第十六話
あの嫌な出来事から数日、夢なら良かったのにと昼寝のときも含めて目覚める度に思う。
あの時のことを気にしないようにしようとすればするほど、あの時の出来事が頭の中で鮮明に映像として流れてくる。
人間の記憶は良い事が六割、悪い事が三割で、どちらでもないことが一割というのを聞いたことが何度かあるが、それは本当なんだろうかと疑いたくなる。印象に残りやすいからなのか、僕は嫌なことの方が覚えてる気がする。
今日は水着をお姉ちゃんと買いに行くという予定が入ってしまった。こういうときに限って誰からも誘われないのは、僕の生まれ持った悪運が発揮してしまったからだろう。
「そういうものは必要無いんじゃないかな」
何があるか分からないから、無いよりはあった方がいいかもしれないが、今はそんな気分ではない。それに急に用意しないといけなくなるようなものじゃないから、今じゃなくても遅くないと思う。
「そんなこと言うんだったら、今すぐ必要になるようにしてあげようか」
そう言った途端に携帯を取り出して操作し始めていた。お姉ちゃんの場合は本当に脅しで収まらないから、今は言うことに従っておかないと大変なことになってしまう。
「っていうのは冗談で、ちょうど行きたいと思ってたんだ」
「そうなんだ。本気でそんなこと言ってるんじゃないかと思って、実力行使しちゃうところだったよ」
恐らく茜さんあたりに連絡して、断れない状況に追い込もうとしていたんだろう。危うく最悪の状況に立たされてしまうところだった。
仕方なく出掛ける準備をすることにした。といっても朝ごはんはもう食べたので、あとは着替えるだけだ。
「空って私に隠してることあるでしょ」
着替えようとしてるところに入って、何を言い出すのかと思えば、冗談みたいなことを言い出してきた。隠し事なんてしてるつもりは一切無いし、出来るような環境じゃないと思う。
「私のことをさしおいて、胸が大きくなってるって知ってるんだからね」
確かに最近は下着が着けづらくなってきてる気がするけど、なぜそれをお姉ちゃんが知っているんだろうか。
「まさか覗きとかしてないよね」
そう言った途端に顔が青ざめていってるように見えた。冗談のつもりだったが、そんな反応をするということは、本当にやっているということで考えていいのだろうか。家族がそんなことをしているとは思いたくないが、お姉ちゃんならやりかねない。
「やけに視線を感じると思ったら、やっぱりお姉ちゃんの仕業だったんだね」
安直で誰でも見破られるような鎌をかけ方だが、これで焦るような素振りを見せれば、今まで気にしないようにしていた違和感の正体はお姉ちゃんで間違いないだろう。
「そんなわけないじゃない。私がそんなことをする人間に見えるの?」
むしろそういう人間にしか見えない。それに視線を一切僕から逸らさずに、手を握りこぶしにしていることから、嘘がバレないか緊張しているといったところだろう。本とインターネットで調べた知識だから、どれだけ合っているか分からないけど、自分も納得した情報だから大丈夫なはずだ。
「謝るなら今のうちだと思うよ」
まだ犯人と確定したわけじゃないが、逃げ道を無くして追い込まないと、口を割らないだろう。
「ごめんね。好奇心に負けて着替えてるところを覗いたら、歯止めがきかなくなっちゃって」
素直に白状して謝ってくれたことが嬉しくなると同時に、家族に向かって心理戦みたいなことをやって、精神的に追い詰めるようなことをしてしまった申し訳ない気持ちも出てきた。
「次からは許さないからね」
そう言いながら、お姉ちゃんが落ち込んでる姿を見たら、簡単に許してしまいそう。でも反省はしてるみたいだし、今回のようなことは二度と起きないと信じたい。
「ありがとー」
手を伸ばして僕に近づき、しまいには抱きついてきた。喜ぶのは別にいいけど、ハグをしてくるのは恥ずかしいし、このままじゃ着替えられないからやめてほしい。
「でも優しすぎるのは、私としてはちょっと心配かも」
