名前の由来
相変わらず、リズの朝の仕事はトリミング室での道具の準備と掃除から始まる。それが終わると、店の裏に置いてある竹箒とゴミ袋を持って、店の前の掃き掃除。リズは掃き掃除をしながら、ふと上を見た時に今更だが、店名に疑問が浮かぶ。
「そういえば、この店の名前ってどういう意味があるんだろう?」
看板には『Embellir』とある。そもそも何語かすらもリズにはわからない。
「うーん、これはオーナーに直接意味を聞くしかないわね」
箒を持って上を見ているリズの、そんな様子が遙の目には(遙じゃなくても)、不思議に映ったのだろう。遙が店から出てきた。
「リズ、どうした?上なんか見て」
「あ、オーナー・・・そういえば、この店の名前ってどういう意味なのかなーって」
「今更そんなことを思ったのか?」
「それはそうなんですけど・・・」
「俺の知り合いが言うには『美しくする』っていう意味だそうだ」
それを聞いて、リズはなるほどと納得する。確かに(相手は犬達だが)そういう事をリズ達はしている。
「正直どうしようかと思って、知り合いにいい店名になりそうな単語はないかと聞いたら『これはいかがですか?』ってな」
「へぇー、そうなんですか、それじゃあオーナー自身が自分で考えたとか調べた訳じゃないんですね」
「でも、合ってるだろ」
「そうですね」
これほどまでにしっくりくるものはないとリズは思う。考えた人もよく知ってたものだ。普通に調べたのかもしれないけどさ。
「で、リズが上を見てたのはそれだけの理由だったのか」
「え、そうですよ?」
リズの返事に、遙は何も言わずに店の中に戻っていく。まぁ、遙にもやることはあるだろうし、それにしては呆れたような表情をしていたけども。リズも疑問が一つ解決したので、店の前の掃除を再開した。
「きっと向かいの喫茶店の名前も、何か意味があるんだろうなー」
ちなみに向かいの喫茶店は『Fonte』とある。
今までリズは、店の名前なんて気にしていなかったが、意味などを知ってみると意外と面白いし、考えられているんだなと思う。リズは、仕事帰りにでも喫茶店に寄ろうと掃除を終わらせて、笑顔で店に戻っていった。
○o。. ○o。.
リズの様子がなんだかいつもと違うような気がすると、遙は感じる。朝から元気なのはいつも通り。ただ、なんでまた突然に、店の名前とかを気にしたのだろうと不審に思う。
「確か、リズが入った時にも同じ事を聞かれて、俺は同じような答えを言った気がするんだけどな」
遙はカウンターに頬杖をつき、ぼんやり予約帳を眺めて、シフトを考えている。
「そんなに気になるなら、直接あのお嬢ちゃんに聞けばいいじゃないか」
「大体、それを聞いて何になるっていうんだ?それと喚んでないんだが」
遙の足元に、ひっそりとフェンリルが隠れるようにいた。毎回、喚んでもいないのに出てきては遙に叱られているというのに、こいつは学習をしないのか。しかも遙を茶化しに出てくるものだから、さらに火に油を注ぐ状態である。
「別にあのお嬢ちゃんだって、なんとなく気になったってだけだろう?」
「そうだろうな・・・で、お前はいつまで出てるつもりなんだ?」
「はいはい」
勝手に出てくる癖に、フェンリルは遙に言われるまで、絶対に影の中には戻らない。これがまた厄介というか、面倒というか。
「全く、リズにもし見付かったらどうするつもりなんだか」
仕方なさそうに戻るフェンリルに、遙は頭が痛くなる。それと同時に店の電話が鳴ったので、遙はカウンターの上にある鉛筆と電話の子機を取った。
○o。. ○o。.
