第三十九話 闇の一族
少年の名はマルコといい、【魔族】の僕『闇の民』の生まれだった。
『闇の民』は、遠い先祖が【魔】と契りを交わし誕生した、魔の血族である。
ただ種族的には大部分が、他の三種族「人族、獣人族、天人族」、又はその混血と大差はない。
目に見える種族的特徴があるとすればただ一つ、身体の何処かに魔族の烙印があるだけだった。
この地方の『闇の民』六大部族の内、元人族が最大数を占める『忌』の部族の一員として生を受けた少年は、皆がそうである様に、常日頃我物顔で陽の下を闊歩する普通の人々を忌み嫌い、憎む様教えられていた。
「奴等こそ我等を不当に忌み嫌い排除せしめむ怨敵」
「「神」の名の下、我等の友や家族を虐殺し、住処を奪う簒奪者」
「絶対に赦すまじ、利己、欺瞞の排他的存在」
それが彼らの思想の根幹であった。
『闇の民』は神々側の人種を『簒奪の民』と呼び、彼らがそうされてきた様に蔑んだ。
その日十五歳になった少年―マルコは、仲の良い友人達の誘いを断って、村の近くの山合にある洞窟を独りで訪れていた。
来年には成人となり、【魔族】と契約を交わす為の場所である。
今夜はその成人の儀の際に、より強い【魔族】と契約できる様、召喚術の実験をしようとここへ来たのだ。
月光に照らされてはいるが、目の前の入口より奥は更に暗く、かなり深く広い洞窟としか知らない。
中に入り、トーチを付けると黙々と進んで行く。
途中幾つかの分かれ道で自分専用に編み出した魔印を施し、やがて祭壇の跡が残る場所へ出た。
「ここか…」
自分の持つトーチに照らされ、洞窟壁のそこかしこに配置された水晶が、開けた空間に僅かに光を分散させる。
壁際の松明を数本灯していくと、魔法陣の舞台を囲む様並べられている、十二本の石柱が深い陰影に浮かんでくる。
――父親がある使命を受け遠くへ旅立ってから三年、三日と経たず交わしていた魔術交信が途絶えて、もうどれくらいだろうか。
もしかしたら父は、もうこの世には居ないのかもしれない……
一抹の不安が胸を押し潰す。
少年の母親は、昔「簒奪の民」共から住む地を追われた時の傷が元で既に他界していた。
その所為もあって父子は、「簒奪の民」に対する憎しみを日々募らせてきたのだった。
この辺り一帯は人里からそこまで遠くは無いが、古来【魔】の結界が強い場所らしく、「簒奪の民」共からは一度も発見された事はなかった。
せめて母がこの地で育っていたなら……何度母の面影を思い出し、枕を濡らす夜を越しただろう。
簒奪者共め!…絶対に赦さない…僕が……いや俺が、必ず滅ぼしてやる!
父親との交信が途絶えた不安は、憎しみを燃やす事で打ち消すしか無かった。――
マルコは自分と同じ位の高さの石柱が囲む、大きな六芒星形の魔法陣跡の上に立ち入り、魔文字を準えたりして召喚魔法陣の準備をしつつ、もう何度目か判らない血の滾りを胸の内で滔々と燃やす。
その時ふと、洞窟の更に奥の方で声が聞こえた。
それは泣き声…叫びと嗚咽、それに呪詛である。
誰か居る。…それも複数…。
誰も居ない時を見計らったつもりだったのに。
普段大人たちから、
『この洞窟には【魔族】との契約の時まで、決して入ってはいけない。』
と念を押されてきた事もあって、気付かれない様忍び足になる。
洞窟の壁に反響して彼方此方から囁きの様な呪詛と嗚咽が木霊になって、方向感覚がおかしくなりそうだ。
マルコに取って、普段呪詛など幼い頃から耳にし、子守歌くらいの感覚でしか無かったが、この呪詞は聞いた事も無い類のものだった。
常に追われる立場の『闇の民』は、基本的に用心深く、軽はずみな好奇心は危険を招く事を身を以て承知している筈のマルコは、何故かこの時奥に進んでしまった。
理不尽な程抗い難い好奇心……吸引力さえ発揮する異様な高揚に導かれて。
そのまま進み、もうどれ位歩んだのか判らなくなって来た頃、不意に目の前が開けた。
(なんだここ……? アレは…あんな大きな祭壇…一体何を呼び出すんだろう?)
