第二十四話 夜魔
一体、なぜ、こんな事になったのか……。
夜の魔物たるベリスは、【魔界】開闢以来の天変地異に驚愕を隠せなかった。
【ハッハー! 遠慮するでない、全力で我に応えよ!】
目前の、見た目こそ小さめの巨人族と云った風体のモノが、さも陽気に手にした斧を揮う。
夜魔ベリスは全身に禍々しい魔力を放つ赤い甲冑を纏い、如何なる金属をも黄金に換えてしまうという長大な騎乗ランスを両腕で支え、辛くも打ち合わせる。
常に乗って居た筈の、愛馬の馬上からはとっくに叩き落とされ、魔物の魂を持つ相棒は既に消滅していた。
「ぐ! ぐぬぬぬぬ!……ンガッ!」
(冗談ではない! 彼奴は「神族」等眷属どころか、「神」そのものではないか!)
相手は笑顔さえ浮かべながら、本気の欠片も無く、軽々しく打ち込んでくる。
が、夜魔ベリスは、その一片の殺気も感じられない攻撃を、渾身の力を以て受け流す。
そうしなければ一撃喰らっただけで、容易く消し飛んでしまいそうだからだ。
目の前の相手が内包する、【魔】を消滅させてしまう「神霊力」の絶対量が、最早話に為らない程強大なのだ。
(格が、違い……過ぎる……!)
苦々しく舌打ちしつつも、何故さっさと自分を消してしまわないのか、ベリスは思考を巡らせていく。
(何が興っている?! 何故この【地獄】に、「神」が降りた?!)
――――――――――――
この【等活地獄】を統べる「夜魔の王:閻魔」様の副官であるベリス、つまり私はついさっきまで、その慎ましくも厳かな職務に専念していた筈だった。
上司で在りこの等活地獄の絶対支配者、地獄の長たる「閻魔」様は現在【魔界の神】「魔神皇」様の召喚に「閻魔大王」として応じ、他の六柱の魔王達と共に最下層の無間地獄へと集結している。
――閻魔大王
「六万四千地獄」ほか、一兆七千五百六十二億の魔物達が住まうという、全ての大小の地獄を内包する【八大地獄】の内、【等活地獄】を直接統べる魔王の表層人格の一柱が【閻魔】である。
全地獄の上中層「六大地獄」を率いる魔物の長である時、【閻魔大王】となり、地獄に落ちた者、地獄に属する全ての魂を裁く権能を持つ。別名【第六天魔王】と呼ばれる。――
地獄の長不在の中、今日も私は数えきれない亡者の波を「閻魔」様に代わって乗り切っていた。
尤も、何の感慨も無く、次の階層へと纏めて落とし込んでいただけであったのだが。
落ちてくる亡者の罪状を見るに、とても「殺生」だけで済む輩は殆ど居ない為である。
ほぼ全ての咎人が「殺生」以外にも「盗み、邪淫、酒狂、妄語、邪見、犯持戒人、父母・聖者殺害」といった、あらゆる悪行を併発しているのだった。
それも仕方のない事と言えるだろう。
群れれば群れる程、生前「自由」を謳歌すればするほど、課される責任は発生する。
誰もかれもが権利を主張、謳歌するのみで、果たすべき義務を放棄すれば、怠惰という名の悪徳に際限はなくなるのだ。
「ベリス様、「生きる」とは、一体どれ程の業火の種を宿す宿業なのでしょうね」
一本角の小柄な獄卒の一人が洩らす。奈落の底に落ちていく亡者達を見送る他の者達も頷き、一本角に同意している様だ。
巧い言を申すではないか。
部下の鬼達のため息を耳にし、副官になる前の嘗ての自分が嘆息したのと同じ感想に、私は思わず、自らがいつもの禍々しい黄色ではなく、幾分落ち着いた緑色の光を目に灯したのに気づいた。
「お前達も判っているだろう? 我々は「閻魔」様と共に、この地獄に在り続けねば為らん。全ての魂が悪に染まりきる事の無い様に。因果の果てに訪れる不幸とは何なのか、其れが想像すら出来なければ、同じく何を以て幸福とするのかすら、真に確信する事も無い。人が愚鈍なればこそ、我等が在る。――そう諭さねば為らぬのだ。」
緑光に照らされた部下の鬼達は、普段の私と違う様子に一様に戸惑いつつも、揃って一礼し其々の職務に埋没していく。
願わくばその指針の一つたらん事を。
……我ながら随分女々しい感慨に耽ったものだ……
副官になりたての頃、長である「閻魔」様にそう問うた事がある。