リズはトリミングが終わり、遙に連絡も頼んだので、次の客の犬がどんなのかを知ろうと見ていた。その犬は結構、この店には来ているようなのだが、リズは知らなかったので、カルテを持って遙のところに行く。
「オーナー、この子ってあたしカットをやった事ないんですけど、どういう子なんですか?」
「ああ、そいつは噛み癖が酷いから、俺がやる」
「あー、そうだったんですか」
それではリズは知らないわな、と納得。こういう問題児は遙が担当しているし、リズがいない日にトリミングをしている事が多い。
さらに話を聞くと、その犬はあまりに噛むので、いろんな店に断られ続けて、この店に来たのだという。
「やっぱり噛まれると痛いですものね、噛み犬をやりたくないのはわかる気がします」
「しかも向こうは本気で噛んでくるからな」
リズの目線だと、遙が犬に噛まれてるところは見たことはないのだが。リズが見たことはないだけで、実際はどうだかは知らないけれど。
「オーナーって噛まれる事ってあります?」
「最近はあまりそういう事はないが」
「それでも『あまり』なんですか?『全然』じゃなくて?」
「噛まれた事がないって言ったら、それこそ嘘になるだろ」
犬が従順だったり、噛まれないのがフェンリルの影響だとしても、遙自身は至って普通の人間なのだ。
「でも、オーナーってどこか人間離れしてる感じですよね」
「どういう意味でなんだ?それは」
「え?うーんと・・・なんと言うか、雰囲気とかですかね?」
「なんでそれを俺に聞くんだ」
リズは小首をかしげて遙を見ている。それには遙も呆れて、リズに何も言えないし、言おうとも思わない。
暫し、二人は無言だったがドアの開く音と、そのドアにつけられたベルがカランコロンと鳴る。
「あ、いらっしゃいませー♪」
「今日もトリミングをお願いします」
遙はゲージ越しに犬を確認して、打ち合わせを進めていく。リズはその様子を隣で見ていた。
「長さもいつも通りでいいですかね」
「お兄さんにお任せしますよ」
「リズ、代わりにゲージごとトリミング室に連れていってくれるか?」
「はい、わかりました」
遙は道具を取りに行きたいらしいので、リズは犬をゲージごと預かって、トリミング室に連れていく。
「それでは、お預かりしまーす♪」
「終わったらいつも通り、連絡で?」
「はい、お願いします」
飼い主が外に行ったのを確認して、遙は一度、二階の自宅に道具を取りに行った。
○o。. ○o。.
仕事を終えて、リズは珍しく遙と向かいの喫茶店に入る。
「こんばんはー♪」
「いらっしゃい、珍しいね、二人一緒に来るなんて」
カウンターにいた優が遙と一緒にいたリズを意外そうに見る。それを気にすることなく、遙はいつも通りにカウンターの奥の席に、リズはその隣に座る。
「そういえば、出雲ちゃんは?マスター」
「出雲かい?今、裏でのんびりしてるよ」
リズはいつもの定位置(ドアの前にあるカゴ)に出雲がいないので、気になったらしい。
「意外と出雲も気まぐれだからね」
「そうですか」
「二人とも、注文はいつも通りかな?」
「はい、お願いします」
待ってる間はリズも暇なので、優に今朝気になったことを聞いてみることにした。
「マスター、ここの店名って誰が考えたんですか?」
「いきなりどうしたの?リズちゃん」
「いやぁ、今朝、なんとなくうちの店名が気になったんですよ、それでその延長で」
「なるほどね」
優とのやり取りを、遙は特に興味はなさそうに頬杖をついて眺めている。だが、やっぱりなんとなくだったかと思っていたようだ。
「ここは元々、僕の父さんが経営してたんだよね」
「え、そうだったんですか?」
「うん、だから店名もその時に決められたんだよ」
なんとなく話が聞きづらくなった気がするが、特に優の表情に変わった様子はないので、心配はいらなさそう。
「それで、その、意味とかって?」
「えっとね『Fonte』は『泉』っていう意味だよ」
「そういえば優の名字は『和泉』だったな」
「そうなんだよ、それでこの店名したって、僕は父さんから聞いたんだよ」
色々な考え方もあるものだなぁとリズはしみじみ思う。そしてリズは遙の言葉で初めて優の名字を知った気がする。
「とりあえず、はい、注文のコーヒーと紅茶ね」
「ありがとうございます」
遙とリズは出された飲み物を飲んで、一息ついた。




