事故発生
実在の向島署には捜査一課や交通課などは存在しませんが、本作内の向島署には登場します。
よって本作内に登場する向島署は、実在する向島署とは別のものだと思ってください。
あくまで空想の産物です。
「…あ、ちょっと停めてくれ」
先ほどからずっと左手の腕時計とにらめっこしていた久保田秀雄が突然口を開いた。
それを聞き、ハンドルを握っていた夏原達彦は慌ててブレーキを踏んだ。
「一体何だよ」
「悪い、ちょっと小便してきていいか。さっきから我慢してたんだ」
「…ったく、さっさと済ませろよ」
「すまん」
久保田はそう言うと助手席から飛び出し、小走りで去っていった。
ここは住宅街のど真ん中だ。都合良く用を足すことが出来る場所なんてあるのかな、と考えていると、無意識に大きな欠伸が出た。先ほどから眠気が取れない。昨晩、不眠症を気にして過剰に睡眠薬を摂取したのが災いしたのだろうか。
もう時は初夏を迎える。浪人生である夏原にとって、最も大切な時期と言えよう。それ故、夏原は寝る間も惜しんで勉強に明け暮れていた。2日連続で徹夜、というような日も珍しくはなかった。そんなハードな生活を送っていると、いつの間にか身体が順応してしまい、あまり眠気を感じなくなった。しかし、身体に疲労が蓄積されていることには変わりなく、ある日夏原は熱を出して寝込んだ。病院へ行くと、「無理をし過ぎだ」と医師に窘められた。どうやら不眠からなるストレスが無意識のうちに溜まり、それが大きな負荷となっていたのだろう。医師の注意を受けた夏原は、健康を取り戻した後はある程度の睡眠時間を取るように努めたが、今度は違う障壁が立ちはだかった。眠れないのだ。あまりにも眠れないので、再び病院へ赴くと、ストレスが原因の不眠症と判断された。不眠症を直接治癒できる薬はなく、本人が病の原因となるストレスを解消していくと自然に不眠症は治るという。だが夏原は眠れないことにはストレス解消など無理だと思い、睡眠薬の服用を始めた。そして、今に至る。
ぼーっと車窓から住宅街に立ち並ぶ家を眺めていた夏原は、大きく伸びをした。そして眠気覚ましにラジオでも聞くか、と夏原が手を伸ばした瞬間、久保田が小走りで戻ってくるのが見えた。両手に缶飲料を持っている。
「どこで用を足してきたんだ?」
久保田が助手席に戻るなり夏原は尋ねた。
「近くの家にトイレを借りた」
「お前…今時他所でトイレを借りる奴ってそうそういないぞ」
「まあいいじゃねえか。これは、待たせた侘びだ」
久保田は夏原に缶コーヒーを投げた。夏原はそれを受け取った。冷たく冷やされたアイスコーヒーのようだ。
「珍しいな、お前が侘びだなんて。どういう風の吹き回しだ」
久保田は妙にプライドが高い男で、基本的に他人に謝ることはしない。
「別に何でもねえよ。眠たそうだったから目覚まし用に買ってきただけだ。居眠り運転で交通事故を起こされても困るしな」
「俺が運転してるのはお前が免停食らってるからだろ」
夏原は吐き捨てた。
久保田は以前バイパスを車で飛ばしていた時、たまたまスピードチェックをしていた警察に捕まり、スピード違反で注意を受けた。だがその数日後、同じバイパスでまたスピードチェックに捕まり、短期間で2回の違反行為を犯したということが問題視され、免許停止となった。
「最近の警察はずる賢いんだよ。あの時スピードチェックの連中は上手く死角に隠れてたんだよ。死角から車の速度を窺って、少しでも規定値をオーバーしてたら呼び止めて罰金をふんだくるんだ。汚ねえ連中だ」
久保田が愚痴をこぼし始めた。
免停の話題になると、あの時の警察によほど不満があるのか久保田は延々と愚痴をこぼし続ける。
夏原は愚痴をこぼす久保田の横で缶を開栓すると、開栓した方の手の親指をペロリと舐め、コーヒーを一気に喉に流し込んだ。程良い苦味が口に広がる。意識がすっきりした気がした。親指をペロリと舐めるのは、夏原のクセだ。あまり人前ではしないように努めているが、中学時代からの付き合いである久保田の横ではそんなことは気にならない。
夏原は缶コーヒーを一気に飲み干した。実はこの住宅街に入る直前も眠気を覚えた夏原は、わざわざ車から降りて自動販売機でコーヒーを買って飲んでいた。それは数分前の話だというのに、もう眠気が蘇っていたのである。不眠症は意外と深刻な事態になっているようだと思った。
夏原は車を発進させた。車は閑静な住宅街を走り抜ける。
不意に眠気が夏原を襲った。あれ、おかしいな。さっきコーヒーを飲んだばかりなのに。夏原は少し靄がかかったような頭でそんなことを考えた。きっと疲れてるんだろう、と思った夏原は欠伸をかみ殺した。