僕の場合は人や状況に流されやすいから、変なことをされやすいんじゃないかってことだろう。でも周りがアレだから、そういうことに対しての対処法は身につけてきているつもりだ。それにしても、いつまで抱きつかれながら頭を撫でられ続けないといけないんだろう。気にかけてくれるのは嬉しいけど、そろそろ僕から離れてほしい。
「着替えられないから離れて」
いつまで経っても離れないお姉ちゃんと僕の間に手を入れるようにし、腕を伸ばして強制的に距離をとらせた。
「なんでまだここにいるの」
「空の生着替えをこの目で見たいから」
さっきの反省はどこにいったのか、堂々と人の着替えを見ようとしている。いろいろ言いたいことはあるが、そんなことで体力を使いたくないので、お姉ちゃんの姿は見えていないことにして着替えを済まそう。こういうことを潔く諦められるあたり、あの二人に軽く洗脳されていることがわかる。いくら家族で今の姿が同性だからといっても、人の着替えを躊躇もなく見るというのはいかがなものかとも思うが、そういう人なんだと思うしかない。
「着替えるの速いよ」
似たような人が僕の周りにも居るから、変なことをされないように着替えが速くなるのは当たり前だ。たぶん今では男だったときよりも格段に着替えるスピードは上がっていると思う。
「後で何回も見られるし、別にいっか」
予想していた反応とはいえ、僕で遊ぼうとしていると思うと、行きたくない気持ちが大きくなってくる。一人なのも緊張するが、付き添いが居るというのも恥ずかしいし、相手が相手だから怖いというのもある。
「行くなら早く行こう」
ただでさえ何もしていないと悪い方向へ考えてしまうから、この時間が続いてしまうと不安と恐怖心で押し潰されそうだ。できることなら、この地獄のようなイベントから抜け出したいが、そんなことは僕には不可能なので、さっさと済ませたい。
「そうしよっか。家にいても仕方ないしね」
やっと家を出て、春休みの時に服を買った場所のところへ向かった。目的地に近づくにつれて緊張が大きくなっていっていき、到着するころには心臓の鼓動が全身に伝わるくらい心拍数が上がっていたと思う。
まず下着売り場から入っていき、試着室で店員さんに測ってもらうと、案の定大きくなっていた。カーテンを開けて試着室から出ていくと、お姉ちゃんがもう下着を持ってきていた。僕のサイズがどのくらいか知らないのに、当てずっぽうで適当なものを持って来られても面倒が増えるだけだ。
「お客様に申し上げましたっけ」
店員さんが困惑していた。測り終わる前に選んでくるなんてどういうつもりだろう。
「サイズなんて服の上から見ただけでも直感的に大体分かりますよ」
そんな特殊能力みたいなものが備わってるわけがない。店員さんも僕と同じ考えだったのか、まずサイズを確認していた。
「ピッタリのサイズだ」
ボソッとつぶやき、驚いたような表情をしてながら、僕にそっと商品を渡してきた。寸分の狂い無く当てたのは凄いと思うが、単なる偶然に決まっている。それよりも派手めのものばかり選んでいるというのは、僕に対しての嫌がらせと受け取っていいのだろうか。
とりあえず元の服装に着替えて、お姉ちゃんが選んできたものを商品棚に戻して、自分で探すことにする。結構いろんな種類があって、シンプルなものも両手じゃ数えきれないくらいあるんだから、目立たない普通のものを選んでくれれば良かったのに。
店員さんと一緒に見てもらいながら、決めていくのが確実だけど、さっきから姿が見えない。仕方なく一人で僕に合うと言われたサイズのところから選んでいく。無難なものを手にとっていると、白と黒の無地ばかりになってしまったが、同じような種類でも大丈夫だろう。
とりあえず全部試着してみたが、特に不満なところはなく、レジのところに向かおうと思ったが、私が払うと言っていたお姉ちゃんが居ないから行こうにも行けない。一体どこで何をしてるんだろうと、店中を捜しても全然見当たらない。やることがなく歩き回っていると、関係者以外立ち入り禁止と貼り紙に書かれている扉の向こうから、店員さんとお姉ちゃんが話し声が聞こえてきた。
「ここで働いてみませんか。中川様のような方は大歓迎ですよ」
