く編集部に出勤し職場からワールドに接続した。朝の七時頃だろうか。そんな日本人ならば接続する事自体が殆どない時間。そこに――その少女は実際にいた。
確かに名前は『Maria』で少女アバターだったがロングストレートの赤毛。
最初、私はこの少女も本物を真似た偽物かと思った。しかしジェイク氏から聞いていた情報と余りにも違い過ぎる。フォーラムで流れている噂の様なゴーントレットやバックラーも装備していない。
真似て作ったにしてはそれは余りにも杜撰過ぎたのだ。
気になった私はそんな赤毛の少女アバターに話しかけてみた。案の定、彼女はアメリカのカンザス州で暮らしているだけのアバターと同じく本当に少女だった。
本名もアバターと同じでMariaと言うらしい。家族のコミュニケーションツールとしてこのゲームを始めたのだと言う。何の変哲もない、ただそれだけの普通の少女だった。
だが話を聞いてみると……どうやらもう一人、友人に『Maria』と言う子がいると言う。
いや……流石にそれは無いだろう。噂では『Iron Maiden』は日本人だと言われている。ジェイク氏の話を聞いてもきっとそうに違いない。アメリカのカンザスで暮らす少女の友人がとてもそうだとは思えない。
しかしそれでも一応一緒に待たせて貰う事にした。
さあ、次はどんな『Maria』が出て来るんだろうか――そんな諦めの心境で待ち『もう一人』のMariaがやって来た時、私は思わず席を立ってディスプレイに飛びついていた。
――ああ……これはきっと、本物だ……本物の『鉄壁のマリア』だ――私はそう、確信していた。
ブロンドのウェイブが掛かった髪。白いエプロンドレスに頭にはプリム。ジェイク氏の言っていた通り、アクセサリの様なシルバーゴーントレット。薄い緑色の光を帯びたバックラーはジェイク氏お手製、改修品だ。
何よりも連れている白い子猫――その名はCharles Perrault。確かこれは『長靴をはいた猫』の作者の一人の名だった筈だ。ジェイク氏から聞いてその名を知っていたがそれは公表しない事にしていたのだ。
私は緊張に震える指でなんとかキーを打ち込む。敢えてローマ字で挨拶をしてみた。すると――彼女は反応した。
「kon nichi ha」
そう言ってもう一人のMariaは妙な区切りのローマ字で返事をしたのだ。後になってそれが日本語特有の漢字、平仮名による区切りだと気付いた。
彼女はこれから学校へ行くからすぐに落ちると言う。
行ってしまう――本物の『伝説』が。どうしても、是非とも話をしてみたい。そう思った私は祈るような思いで彼女に電話番号を伝えた。
そのまま彼女はすぐにログアウトしてしまった。
ネットゲームの中で電話番号だなんて不審者以外の何者でもない。無視されて電話が来なくても当然だ。後になってその事に気が付き私は思い返して頭を抱えた。
しかしそれでも彼女は電話をしてきてくれたのだ。
*
結論から言えば彼女こそがそのものずばり、『アイアン・メイデン』本人だった。
彼女はジェイク氏の事を知っていたし彼の店の場所も憶えていた。以前プレイを始めて間もない頃にすぐ近くのダンジョンで他のプレイヤーに囲まれた中でダンジョンのボスを倒した経験もあった。レイドの事も憶えていて、私ですら知り得ない話まで知っていた。
但し、彼女自身はあまりゲームに馴染みが無い様だ。専門用語――例えば『Raid』だとか『Tank』と言った知識は持っていなかったしその意味も全く理解していなかった。
彼女はどうやら携帯電話から掛けてくれていたらしく私は電話を受けてからすぐに折り返す事になった。