声に出さなかったのは、流石に幼い頃からの用心深さの表れだろう。
一見、洞窟の中とは思えぬ程の広さの空間には、細部などとても分からないくらい高い天井、横にも奥にも遠い壁や足元の床には、一面ビッシリと生えた苔類が光っている。
その苔生した地面が途切れ、先の方に石畳で造られた広い場所の端に、魔術の火に照らされた建造物が見える。
それは階段を有した大きな高台であり、その根元から先には地底湖が霞んだ奥まで広がっている。
高台の付け根手前正面には巨大な石塔が六本、円状に配置されていた。
大きいと判るのは、そのサークルにはまだ距離があるのに、石塔で囲んだ円の真ん中に魔法陣と思しき紋章が刻まれ、その中に居る三人の大人達の倍以上の高さだったからだ。
マルコには、石畳の高台と魔法陣のサークルその物が、とても大きな祭壇に見えたのだ。
足元を見るとマルコが出た壁口は、この広い空間の地面より大人一人分ほどの高さで、下の地面には別の出入口の穴が横にあった。
呻き声と泣き声、今は其れに恨みの声が混じる――。が段々横穴から大きくなり、遂にはその人物たち六人の女たちが出てきた。
呪詛は正面の祭壇で呪う大人達からである。
(ゴブリンたちに小突かれてる……なら「簒奪の民」共かな)
村の仲間ならすぐ判る。何より『闇の民』は同族をあんな風に無碍に扱う真似はしない。
寝返る事が絶対にないからだ。少なくともマルコは今まで一度たりとも聞いた事が無い。
両手を縛られ衣服など泥まみれの、見かけた事のない女達が泣き叫び、嗚咽を洩らしながら、顔中ドロドロにして【魔族】の妖精達数匹に引っ張られ、小突かれていく。
六人ともまだ若い。ー自分と同じ位だろうか。
大方結界付近をうろついて捉えられた、近隣の奴等だろう。
(ふん……贄か。「簒奪者」共め、いい気味だ)
見下し、少年らしかぬ愉悦の表情で様子を見るマルコ。
贄の儀……幼い頃からその儀式自体はどんな物か聞かされていた。
捕えた「簒奪の民」に、日頃の恨みの鉄槌を下すのだ。
ただ、この「忌」の部族のやり方は、部族の村人が直接手を下すのではなく、召喚した魔物に供物として捧げるのであった。
罪人共に恐怖を与える? そんなモノは当り前で、些細な事である。
単に怨みを晴らす為に、簡単に直接殺したのでは「簒奪の民」共と同じ次元であり、心底「簒奪の民」を忌み嫌う『闇の民』は、奴等とは根本から違うやり方を好むのだ。
「無論、時と場合に寄るのだがな。……息子よ、奴ら「簒奪の民」に対しては慈悲など有得ない。絶対に忘れるな……奴等が常日頃、我等に何をしてきたのかを!」
マルコは父の言葉と、実際に母が自分を残して逝ってしまった原因を思い出し、怒りでブルッと身を震わせる。
と、村の妖精達に連行される女達の中の一人が、其れまでより更に発狂した様に喚き散らしだした。
「アンタよ! やっぱりアンタが魔族だからこんな事になったのよ!」
「ヤメて…ちがう…皆が勝手に」
「死んで! 今すぐ死んで! この印持ちめ!」
「地獄で詫びろ! この魔族め!」
「なんでアタシ達殺されるの?! アタシ魔族じゃないのに! 魔族はコイツだけなのに!」
「オマエなんか…地獄へ行くんだ! アタシ達は天国でオマエを嘲笑ってやる!」
罪人どもが仲間であろう筈の一人を、残り五人が寄ってタカって嬲りだした。
両手を前で縛られても掴みかかり、終いには足でケリ突け、自らムリに振り上げたその反動でひっくり返り、地団駄を踏み暴れ出す。
