何かおかしい
及川琴美の自宅は、事故現場と同じ向島の住宅街にあった。外観は、白を基調とした清潔感のある西洋式建築である。
インターホンを鳴らすと、中年女性の「はい」という声が聞こえてきた。向島署の交通課の者だというと、玄関のドアが開けられた。ドアを開けたのは、少し小皺が目立っているが気品のある雰囲気を纏った女性だった。彼女は、安積が名乗った身分にあまり驚いている様子はなかった。
安積は客間に通された。琴美の母親である好美は、少しここで待っているよう安積に言い残して部屋を出ていった。
安積は改めて客間を見回した。外観とは対照的に、和風様式の客間だった。15畳程の広めの空間に、イグサの落ち着いた香りが漂うしっとりした畳と、滑らかな檜で出来た円卓。その円卓を挟んで二枚ずつ座布団が敷かれている。随分と手入れが行き届いているようだ、と安積は感心した。
向島署から縁を切ってから1週間が経った。業務用に用いていた携帯電話は、辞職___否、馘首された次の日に解約した。向島署を退いた後、同僚から何本もの電話とメールが押し寄せてきたのだ。その内容はいずれも安積が馘首された理由を問うものだった。向島署からは完全に絶縁したいと思っていた安積にとって、それは迷惑だった。私用の携帯電話の番号は署の人間には教えていなかったので、私用の携帯電話にメールや電話が掛かってくることはない。
現在安積は、被害者の鳥畑と交際しており、かつ事故現場に居合わせていたという及川琴美の自宅を訪ねていた。実を言うと、馘首される前日に沖原に訴えたこと以外にも、腑に落ちない点はいくつかあった。それを虱潰しにあたっていくのである。
馘首が決まった日、正式に処分が下される前に安積は出来る限りの情報を収集した。それは、あの交通事故が起こるまでの経緯である。夏原達彦と久保田秀雄は、互いに浪人生で予備校に通う生活を送っていたが、その日は二人で映画を観に行くことになっていたという。夏原は上小山町の自宅から向島の久保田の自宅へ車で向かい、そこで久保田を拾い、映画館へ向かっていた。久保田の自宅は事故現場の住宅街とは少し離れたアパートであったが、そこから最寄りの映画館まで最短で向かうには、事故現場となったその住宅街を通り抜ける必要があった。しかし住宅街を走行中、突然夏原は睡魔に襲われ、鳥畑の存在に気付かずに轢いてしまったという。一方及川琴美と鳥畑亮哉は、遊園地へ行く約束をしていたという。そこで鳥畑は及川琴美の自宅の近くに車を停め、及川を迎えに行った。そして及川を連れて出てくると、鳥畑は及川と二人で停めてある車の元へ行こうとした。その時に、夏原の運転する車が突っ込んできたというわけだ。
慎重に事に当たらなければ、と安積は思った。自分を向島署の者だ、と偽ったのも、バレてしまうと厄介なことになる。あまり深入りし過ぎると怪しまれる。既に安積は向島署とは何の関係もないのだ。それを向島署の者だと偽って事故の情報を聞き出すのは、それなりのリスクを伴うものである。
及川琴美が入ってきた。安積は彼女の顔をまじまじと見た。くりっとした大きな目に高い鼻。少しやつれた様子であるものの、その整った顔立ちは、比較的美人の部類に入るのではないか。才色兼備という言葉をそのまま再現したかのような彼女に続いて、母親の好美が盆に茶を乗せて部屋に入ってきた。盆には湯呑が3つ乗っている。どうやら好美は自分も話に立ち会うつもりようだった。安積は極力琴美と二人きりで話をしたかったのだが、ここまでされて好美を追い返すわけにもいかなかった。
琴美と好美は安積の向かい側に座った。
「本日は急にお邪魔して申し訳ありません。どうしても確認しておかねばならないことがあるので、少しだけお付き合い願います」
安積は慇懃な口調で言った。
「一体何でしょうか」
返事をしたのは好美だった。
「及川琴美さん、鳥畑さんはあなたと一緒に鳥畑の車へ向かっている途中に轢かれた、とのことですが、間違いありませんか」