私の携帯電話には今もアドレスに『鉄壁のマリア』の名前で彼女の電話番号が登録されている。恐らく……いや、絶対に電話を掛けると言う事自体、二度と無い……と思う。それでも私は今もなお大切にその番号を保存し続けている。
どうせだし実際に会って食事でもと思ったのだが彼女は『流石に会うのはちょっと……』と言ってやんわり断られた。それもそうか。見も知らぬ他人と会って食事だなんて彼女の性格から考えても絶対に出来る筈がない。
彼女の名前は藤堂毬絵。父親がアメリカ人の、ハーフの少女だった。
恐らくは日常生活の中でも英語をよく使っているのだろう。喋る時の発音やイントネーションが日本人離れしている。声を聞いている限りではか細い感じのする弱気そうな可愛らしい声の少女だった。
年齢を尋ねると中学校に今年進学したばかりの一年生らしい。時期としては……今は七月の初旬を過ぎた辺りでまだ三ヶ月程しか過ぎていない。
しかしそんな『中学生』が海外のプレイヤーと一緒に遊ぶ事が出来るのはおかしい。普段、学校に行っている時間に接続していなければならないからだ。ジェイク氏が参加したRaidも学生なら参加出来ない筈だ。しかしこれについてはすぐに理由が判明した。
彼女は学校でクラスメートの話す陰口を聞いてしまったそうだ。そこから登校拒否になって学校をしばらく休んでいたらしい。その間、恐らく自宅の自分の部屋から気晴らしに接続していたのだろう
元々ゲームが趣味のゲーマーなのかと最初は思った。しかしそれだとジェイク氏の話と辻褄が合わない。ジェイク氏は『彼女はゲーマーの視点ではない』と言っていた筈だ。私は彼女にどうしてあのゲームを始めたのかと尋ねてみた。
「……ダッド、お父さん、じゃなくて……。その、父が……パソコンと、ソフトを送ってきた、ので……」
彼女は言い難そうに何度も言い直しながらそう答えた。
冷静に考えてみれば……クラスメートの陰口を聞いただけで学校に行けなくなってしまう子だ。そんな繊細な少女がああいったゲームを好んでするとは考えにくい。自分からバトルゲームに進んで参加する様なアグレッシブな性格では無いだろう。
あのゲームは確かに戦闘をしなくても遊ぶ事が出来る。しかし戦闘をしないと言う事は街から表に出る事すら余り無くなってしまう。最低限の戦闘がどうしても必要になってしまう……そんな側面がある内容だ。
例えば……これはファンタジーが舞台のゲームでは戦闘は必須の要素だ。現実と違う異世界で恐ろしいモンスターが登場するのだから。日常生活も送る事は可能だがそれは常に危険と隣合わせ。
聞いている限りこんな弱気そうに聞こえる声と性格の少女が自分から進んでそんな娯楽に飛び込んでいくとは到底思えなかった。
彼女はカンザスの少女、赤毛のマリアとあのワールドで出会った。交流を続けていく内に友人となり、それが切っ掛けで学校へ通える様になったそうだ。今度学校が夏休みになるのを利用して実際に両親と一緒に彼女に会いにカンザスまで行く予定らしい。
もし彼女が学校へ行かなくなってそんな時間に彼女と会う事が無かったとしたら。きっと二人は生涯知り合う事なんて無かっただろう。そう言う意味では本当に縁とは不思議な物だと思う。
私はふと、世間で噂される『鉄壁のマリア』と言う存在について尋ねてみた。彼女が、自分が世間でどう思われていて話題にされているのかを知った時どんな反応を見せるのか知りたかったからだ。
だけど彼女の答えはやけにあっさりとしたもので私は呆気に取られた。
「ええと……凄いですね、なんだか良く分かりませんけど」
……えっ? それだけ? もっとこう、自分が注目されていて嬉しいとか恥ずかしいとか、そう言うのは?