醜悪その物の醜態を曝して、ゴブリン達ですら呆れている。
(バカが。とうとう狂ったな。大体それが本当なら寧ろ)
――贄にされるのは、尚更お前達狂人五人の方なのに。――
マルコはつくづく「簒奪の民」の女共を、虫を見る様な目つきで見下した。
この時マルコは、何故か虐待される娘を勘定に入れて無い事に気付かなかった。
ー或いは既に、その娘に幾ばくかの同情の念を抱いたのかもしれないがー
喚き散らし暴れ出した「簒奪の民」の女共は、其れが逃げ出す算段なのか転がり廻り最早泥と苔塗れで抵抗するも、大人たちに促されたゴブリン達は一切容赦せず手に持った棒で大人しくなるまで叩いた。
「ちがう!…どうしてそんな酷い嘘をつくの…私は魔族じゃ…ない」
元々散々泣き腫らした様な顔で呟く少女を見て、マルコは何となく事態を理解した。
なるほどその容姿は、人族と獣人族、天人族の種族特徴もある「混血」で、尖った耳など見ようによっては魔族的な要素と見えるかもしれない。
が、根本的には独自が持つ筈の「魔印」が無ければ『魔に起因する』一族とは見なされない。
――大方虐待を受けてきた、ただの女の子供だろう。
いっその事魔族だと嘯けば良いのに……。
ソレにしてもやっぱり『ザルタン』共は同族をすら貶める、見下げ果てた外道だ――。
そこまで考えて、ふともう一度虐待されていた娘を見る。
よく見ると、背中の首元に血の滲んだ切り傷の様なモノがある。
マルコは気付いてしまった。
……まさか……そんな事までやるのか?!
「まって! 待ってください!」
思わず身体が飛び出してしまった。
もし自分の想像どおりだとするなら、居ても立っても居られなかった。
単に確かめたかっただけだった、少なくともこの時はまだ。
「っ……!」
飛び降りたは良いが思ったより高く、着地に見事に失敗して苔に滑り、足首を捻った音が殊更大きく感じても、悲鳴はこらえた。
「はぅ!……」
直ぐ様走り出そうとして、激痛に身を捩り片脚を引き吊りながら、マルコは追いすがる。
大人達がこっちをみて、一瞬咎める様な表情を浮かべたが、それを意識した次の瞬間、フワッと抱えあげられた。
「見ていたぞ。足を挫いたな? 子供のくせに無茶をする」
「あ、貴方は?!……フリード様!」
何処から現れたのか全く判らなかったが、その声と気配には覚えがあった。
全身に禍々しいオーラを纏う、重厚な暗黒の騎士だった。
彼は魔族側につく珍しい人種――機械人――である。
漆黒の重鎧姿でありながら、凄まじい速さの剣捌きと怪力、体術の達人でマルコが初めて会った時から負傷した噂すら聞いた事がない。
村にはたった一人しかいない機械人であり、聞いた話だと嘗て魔界のドラゴンすらたった一人で打ち負かしたという傑物…。
少なくともマルコの父達より何世代も前の生まれらしい、だが魔族側として仲間から絶大な信頼を得ている、部族の英雄である。
「あ、ありがとうございます…」
「あの贄を助けたいのか?」
「僕は印を確かめたい……だけです」
「…「神側の人間」達の本当に醜い一面を再確認するだけだぞ」
「……」
多分、暗黒騎士のいう通り、十中八九あの娘は魔族側の人間では無いだろう。
首の後ろに彫られた印は、恐らく神側の村の者がやったのだろう、ひどく雑で痛々しい。
虐めるにしても自分達と同年代のやり方にしては酷すぎる。
アレでは追放処分と同じだ。