お店の方から勧誘されるって、何をしたらそういうふうになるか気になるけど、このまま聞き耳をたてる訳にもいかないが、ノックして呼び出していいものなんだろうか。
「お誘いは嬉しいのですが、すいません」
「こちらこそご迷惑をお掛けしました。お詫びとしてはなんですが」
この様子だと何かを貰っているんだろう。どういうものを貰っているかは知らないが、そこまでしてもらわなくてもいいと思う。
「そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ」
「私共の気持ちですから、お気遣いなさらなくていいですよ」
なかなか引かない人だなと思いつつ、ドアのそばから離れた。結局何もすることが出来ず、ずっと盗み聞きをしてしまった。こんなことをしてしまうなんて、僕も人のことを言える立場じゃないな。
しばらく経つと、お姉ちゃんと僕のサイズを測ってくれた店員さんが出てくる。
「千円分の割引券貰っちゃった」
お姉ちゃんは申し訳なさそうな感じで、僕に割引券を見せてきた。嬉しいけど喜ぶのも店側に失礼な気がするから、複雑な気分になるのは仕方ない。
「同じようなのばっかりじゃない」
僕の選んだものを見ると、愚痴をこぼしながら違う色や種類のものを勝手に取って精算していた。たぶん着なかったら強制的に着けさせられるんだろうと思うと、この先が思いやられる。体育が無い日とか誰にも見られないであろうときにお姉ちゃんが選んだものを着けよう。
「お昼にしよっか」
時間を確認してみると、体感時間では夕方の感じだったのに、まだ正午を過ぎたあたりだった。ガッカリしながらご飯を食べられるところを探していると、偶然にも雅紀くんを見つけた。
あの人が居るってことは、あの二人もどこかで買い物してる確率が高い。話しかけると面倒なことになりそうだし、あっちも僕達の存在に気づいたように見えたが、気を遣ってくれたのか、何も反応を示さなかった。
「空と風華さん」
何事も無かったかのように廊下を通ろうとしたのに、茜さんと七海さんに見つかってしまった。
お姉ちゃんと話している二人の後ろで雅紀くんが手を合わせて謝るジェスチャーをしている。そんなことしなくても、僕達に気を遣ってくれただけでもありがたい。
「私達も同じところに行くんで、一緒に行きませんか」
いつの間にそんな恐ろしい話になってるんだ。そんなことをすれば、絶対に茜さんが暴走して、着せ替え人形にされる時間が増えるに決まっている。
「別にいいよ。でも昼ご飯が先ね」
仲睦まじく話している三人の後ろを付いていくようにして、雅紀くんと一緒に歩いている。何も話さなくてもいいというのは気持ちが楽で落ち着くし、たまには他の人の会話を俯瞰で見るというのもいい。
「どういうの買うんですか」
昼ご飯を済ませて、今は水着売り場に来ている。これから起こる試練に備える時間がなく、心の整理が全くついていない状態で来てしまった。
「どういうのがいいんだろう」
一瞬だけお姉ちゃんの目線が僕に向けられる。どういう意図があったのかは分からないが、軽く脅迫されているように感じた。様子を伺うためにチラチラと見ていたが、目が合った瞬間、反射的に逸らしてしまった。
「たまには本人に選ばせてあげよっか」
ここにきて新たな処刑方法を思いつくとは夢にも思わなかった。自分で自分のものを選ぶのは普通のことだけど、どんなものを選んでも何かしら言われそうだし、頭を使わないといけないから無心の状態になれない。
「可哀想ですからね」
なんでもない表情をしているが、全員が悪いことを考えてるようにしか見えない。雅紀くんが女の子だったら良かったのにと思ったけど、よくよく考えてみると、可愛らしいまま成長していくだろうから、僕と同じような実験台を続けられていることだろう。
案の定、僕が選んでいるときの三人は、監視カメラのごとく見てくる。考えすぎかもしれないが、あまりにも普通のものを選ぶと、視線とか圧力で選び直さされる気がする。だからと言って、茜さん達が選びそうなものを手に取って、変な勘違いされるのも嫌だ。ちょうどいい感じのものはどこかに売っていないだろうか。