まるで他人事の様に素っ気ない、尋ねられて困った様な反応に逆に私の方が戸惑ってしまう。けれど携帯電話からは少女のキョトンとした声だけが返ってきた。
「えっと……多分、それは私の事じゃないと思います……だって、私……本当に何もしてませんし。単にあのゲームで猫を飼って、お洋服を着せてあげて。ちっちゃなマリアちゃんが幸せになれたらいいな、って思いましたけど。あ、ですけど……カンザスのマリアちゃんと会えて実際に知り合えて、お友達にもなれたから……それはもう、凄っごく嬉しいです」
そんな返答に私はそれまで考えていた事に疑問を抱いた。その時点で私は書き上げた原稿を全て廃棄して本物の『鉄壁のマリア』について書こうと思っていた。
だがそんな反応を聞いていると『果たして書くべきなのか』と言う考えが湧いてくる。
もしこの少女が『鉄壁のマリア』の正体だと公表したとしよう。しかし恐らく彼女はそれを今みたいに否定するだろう。
真実としてはこの少女が本物の伝説、『鉄壁のマリア』である事は間違いない。恐らくジェイク氏や他の出会った人々に会わせても皆それを肯定するだろう。
しかしそれを本人が『違う、知らない』と言う。それを聞いた彼らはきっと黙って笑うだけの筈だ。彼女は彼らにとって『同じ世界に生きる仲間』であるからだ。恐らく私がそれを主張した処で良い事なんて何も無いだろう。
――無自覚に何かをやって成し遂げた者とは、こう言う事なのか――。
それは私自身、身に憶えのある事だった。けれど自分がそれを問う側になって始めて理解出来る。こんな風に返されてこんな心境になるとは思ってもいなかった。
昔、FPSのゲーム大会で私は優勝してしまった。その時、大勢の記者に囲まれて尋ねられた事があった。
私は『所詮ゲーム』だと割り切っていたから素っ気ない返事を返した。どれだけ自分がにべもない態度を見せていたのかを思い知らされる。
彼女が何とも思わずやり遂げた事が大勢の『誰か』の心を動かした。それだけは紛れもない事実だ。その中で彼女自身も他の『誰か』に助けられながらあの世界で生きてきた。
『鉄壁のマリア』――そう呼ばれた少女アバター。
あの金髪の少女は恐らく今もなおあの世界でフィールドを駆け回っているのだろう。
誰かに何かをするのではなく。
誰かに何かをされるのでもなく。
ただ普通にそこにいて、普通に生きて、普通に触れ合って。そうやってごく普通に繋がっていく。
大勢の心を動かしながら。
大勢に心を動かされながら。
そして……それを伝え聞いて、やはり心動かされた『より大勢の人々』がいた。それはきっと良い事だけでは無いのだろう。悪い事も沢山あるに違いないのだろうけれど。
現実の世界ではなく虚構の中の『ゲーム』と言う世界。それは単なる遊び、ただの遊びの中でしかない。
けれど……そんな虚構、嘘の中であっても彼女は実際に大勢の人の心を動かした。逆に彼女自身が心を動かされた事だってあったに違いない。例えば……あの赤毛のマリア、カンザスの少女の様に。
そんなとてもつまらなくて。だけど最高に素敵な事を、これからもずっと忘れないでいて欲しい。それが『ゲーム』に関わり続けて生きる者としての、私の本心からの願いだった。
その事を彼女に伝えてから最後に一言だけ。私は『あのゲームが好きか』と尋ねた。
「……ええ、好きです。素敵なところだと思います」
彼女は恥ずかしそうに、けれど嬉しそうにそう答えてくれた。それだけ聞くと満足して私は最後に『ありがとう』とだけ言って電話を切った。
*
――結局、雑誌に掲載されたコラムは大した反響は無かった。
反響があったのは国内よりもむしろ海外で通販での雑誌売上がいつもより増えているらしい。日本国内では未だローカライズされていない事もあってどうしても注目度が低い所為だろう。