【フン、俺は何も感じない。最早、世の構成概念、否、理の一部になっているのだろう。……嫌になったのなら亡者と一緒に「奈落」へ落ちれば良い。獄卒からここまで上り詰めたお前なら、万年どころか早ければ数十年で地上に転生できるやもしれんぞ?】
ニヤリと笑う地獄の主は、その途方もなく大きな身体に見合う存在感で、私を静かに見つめたものだ。
大きな、本当に巨大な眼光が、私を射貫くのではなく、何故か優し気に包む様に感じたのは、後にも先にもアレ切りだ。
其れももう、万年単位前の話であったか。
「閻魔」様が【魔神皇】様に呼ばれたのは、何故かは未だ判らない。
最下層に降りられてから、まだ御戻りになっていないからだ。
尤も、何か合ったのか? などと懸念するほど愚かな事もないが。
たった数年留守にされているだけだ。
何よりあの御方をどうこう出来るモノ等、この世には存在しない。
如何に他の地獄の魔王達、「アスタロト」「アスモデウス」「バアル」「ベルゼブブ」「フリアエ」「ルキフグス」が強大であろうとも。
また、唯一可能性がある「魔神皇」様がその手に掛ける事態など、其れこそ有り得ないのだ。
……そう言えば、一体のバカの話を思い出した。
私は以前、魔王「アスモデウス」の三大使徒の一体、デカラビアとは見知った仲だった。
我等には唯一の共通点として、朧気乍ら遥かな昔「冥王の魔軍」、七十二柱の魔王として「冥界」に君臨した記憶がある。
何故自分が現存しない「冥界」と、その盟主である「冥王」の名を覚えているのか、今はもう判らない。
確かに思い出せるのは、当時の名と地位だけ……が、今はどうでも良い。
デカラビアの話だ。
かのモノは第五階層「大叫喚地獄」を統べる、魔王「アスモデウス」の三副官の一体であり、自ら【地獄大公】を名乗る、些か勘違いした奴である。
魔神皇様からの召喚の際、其々魔王の各副官クラスは連絡を取り合った。
激務に追われる閻魔様、他魔王達は、一々下々に詳細を伝えないし、我等としても御手を煩わせる訳にもいかない。
久方ぶりに顔を突き合わせて見れば、成程地獄の番人らしい面々が揃っていた。
生者と違い、各地獄間の付き合い等皆無の魔物同士、実務連絡以外全く無い短い会合の後、早々と退散する悪魔共の帰還ラッシュの中、デカラビアの方から声を掛けてきた。
「久しいな、ベリスよ。どうかね? そちらの夜魔王様は」
全く無礼な話である。魑魅魍魎の類ならいざ知らず、知っていて当然の御方の御名前を濁すとは。
阿呆が居る。地獄耳の由来を知らんとはな。
馬鹿に付ける薬はない。私は相手するのも馬鹿らしいと無視して、職場である閻魔宮へと踵を返した。
「オイ、待たんか。無視すると為にならんぞ?」
馬鹿が。あの音が聞こえないのか。
まぁいい、阿呆が特大の魔雷に撃たれる様を笑ってやるか。
とも思い、私は少しだけ相手をしてやる事にした。
「フフン、其れで良い。昔のよしみだ。良い事を教えてやろう。」
当人は星型と言い張るその見た目は、私から言わせれば、単なるヒトデに目が付いたマヌケな面構え。
一つ目をパチクリと瞬きさせたその様は、滑稽さも相俟って、意外にも一種の愛嬌を醸し出していた。
……単に、これから奴へ襲い掛かる惨状に憐みを感じただけだが。
「今まで我が主アスモデウス様にも嘆願していたのだがな、遂に実現するのだよ。」
「……貴公、一体なんの話をしている? その前に先ずは、さっさと我等が主様へ懺悔するのだな。」
血と怨念で凝り固まった床を、私は愛馬の蹄鉄で踏みしめながら、赤黒く鈍い光沢を放つ庁舎を出ていく。とばっちりを喰らうのは面白く無い。何より私はそんなマヌケではないのだ。
「まぁ聞け、私はずっと考えていたのだよ。我等が【魔界】と地上を陸続きに出来ないかとね?」
「何故そんな事をする必要がある? ……少し離れてくれ。そんなに小声で話す必要は無いだろう。他に誰も居らん」
あぁ、いよいよだ。雷鳴の轟きに芯が入っていくのが判る。
「さもしいぞ同胞よ、呆けてはおらんか? 嘗ての猛将、『魔王ベリト』は何処へいったのだね? 我らはこの魔界の大陸たる「地獄」でこそ不滅だが、地上では容易く――」