だが眠気は収まることがなく、次第に夏原の意識も朦朧とし始めた。…あ、これ本格的にヤバイやつだわ……。ぼんやりとそんなことを考えていると、助手席から怒号にも似た大声が飛んできた。
「夏原!前だっ!」
あまりにも逼迫したその大声にハッと我に返ると、車の左手から一人の青年が歩いてくるところだった。
……轢く!直感的にそう感じた夏原は、回避しようと無我夢中でハンドルを捻った。
ドン、という衝撃が伝わってきた。___車を停めろ。心の中から何かがそう語りかけてきたような気がした。夏原がブレーキを踏もうと乱暴に足を動かすと、車はスリップしながら停止した。それとほぼ同時に助手席の扉を乱暴に開け放ち、車内から飛び出した久保田の姿が視界の隅で確認できた。それを見た夏原はゆっくりした動作で降車すると、そこへ無言で歩み寄った。そこには、倒れてピクリとも動かない青年の姿があった。久保田は青年の姿を眺めている。そして夏原に気付くと、蒼白とした顔をこちらに向けた。
___人を、轢いちまった。
案外冷静にその事実を受け入れることができた。
何かの視線を感じた夏原は、そちらへ顔を向けた。そこには、久保田よりも一層顔面を蒼白とさせた一人の女性が立っていた。
事故現場へ赴いた向島署の交通課・安積恭平は、やれやれ、と溜息をついた。
この男は、何かと交通関係のゴタゴタに縁がある。安積は警官に状況質問をされている男、久保田秀雄を眺めながらそう思った。
彼の顔には見覚えがある。確か、スピード違反で注意を受けた4日後に同じことを繰り返して免停になった男だ。あの時スピードチェックに立ち会っていたのは、他でも無い自分である。5日以内に同じ場所でスピード違反を2回以上繰り返すドライバーはそうそういないので、彼のことは記憶に残っていた。
事故現場は、向島の住宅街のど真ん中だ。ホワイトボディのハードトップが青年・鳥畑亮哉を轢いた。運転手の夏原と助手席に座っていた友人の久保田は浪人生で、今日は二人で映画を観に行く予定だったという。これを聞いた時安積は、浪人生の身分で遊んでいられるとは、随分余裕だな、と内心で嘲笑したものだ。彼らに怪我はなかったようだった。しかし一方鳥畑は直ちに病院に搬送されたが、どうやら心臓喘息___馴染み深い呼び名で言うなら“急性心不全”___を来たしているらしく、大変危険な状態であるという。鳥畑は先天性の心臓障害を患っているらしく、普段の生活に大きな支障をきたすことはあまりないが、過度な運動や心臓部に大きな負担を受けるとすぐに身体が異常を訴える。ハードトップが彼の身体に激突したことによって、彼の心臓が異常を起こしたようである。
少年の氏名と心臓障害の件は、現場にいた女性・及川琴美から聞いた。及川は鳥畑と同級生で、大学2年生であり、彼らは交際中であったという。
車の運転手だった夏原達彦は、既に署へ送られた。彼には直ちに事情聴取が行われるであろう。
「安積さん」
背後から声を掛けられた。
振り向くと、20年も後輩の舛添晃が立っていた。
「なんだ」
「現場、見ました?」
「いや、まだだ。それがどうした?」
「まだ見ていないというのなら、是非見て下さい」
舛添はやや強要する口振りで言った。
珍しく様子が変な舛添を安積は少し不審に思った。
「一体何だ」
「見れば分かります」
舛添に連れられ、安積は現場へ向かった。
「これです」
舛添が指差したのは、アスファルトの道路に残された*ガウジ痕だった。大きく左側に歪曲している。
それを見た瞬間、安積は違和感を覚えた。
「ちょっと待て」
関係者からは、鳥畑は運転手視点から見て車の左側を歩いていた、と聞いている。
夏原は鳥畑に気付き、それを避けようとしたならば右へハンドルを切ったはずだ。しかしこのガウジ痕を見る限りだと、車は左側へ動いたと考えられる。いくら気が動転していたとはいえ、左側の鳥畑を避けようとして左にハンドルを切るようなことはしないはずだ。
「変でしょう」
舛添が言った。
「夏原はどう言っているんだ」
「気が動転していた___先ほどの簡単な状況質問ではそう言っていました」
「………」
安積は渋い顔をした。
これは案外、厄介な事故___いや、“事件”かもしれない。
向島署交通課勤続10年の勘がそう告げていた。
*ガウジ痕…自動車事故において、事故車両の金属部分が道路やガードレールなどの周囲の物体に残した抉り取られたような痕跡のこと
粗筋には書いていないかもしれませんが、本作は全20話です。
最後まで一通り書いてから一話から投稿していますので、万が一ストーリーに矛盾があったとしてもストーリーの修正や変更は出来ません。
充分その点には留意した上で執筆・推敲していますが、万が一のこともあるかもしれないので、ご了承ください。