「はい」
ピン、と張られた弦のように鋭く通った声だった。恋人の不幸にある程度のショックは受けているようだが、その声からは微塵もそんな気色は感じられなかった。
「…そうですか。ではあなたと鳥畑さんは、どのような位置関係で歩いていましたか」
「位置関係って……普通に並んで歩いてましたけど」
「あなたは内側を歩いていたのですか」
「ああ、はい」
「ではなぜあなたは無傷だったんですか?二人とも非常に近い距離で歩いていたにも関わらず、突っ込んできた車に轢かれたのは鳥畑さんだけであなたには擦り傷一つなかった、というのはどうも納得しづらいんですが」
「なぜかと言われても…。偶然じゃないですか。不幸中の幸いです」
「あの、何か気になることでも?これは普通の交通事故ではないのですか」
好美が口を挟んできた。
「いえ、今回は関係者が傷害を負っていますから、運転手には過失致傷罪が付く可能性があります。その場合は、入念に事実関係を把握しておく必要があるのです」
その場しのぎの回答だが、それがまるっきり嘘だというわけではない。事実関係の把握が肝要となってくるのは事実だ。
鳥畑が搬送された病院からの報告によれば、未だ鳥畑の様子は安定していないらしい。医師はここだけの話だと言っていたが、助かる確率は五分五分だそうである。万が一鳥畑が帰らぬ人となった場合、夏原は過失致死罪となる。
夏原はちゃんと免許証も所持しており、保険にも登録していた。前科もない。本来なら免許停止あるいは免許取消で済むことだが、不眠症を患っていた夏原は、医師から車の運転は控えるようにと注意を受けていた。それにもかかわらず夏腹は車を運転し、その結果人を轢いてしまったというのは少し話が変わってくるのである。
「では、事故の瞬間のことをなるべく詳しく教えてくれませんか」
「それはもう警察に幾度となく話しました」
琴美は少し疲労感を帯びた声で言った。
「つい先ほど述べましたように、我々は正確に事実関係を把握する必要があるのです。申し訳ありませんが、どうかお付き合い願います」
安積は下手に出て言った。
好美は心配そうに琴美の表情を窺った。琴美は小さく溜息をつくと、口を開いた。
「インターホンが鳴ったのは、正午過ぎくらいだったと思います。その時私は、出掛ける支度をしていました。母から鳥畑君が迎えにきたと聞いて、私は慌てて準備を済ませて家を出ました。その時には既に15分くらいになっていたと思います。そしてさっき言ったように肩を並べて歩いていたら、背後から車が走ってくる音がしたんです。しかし、あまりにもその音が激しかったので、気になって振り向くと、その車は猛スピードでこちらへ走ってきてたんです。しかも、何だか進路がおかしかったというか……そう、蛇行運転ってやつです。猛スピードで蛇行しながら走ってきたんです。これは少し危険かな、と思って鳥畑君に知らせようとしたんですが、そんな間もなく車が突っ込んできて、鳥畑君が……」
琴美は皆まで言わずに口を閉じた。
「……申し訳ありませんが、もう一度お尋ねします。あなた達は、本当に並んで歩いていたんですか?」
安積は琴美の顔をじっと見つめて言った。その時、視界の隅で好美が顔を強張らせたように感じた。さりげなくそちらに視線を移したが、好美は俯いていた。気のせいだったのだろうか。琴美の方は、表情に何の変化もない。
「本当です。何か気になることでもあるんですか」
「いえ、何でもありません」
今度は安積が口を閉じる番だった。
何かが引っ掛かる。この釈然としない感じは、及川家への訪問でますます強まったように感じる。
恐らく琴美は、何かを隠している。あるいは嘘をついている。安積はそう感じた。本当に肩を並べて歩いていたなら、鳥畑が轢かれたというのに琴美が無傷で済むということは不可能なはずだ。ましてや琴美は内側を歩いていたのだ。逃げることは難しい。それに自動車の破損具合を見て鳥畑達が事故が起こる直前に自動車とどのような位置関係にあったかを推測すると、やはり琴美が難を逃れるのは物理的に不可能なのである。