こんな世の中であんな娘が単身、外に放り出されれば、間違いなく即日魔獣の餌になるのは誰の目にも明らかである。
――ただでさえ数の多くない『闇の民』は、いや、例え村が人で溢れていても、同族に絶対にそんな事はしない。――
少なくともマルコはそう思っている。
恐らく貧しい村故の口減らしだろうが、同族にあれだけ惨い仕打ちをされたなら…
さぞ憎み、怨んでいるに違いない。
決して多くは無い自分達の部族に取り込み、仲間を増やそうと考えた。
足首からは鈍痛が走るが、この時何故かマルコは、自分を片手で軽々と掴み歩くフリードに、そう殊更真剣に訴えた。
渾身の思いを込めて。
「フン、それもまた一興。好きにすればいい」
運ばれた魔法陣に陣取る大人たちに詰問されたが、部族の英雄フリードの口添えもあって、マルコの言い分は贄の儀の裁決にて。という事になった。
要するにこれから呼び出す何者かの選択に託す事になったのである。
通常なら贄にあぶれた者は問答無用で妖精たちの餌になる所を、生存のチャンスを与えられたのだ。
無論かの娘が、コレから呼び出す魔物の趣向から外れて、生き残ればの話ではあるが。
それでも恩情といっていいだろう。
思った通り高台は祭壇の本檀になっており、その中央には何かの像が祀られていた。
像を中心として円状に等間隔に配置された、贄となる生娘六人は、召喚する大人たちの魔術によって、直ぐに身動き出来ない様見えない鎖に繋がれた。
狂った五人の女共が円状の五芒星形魔法陣の各頂点に、かの娘は中央邪神像の直ぐ側に。
やがて高台の向こう側の地底湖が波打ち、湖面を突き破って異形の怪物が姿を現した。
少年は日頃、何れ契約する筈の魔物に興味を持ち書物などを読み漁り、ある程度の魔物を見ても驚かない自信があった。
だが、実際にその呼び出されたモノは、一体何の種族かも判らなかった。
ただただおぞましい、正に姿その物が異質な悪意を撒き散らす異形のモノだった。
不定形の様な、一定の形を保っている様な、捉えどころもなくヌメヌメと不気味に蠢く塊。
強いて言うならナメクジの化物に、繊毛状の無数の茸がビッシリと生えた、如何にも気味の悪い姿。
鼓動する体表から生える茸は実際には蠢く無数の触手であり、身体(?)が大きな為バランス的にはかなり小さく見える。
が、正視に耐え兼ねる――身の毛のよだつ悍ましさを振り切って――その姿をよく見ると、その一本一本が丁度大人の腕程も有り、また形もソックリなのに、贄達に向かって広げたその真ん中にヤツメウナギの様な口、更に中には凶悪な牙が無数にあった。
正面から其れが垣間見えた時、異常なディティールを伴った全体の余りの異形に、思わず気持ち悪さで吐く所を、少年は何とか堪えた。
なのに目が離せない。
(こんな……魔物……なのか?……なんて悍ましい…)
少年は嗚咽を堪えながらも凝視せざるを得ない、異常な現状に困惑する。
召喚した大人達でさえ、その顔には怖気を伴っているのがありありと感じる。
その触手――食手と云った方が近いか――は、祭壇をうろつき這い廻り、一人ずつ贄を喰らっていった。
円状に繋がれた五人の贄達は最早何を叫んでいるのか判らない。
魂の根源から揺さぶられる恐怖に真に発狂錯乱し、口から泡を吐き鼻や目、耳からは既に血を流しながら、其れでも何故か気絶する事すら許されない……出来ない様である。
(これが本当の地獄の苦痛だろう……)