飛び切り魔力を載せた雷が、目前の阿呆を討ち据えた。
奴は一瞬で黒焦げになり、其れ以上声を挙げる事も、動くことも無かった。
どうせ暫くすれば、住処としているアスモデウスの魔王宮で復活するのだ。
いみじくも地獄耳の主、「閻魔」様直々の罰当たり。同情など以ての外である。
星の理を以て裁く、我が主の慈悲と知れ。
――そもそも、一体今更何を言い出すのか。
聞けばこの馬鹿共は、以前から地上に態々眷属を放ち、いつか「神々」に復讐するのだと憚り、他の地獄の悪魔共を扇動し息巻いているという。
愚かな話である。「原初の神々」の眷属である「神族」がそうであるからと云って、我々【魔】が人に生み出されたなど、何処の絵空事だ。
そもそもその因果すら、誰も説いていないのに。
況してや【魂】を吸収し糧にする為、絶望と失意に落とし悪意に染めるなど、妄言で謀るにも程がある。
大体、「力」が欲しいなら魔力を貯めこめば充分なのだ。確実に血肉となり「格」も上がる。
例え極小量でも、態々性質の違う「神の力」の欠片を取り込んでも、【魔】である我等に馴染むことは決してない。
結果として、精々道具として用いるのが関の山である。
そんな無駄な事に、一体何の意味があるのか。
奴には【魔】としての誇りなど無いのだろう。
――そうして魔王達は最下層へ向かわれ、私は「閻魔」様の副官としてその職務を代行していた。――
……筈だった。
唐突に閻魔宮の庭である等活地獄最上層が騒がしくなると、元凶を排除しに行った獄卒達が逆に駆逐されていった。
数千億は居る眷属共が何匹死滅しようと、痛くも痒くもないが、「閻魔」様の代行者である私が出ていく訳にも行かず、結局僅か一年足らずで一億近い魔物が退治された時点で、必要な眷属達を閻魔宮に撤退させた。
全く……一体何なのだ。この「地獄」で滅された者共も、何れ蘇るのは自明の理だが、結果的に一時期接触した、あの「よそ者」より質が悪い。
どうにも頑丈で為す術も無かったが、未だあの「球」の方がマシだった。
失った部下の数も微々たるモノであったし、何より球は己を理解している。
また「よそ者」は、例え滅しても、その魂は星に還元されるべきではない存在だ。
元が違う故に、如何なる浄化も受け付けないであろう事を、私は本能で理解していた。
そうこうする内、いよいよ不可解な展開になってきた。
【魔界】の壁を破って、また別の「よそ者」が入り込んで来たのだ。
数百年ぶりに戻ったダンタリオンは、元々大した奴では無かったが、剰え並み居る悪魔共とは、一線を画す侯爵(中堅所)ではあった筈。
其れを一瞬で消滅させ、且つその余波で地上の庁舎群をも吹き飛ばした力の源は、未だに謎のままである。
どうやらイズライールを滅した、兼ねてよりの騒ぎの元凶と合流し、こちらに進軍してくる様だ。
私は自らが手を下す丁度良い機会と踏み、閻魔宮の執務室で待ち受ける事にした。
地獄の入り口である最上層から、この等活地獄最下層の玉座と同じフロアの執務室まで、どれ位掛かるだろうか? 少なくとも百は越える階層構造である。
今は大人しくしている、あの「球」と同じ「よそ者」なら、同様に数年は掛かるか?
等と当たりをつけていると、奴等が宮の門前で接近し停止した瞬間、突然広大な閻魔宮の大部分が消失した。数百億の魔物諸共。更にその結界状の中の空間には、我等は誰も入れない……。
事態は全く想定を通り越し、最早私は早急に直接相対するしか手が無くなった。
勝てるのか? などと愚問は生じぬ。
「閻魔」様より賜った職務を、私は全力で全うするのみ。
新たな「よそ者」は別としても……。
いつの時代か判らぬが…それだけの「力」を有しているからには、相対するもう一方のモノは、恐らく相当古い世代の「神」であるのは間違いないであろう。
では、何等かの啓示があるかもしれない…。
【ハッハー! 長…否、副官と云う所か…まぁ良い、全力を以て我を愉しませよ!】
案の定、接敵する前から尋常では無い気配……閻魔様に匹敵…或いは……
「……否!」
憶する事など何もない。
何より我等【魔】は、星の理に因って構成された端末なのだから。