例え世界的に噂になっている有名なプレイヤーが日本人……日本に縁のある人物だとしてもそれ程読者の興味は向いてはくれなかった様だ。
それでも私が担当していたゲーム・コラムの記事は続投される事になった。
本来ならこれが最後の記事で打ち切り予定だったのだが海外での反響が予想以上に大きかったらしい。日本語で書かれた記事なのにわざわざ英語に翻訳されてネット上で出回っているそうだ。
あれからも私はちょくちょくフォーラムを覗いている。相変わらず次々と記事が更新され新しい噂がどんどん舞い込んでいる。
今度はどのゲームにマリアが現れただの、全員がマリアのギルドがあるだの。なかなか笑える冗談の様な物もあったのだがそんな中に何故か私の名前が上がっていてぎょっとする。驚いて投稿された記事を追い掛けて読んで見る。
『実はあのライターが本物のアイアン・メイデンで、自分の正体がバレると困るから有耶無耶にしたらしい』
そんな事が書かれてあって世の中と言う物は本当に良く分からない物だと苦笑する事になった。
私がかつて出たゲーム大会の記録まで何故か引用されている。試合の動画やスコアまで掘り返されている。彼女なら充分にその下地も能力もある、と言う妙に説得力がある解説まであって非常に困った。
私は自分の書いた記事が掲載された雑誌を開いて眺めた。そこには真実はほんの僅かしか掲載されていない。知っている事の殆どは各々の胸の中だ。
走り出してしまった『伝説』はもう止める事が出来ない。それは例え本人が肯定しても否定してももう止まる事は無い。
『鉄壁のマリア』と呼ばれた少女アバター。彼女はもう『藤堂毬絵』という少女の元を離れてしまった。とっくに自分の足で歩き始めてしまっている。こうやって語り継がれる限り、それはもう二度と歩みを止める事はない。
真実を知る人々は伝説ではない『藤堂毬絵』と言う少女が操った『Maria』の事を憶えている。例えばジェイク氏や赤毛のマリア、実際に触れ合った事のあるプレイヤー達。彼らにとって『Maria』とは伝説でも何でもない、共に同じ世界に生きる仲間だ。
写真を送ってくれたダークスマッシャー氏が述べた『この思い出は自分たちの物だ』と言う言葉もきっとその時その場にいた者以外からは無責任な話題にしかならないと言いたかったのだろう。恐らく彼らは皆、今の状況を見てほくそ笑んでいるに違いない。
同じ空間で同じ経験をした者だけが得られる思い出は決して色褪せる事は無い。同じ世界で、同じ時を過ごさなければ決して得られない物がある。それが例え虚構で偽物の世界であったとしても残る物は本物に違いないのだ。
私はふと、かつて自分がプレイしていたゲームの事を思い出していた。あのゲームはこの世界とは違ってただ殺し殺される殺伐とした物だったけれど。しかしそれでも相手と本気で……勝負をしてきたのだ。
見も知らぬ人間とライバルとして、戦友として。相手が居なければ闘う事も出来なかったし争う事すら出来なかった。
たかが遊び、されど遊び。
そして私は今こうやって……その『遊び』に携わった仕事をして生きている。
まさかあの頃戦った相手や共に助け合った仲間達はこうやって私がこんな仕事をしているだなんて思ってすらいないに違いない。
ふと、あの頃争っていた奴らと再び会って話をしてみたい心境になってくる。そう言えば……あの頃、しつこい位に食い下がってきたAndyとか言う奴も今は一体何をしているんだろうか、と思い出し私は思わず頬を緩めた。
虚構の世界であってもこうやって必ず現実の世界に繋がっている。例え仮初の、偽物の世界であってもそれはきっともう一つの世界だ。
現実で知り合い友人になる様に私達はこうやって虚構の中で触れ合っていく。年齢や性別、人種さえも乗り越えて。ただ一人の人間として共に遊びながら。
さてと……それは兎も角、次は何の記事を書こうか。
それが今の私の悩みの種だった。