とうとう正視出来ず、必死に目を逸らしかの娘を見ると、既に意識を失っていた。幸いな事に。
そして―――耳をつんざく絶叫が途切れ、骨を砕きそのまま飲み込んでいく様は、如何に憎き「簒奪の民」とは言え、そのあまりのおぞましさに少年は全力で耳を塞ぎ、両目を瞑った。
なのにたった今、脳裏に焼き付けられた光景が、自分では制御不能な程想像力を勝手に強化して問答無用で映像が思考に浮かび出される。
少年は困惑して遂に我慢が出来ず、堪り兼ねて思い切り何度も吐いてしまった。
其れでも聞こえてくる咀嚼音と何かを啜る音がやがてしなくなり、圧迫感が消えると目の前の祭壇には一滴の血も残さず、怪物が背を向け湖面に帰っていくところであった。
あの娘は…と祭壇を確認するまでも無く、像が有った筈の中心には変わりに気絶したままの娘が横たわっていた。
少年はホッとして自分の手が白くなるのを通り越して血が滲む程握り緊めていたのに気づき、やっとの思いで拳を広げるのであった。
涙と鼻水で顔中べちゃべちゃになった娘に彫られた、首の後ろのただの刺青は、それから部族の仲間の証になった。
その娘は翌日朝方に目を覚まし、運ばれた見知らぬ部屋で自らの今後の身の振り方を、マルコから教わった。
始めの内は嘆き続け、世を呪う陰鬱で淀んだ目が暗い双眸を際立たせていたが、既に贄という【魔】の洗礼をうけ無事生還した事、また返って娘のその瞳に宿る暗き怨の炎が部族の村人たちの共感を呼び、目立った反発もなく穏やかに受け入れられた。
一方のマルコは、召還の洞窟の奥底、贄の祭壇の合った場所――大人達は禁断の地、《ハイパーボリア》と呼んだ――へ成人前に侵入した事をこっぴどく叱られた。
判り易い体罰は無かった。ただ替わりに何故そこが禁断の地と呼ばれるのか、魔術を乗せた口伝を教えられた。
それは想像を絶する恐怖と苦痛を伴った。何故ならあの【怪物】に因んだ事であったから。
あの見るだけで吐き気を催す異形と其れが成した贄の儀を思い出し、少年は魘される。
そのあまりの苦痛に、黒い頭髪は元々若白髪があったのだのが、益々多くなり灰色になってしまった。
――――――――――――
十日も経つと、娘は自分が嘗てない程、周囲から悪意を投げつけられない事、受け入れられている事を理解し、段々自ら打ち解ける様になっていた。
娘はラナンと言い、当然の様にマルコと親しくなった。
そんなある日の事
「マルコ! どこにいくの?」
「やぁラナン、えっと…やっぱり内緒」
「えー、意地悪!(お父さんに交信? それとも召喚術の実験?)」
敵わないなぁ、バレちゃってるし。
「お見通しか」
「もちろんよ。私、マルコの事ならすぐ判っちゃうの」
仕方ない、とまだ完治していない片脚を若干引き吊りながら、一緒に村を出て山合の結界間際まで歩く。
「髪、白くなっちゃったね」
癖なのだろう、ラナンは連れてこられた時から手首に嵌めている、小さな珍しい腕輪を無意識に撫でている。
前の村に居た時、村を訪ねてきたある騎士から、御守り替わりに貰ったものだそうだ。
ピッタリ肌にくっついて、とても細く、観た事も無い金属で編まれた、手の甲側に小さな水晶が装飾してあるだけのシンプルな腕輪。
ラナンは語ってくれた。
――騎士はネックレスを外し、少女に授け様と片膝を付き両手を伸ばした。
その時ラナンはネックレスを授かる作法など知らなかったので屈まずに立ったまま、直接受け取る物だと思い、右手を差し出した。