「自分達のは買わないの?」
僕から離れてくれという想いが、自然と口から漏れてしまった。こんなことを言うと、余計に意識がこちらへ向いてしまう。会話に集中させるなんていう話術があれば別だが、そんなものがあるなら元から苦労なんてしない。
「空が買ってから考えようかな」
想定通りの返答にガッカリすると同時に、一段とプレッシャーがかかった気がする。もう相手に合わせても仕方ないから、自分が着られると思うものにしよう。
まずビキニ系統は論外として、ワンピースの白が普通でいいかもしれないが、狙いすぎているような感じもする。でも柄物に挑戦するのも怖いし、他の色のもので考えよう。
とりあえず手に取ったもので試着してみると、全部違うような気がする。こういうときこそ周りに頼りたいのだが、運が悪いことに僕で遊ぼうと思っていそうな人ばかり。親身になって考えてくれるときもあるが、今の状況でそんなことをしてくれる可能性は限りなく低い。もうどうすればいいか分からないし、一つに絞らなきゃいけないってわけでもないから、迷うくらいなら手に取った三つ全部買っておくことにする。
「ワンピースって体のラインが出やすいらしいし、空にはこっちの方が良いと思う」
お姉ちゃんがビキニを持ってきていた。体のラインが出やすいというのは、なんとなく聞いたことはあるが、露出が多いのは嫌だ。それに知らない男の人にモテたいわけじゃないから、そんなものは必要ない。
「あんまり肌を見せたくない」
しゅんとして落ち込んでいるように見えるが、絶対に僕に着させるよう計算してやっているに決まっている。自分で選んでもいいと言われたんだから、今日は遊ばれないように気をつけないと。
「そんなこと言わずに着てあげたら」
そう言いながら僕の隣に来て、茜さんのお母さんとアレをやっていたときの写真を見せてきた。脅しをかけてきたらどうしようとは思っていたけど、何も解決策が出てこなかったから、そのまま時が流れていってほしかった。
「やっぱり空は優しいね」
無言で頷くと、七海さんが褒めてきた。携帯を見せてきた張本人が言うと、からかっているようにしか聞こえない。
「着替え終わったら見せてね」
笑いながら言っているのが、余計に腹が立つ。それも着替えさせるよう誘導してきた人物だから、なおさらだ。
「こっちの方が似合ってる」
渡された水着に着替えると、お姉ちゃんの言葉に皆が頷いた。払ってもらってる立場だから、一つくらいは好きなもの買わせてあげないと可哀想と思うことにしよう。
ビキニ系とワンピース系を三種類ずつ買った後、それぞれ自分の好きな水着を探しに行った。そのまま残るのも精神的にくるものがあるので、雅紀くんと一緒に店の外で待っていた。
「大丈夫だった?」
この人が今日居なかったら、抜け殻になっていたんじゃないかというくらい疲れていたので、気をかけてくれたのが嬉しかった。ついその嬉しさから、話し込んでしまった。
「私ばっかり話しちゃってごめんね」
返事する隙も与えないくらい一方的に喋ってしまい、自分が別人みたいだった。話が止まらなくなってしまって、相手に話させないなんてことはないのに、今日はいつもと違っていた。
「そんなこと気にしなくて大丈夫だよ。毒を吐き出したく気持ちは分かってるつもりだから」
嫌というほど経験してきたから、言葉に重みがある。でも僕だけ愚痴を言うのは申し訳ないので、雅紀くんにも話してもらった。
「何話してるの?」
僕達が話してるところに、ようやく三人が戻ってきた。もうやることは特に無いので、皆で帰ることになった。
「こんなもの着させて大丈夫なのか?」
雅紀くんが買ってきたものを見る。勝手に見るのはどうかとも思ったが、変なものを買ってきていないか心配だったんだろう。
「大丈夫。私が変な奴を追い払ってあげるから」
このメンバー以上に変な人が居るとは思えないけど、守ってくれそうな感じはする。けど今はそんな未来のことより家に帰ってからのほうが心配だ。