しかし現時点で彼女達からこれ以上の情報を抜き出すことはできないだろう。そう考えた安積は、彼女達に礼を言うと及川家を去った。
次に訪れたのは、久保田秀雄の自宅である。清和荘という古い木造アパートは、1階と2階にそれぞれ5部屋ずつあったが、その約半分の扉には、入居者を募集する広告が貼られていた。久保田の部屋は、2階の一番手前にある。扉の前まで行ってインターホンを押したが、返答がない。しばらく待ってみたがやはり返答がなかったので、もう一度インターホンを押した。しかし返答はなかった。留守かな、と思いつつ安積は扉をノックした。すると、「はい」と扉の向こうから声がして、誰かが玄関へ向かってくる足音が聞こえてきた。
「どなたですか」
「向島署の交通課の安積という者です。少し話をしたいことがありまして」
そういうと、扉の鍵が解除された音が聞こえた。
扉が開いた。そこにいたのは、久保田秀雄だった。
「2回インターホンを鳴らしたのですが、聞こえませんでしたか?」
安積が言うと、
「ああ、申し訳ない。ここのインターホンは以前からイカれてて、ボタンを押しても音が出ないんですよ」
と久保田は申し訳なさそうに言った。
安積は狭いリビングに通された。そこは及川家とはうってかわって、最低限の家具しかない殺風景な部屋だった。
久保田は何か飲み物を持ってきますと言ったが、安積は大丈夫だ、と断った。
「…で、どのようなご用件で」
「既に何度も警察に話していることと思いますが、もう一度事故が起こった時のことを詳しく窺いたい。どうかご協力ください」
「いいですよ。別に暇ですしね」
「…えー、ではあなたは、事故が起こる前____車が住宅街を走行している間は何をされていましたか」
「何って…普通に助手席に座ってましたけど」
「車内で夏原と会話はしなかったのですか」
「ああ、そういえばアイツ、『不眠症で困ってる』というようなことを言ってましたね。そこで睡眠薬を服用してるんだとか。しかし夏原は運転中だったので、睡眠薬の効果で居眠り運転で事故を起こされてはかなわないと思って、一度車を降りて近くの自動販売機でコーヒーをアイツに奢ってやりました。2、3分前にアイツはコーヒーを飲んでるんですがね。相当睡眠薬が効いていたみたいだ」
「コーヒーはどこの自動販売機で買ったのですか?」
「事故があった住宅街の手前にある自動販売機です」
「コーヒーのメーカーは覚えてますか」
「確か、S社だったと思います」
安積はそれを手帳に素早くメモした。
「夏原の話によると、彼はあなたに鳥肌さんの存在を教えてもらって始めて気が付いた、とのことですが」
「はい。アイツ、目の前に人がいるのに全く避ける気配がなかった」
「その時夏原はどんな様子でしたか」
「半分寝ていたようですね。俺の叫び声に驚いて飛び起きてましたから」
「そうですか」
その後、安積はいくつか久保田に質問を投げ掛けたが、特に有益と思われる情報は得られなかった。
安積は礼を言って久保田の元を去った。
その後帰宅した安積は、インターネットであらゆる睡眠薬について調べてみた。その結果、一つの結論が導き出された。まず、覚醒してから2、3分後に再び効果を発揮するような睡眠薬はこの世に存在しない。相当強い睡眠薬なら覚醒直後に再び効果が表れることもあり得るが、そのレベルの睡眠薬になると缶コーヒー程度では対応できない。これは久保田の話に矛盾する。つまり、久保田は____否、久保田“も”嘘をついている。
直接的な被害者である鳥畑は未だ意識不明である。よって、現時点での事件との密接な関係者は、加害者の夏原、車に同乗していた久保田、被害者である鳥畑と共に行動をしていた及川だけである。その3人のうち2人が嘘をついているのだ。
自分の勘は外れていないのかもしれない、と安積は思った。