するとネックレスだった物がまるで意志在るモノが如く自分の手首に併せてサイズを変え、自然に馴染んだ――という。
つまり、余程高度な魔道具の様である。
「騎士様に貰ったの……外から来たあの人達だけだった。私を当り前の人間として扱ってくれたの……判る? 今まで誰にも相手にされなかったのに……夢みたいって、まるで御伽噺の御姫様になったみたい、て思ったの……私の、たった一つの宝物なんだ」
と、唯一の良き想い出を語る少女に、少年は流石に捨てろとは言えなかった。
だがその騎士達が去った後、結局住人に裏切られ天涯孤独だった身寄りのない少女は、口減らしの為に態々「魔の印」まで刺青されてしまった。……そこから先は言うまでもない。
さぞ辛い思いをしてきたのだろうと、マルコはラナンに深く同情していた。
ただ、贄の供物になったあの狂人共五人が、騎士から唯一プレゼントを貰ったラナンに酷く嫉妬して、村人達に有らぬ噂を撒き散らした醜態を聴いたマルコは、その五人の女共に対して心底自業自得だと事も無げに一蹴した。
嘗ては無条件で忌み嫌う種族の一員であったラナンに対しては、もうなんのわだかまりも無い。
未だに魘される時もあるが、あの禁断の地での贄の儀での出来事も、既に無理やり記憶の片隅に追いやっている。
寧ろ、よく生き残った者だ。と今ではその強運に感謝している。
ラナンの屈託のない笑顔がとても眩しく感じる。
マルコはとっくに心の内で認めていた。自分がラナンを好きだという事を。
晴れて部族の皆も迎え入れたのだ、誰に構うものか。
成人したら結婚を申し込むんだ……。
そう夢見るのが今のマルコを嘗てない程穏やかにさせている。
(父さんには知らせたいな)
と未だに無事かどうかも分からない連絡の途絶えた父親、イブスの面影を思い出していた。
「ここから先は結界を出るけど…未だついてくるのかい? 危ないかもしれないよ?」
「大丈夫、マルコが一緒ならどこでもいい。」
そんな嬉しい言葉にマルコは有頂天になっていた。
自分達を狙う、魔獣の気配に気づかない程……。
暫く進むと、もう少しで目的の場所に差し掛かる所まで来た時だった。
ザザ! と近くの草木が不自然になびく音で、我に返るマルコとラナン。
既に取り囲まれている…一匹一匹は大した奴じゃないが……
「(マズい…! ラナン、逃げるよ!)」
コクと頷くラナンは既に唇が真っ白になっていた。
マルコは幼少の頃から知識欲が強く、村では大人達とも肩を並べる程魔術に精通している。
結界近辺なら、一人で出歩くのを許されている程度には、自衛能力も申し分なかった。
が、ここは既に完全に結界の外である。全力疾走しても結界迄は数分掛かってしまう。
マルコは鞄に何を入れているのか瞬時に思い出し、幾つかの脱出経路を頭の中で組み立てる。
素早く、最短で且つ最善の方法は――
本来マルコの強みはその用心深さから来る用意周到さである。
片手で素早く手荷物から魔法具を取り出し、小声で呪文を唱えるとあっという間に二人の姿が気配ごと掻き消えた。
そのままラナンの手を取り、一目散に結界へと走り出した。
追ってくる魔獣の気配はない様だが、もし一匹でも見つかるとマズい事になる。
アレは群れで襲う奴らだ。
直ぐに仲間が数十頭単位で合流し、獲物がまごついてる間に八つ裂きしてしまう、油断できない魔獣共なのだ。
(せめて妖精達を呼べるくらい結界に入らないと!)
目の前に結界境界が感じられる所まで来ると、後ろを振り向く。
即興の隠れ術は切れたが、幸い未だ奴等は此方には気づいていない様だ。
ホッと力を抜いた時だった。
「マルコあぶない!」
いきなりだった。
前を向こうとした瞬間、横から黒い大きな何かに腹を殴られた。
何処に潜んでいたのか、正確には巨大な牛の様な姿をした魔獣に横殴りに引っかかれた。
だがその暴風の様な風圧と、とっさの身のこなしで直撃ではなく、外側の革の胸当てごと衣服がまるで薄い紙の如く巨大な爪に引き裂かれ、比較的硬い金属のバックルに引っかかり飛ばされたのだ。
「げふぅ!」
それでも肉体は相当のダメージを受け、更に衝撃はとどまらず、マルコは何回転も宙を舞い、地面に投げ出された。
叩きつけられた衝撃と急激に回転させられた所為で軽い脳震盪を起し、意識が朦朧とする。
ラナンを逃がさなきゃ…
歯を食いしばって頭を挙げると、不意に影が差した。
必死に目を凝らすと、一気に血の気が引いた。
「だ! ダメだラナン! 逃げろ! 早く! 逃げてくれぇぇ!」
ラナンが魔獣と自分の間に立って両手を広げていた。
魔獣は頭を低くし、唸り声を挙げて頭部の角で薙ぎ払った!
死 な せ る も ん かぁ!
マルコは必死に飛び出し、ラナンを全身で庇った。真横に飛ばされる二人。
【魔】の結界内に弾丸の様なスピードで投げ出され、丁度若木を数本へし折り、そのままの姿勢で地面に滑り落ちる。
ぐふぅ、とマルコは口から血の塊を吐き出し、それでも必死に両腕に抱いたラナンに喚く。
「ラナン! …しっかりしろ! ラナン!」
既に力なく横たわる彼女には、腹部に致命的な穴が開き、そこから血が大量に溢れ出していた。
ラナンは目を閉じ、急速にその肌の色が真っ白になっていく……マルコの腹にも同じ位置に穴が開いていたが、そんな事はどうでも良かった。
獰猛なベヒーモスと呼ばれる魔獣が【魔】の結界に阻まれ、こちらを諦めて去っていくのも関係なかった。
「イヤだ…! ダメだ! 死んじゃダメだ! ラナン、目を開けてくれぇぇええ!」
ゴブリンを呼ぼうにも両手が固まって動かない。
最早マルコもラナンと同じ様に瀕死の重傷…と云うより殆ど死体の状態なのだ。
肺は潰れ、気力だけでラナンを呼び、地に空に訴えるマルコ。
誰か…誰でもいい…魔の眷属よ…いや魔王よ! 僕の魂をやる! ラナンを、この可哀想なラナンを助けてくれ!
お願いだ……なんでもする! 神でもいい! ラナンを救ってくれ……
たった一度でいい! 今…だ…けは! お願い…します…お、ね…が……い………し…
もうピクリとも動かず、開けた瞼を閉じる力もなく、頭を垂れたまま、血塗れの口は乾いていく。
肉体の限界を超え、呪から祈りに変わりゆく精神の叫びが途切れ掛け、意識の遠のく中で何者かの声が聞こえた気がしたが、とうとうマルコは考える事も出来なくなり、そのまま力尽きた。
―――――――――――――――
マルコが息を引き取る直前、マルコとラナンの遺体直ぐ近くの空間に突然大穴が開き、中から半可視の膜で覆われた泡の様なモノが飛び出してくる。
中には三人の機械人、ドワーフ一人、人族二人が入っていた。
『空間跳躍完了。座標誤差±3m以内です。マスター目の前に目標シグナルがあります』
[どこだ? 急がないとグスマンが…ヤバい…あれ? なんでこの子達から…?! マズい!もう死にかけてる!]
「多分たった今死んだわ。この人達」
[取り敢えず蘇生しよう。レイ、頼む]
『承知しました』
俺はグスマン夫妻に送ったバイタルモニターのアラートに従って飛んだつもりだったが、着いたら身も知らない子供達を救う結果になってしまった。
どの道この子達に事情を聴かねばならないだろう。…と考えた瞬間、
て、本人に情報端末で聞けば良いじゃん!
と気づいた。