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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
新たなるステージの始まり
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第17話 インドア・ナンバーワン(2)

 これまで、ヴァージンは3年半にわたってマゼラウスのもとでトレーニングを重ねてきて、トレーニングメニューを発表するときにここまで怪しげな表情をすることはほとんどなかった。マゼラウスがヴァージンに対して、一度はっきりとその表情を見せた時は、いつしかの世界競技会に向けての「特訓」と称する、ヴァージンが毎日クタクタになってしまうレベルの「死の」トレーニングだったことを、彼女ははっきりと覚えている。

(けれど、あの時よりも私は成長した。タイムも伸びている)


 マゼラウスが「ハイレベルのメニュー」という言葉こそ口にしたが、その後は「あの時」まで何も触れなかった。室内トレーニングであっても筋トレや100mダッシュなど、ほぼ毎日行っているようなアップを繰り返すだけだったのだ。

 時間が経つにつれて、ヴァージンは適度に緊張するようになった。その緊張をほぐすように、ヴァージンは一度首を縦に振った。その瞬間を見計らって、マゼラウスの口が動いた。

「それは、意識的にスピードを上げ続けてもらう練習だ。この、インドア用トレーニングでな」

「意識的に、スピードを上げ続ける……。つまり、1周1周でタイムを取るということですか」

「勘がいいな、ヴァージン。200mごと、つまり1周でタイムを取り、前のラップより遅ければそこで失格だ」

「はい」

 そう言うと、マゼラウスはヴァージンをトラックの内側に手招きした。トラックの中央に、二人が並び、その場所から狭いトラックを隣り合わせに見つめる。

「どうだ、どう走ればいいかこの目で一度考えてみろ」

 そう言われて、ヴァージンはスタートラインから反時計回りに走り出す自らの姿を、誰もいないトラックの上に思い浮かべてみた。

「何となくですが、組み立てられました」

「そうか。それは、お前自身の普段見せる走りで、間違いないな」

 すかさず、マゼラウスが尋ねる。そう言われたヴァージンが力強く首を縦に振ると、マゼラウスは少しだけ表情を緩めて、さらに言葉を続ける。

「そこまで深く考える必要なんてない。今からお前に課す試練は、お前自身の走りを壊すものではない」

「はい」

「お前自身の走り方は、徐々にスピードアップし、最後の最後に中距離の選手をも蹴落とすような爆発的なスパートを見せること。その走りで、何度記録を塗り替えてきたか、私ははっきりと分かっている。けれどな……」

 マゼラウスは、そこまで言って軽く息をつく。ヴァージンもほぼ同時に息を軽く吸い込んだ。

「徐々にスピードアップしているように見えて、実際はそれにムラがあることが、お前に見せたパフォーマンスカーブでも明らかになった。だからこそ、常にスピードを上げることを意識するんだ」


 マゼラウスから告げられたルールは、たったの三つ。

 5000mのタイムトライアルをすること。

 ただし、前のラップよりも一度でも遅いタイムを出せば、スタートからやり直すこと。

 最初の200mを40秒以上かけてはいけない。

 これまで何百回も5000mのタイムトライアルを繰り返してきたヴァージンにとっては、条件がたった二つ付け加わっただけのトレーニングにすぎない。……はずだった。


「On Your Marks……」

 マゼラウスの低い声とともに、スタートラインに立ちトラックを見つめるヴァージン。隣にはウォーレットがいて、彼女を見つめているように思える。

(よし……!)

 室内の中で、はっきりと鳴り響く号砲が駆け巡った。ヴァージンの力強い足が、トラックを優しく叩き付ける。ヴァージンの体はすぐに、最初のコーナーにさしかかった。

(スピードを緩めちゃいけない……)

 ヴァージンの脳裏に、あのパフォーマンスカーブが浮かんだ。コーナーでライバルに差をつけられる現実だ。

(差をつけられてはいけない……!)

 ヴァージンは、体をひねりながらコーナーラインを回った。だが、ヴァージンの目に飛び込んできたのはわずかな直線の先に見える、先程と同じようなカーブ。

(クリアしてみせる……!)

 ヴァージンはそこでもスピードを落とさないように、体を内側にひねらせる。だが、コーナーを回り終えた瞬間、ヴァージンは足を踏み出すテンポがかなり速くなっていることを感じた。

「最初から35秒!大丈夫か?」

 400mトラックにすれば、最初の1周で70秒のペース。それはアウトドアのレースでもあまり経験したことがないスピードであり、インドアのレースでは未知のスタートダッシュだった。

 「最低でも」、このスピードを維持しなければそこで終了というルールが、重くのしかかる。

(このペースでも、単純計算で14分35秒……。インドアでの自己ベスト。ウォーレットさんの記録にも近い)

 そう瞬時に計算したヴァージンの目に、次のコーナーが飛び込んでくる。これまでの2回よりやや遅れて、コーナーのラインぎりぎりに足を踏み出した。体を軽くひねりながら、ここもまたクリアする。

 だが、10回目のコーナーにさしかかった時、ついにヴァージンの意識から「そのこと」が飛んだ。直前でスピードを上げたはずのその体が、コーナーでわずかにペースを落としていく。

 コーナーを回り切った時、ヴァージンは我に返った。その瞬間、激しい号砲があたり一面に2回鳴り響いた。

「ジ・エンド!」

(……っ!)

 既に次のコーナーに差し掛かっていたヴァージンの足は、コーナーの途中で竦み、息を切らしながら一気にスピードを落としていった。そして、マゼラウスを横目で見て、膝を押さえながらトラックの真ん中に立った。

 ゆっくりとマゼラウスが近づいてきて、ヴァージンにストップウォッチを見せた。

「直前ラップが34秒28、今のラップが35秒34。ペースを落としていたことは、分かるな」

「……はい」

「最初から飛ばし過ぎだ。いくら実力をつけていても、思った通り途中で維持できなくなる」

 そこまで言うと、マゼラウスは首を横に振った。ヴァージンの目から見えるマゼラウスの表情は、トレーニングでのタイムが悪すぎた時に、きつい言葉を言う時の表情そのものだった。

「とにかく、体の準備ができたら、再びスタートラインに立て。今日は、5000m走りきるまで終わりにしない」

「はい」

 ヴァージンは、首を大きく縦に振った。まだ2000mしか本気で走っていない。次こそは走りを修正して、クリアできるということしか、この時の彼女は想像していなかった。


 15分後、ヴァージンは再びスタートラインに立ち、マゼラウスの放つ号砲とともにトラックに足を踏み出した。

(今度は、最初から飛ばさないようにしないと……)

 これまで何度も見せてきた、およそ400m76秒程度のスタートで、まずは様子を見ることにした。コーナーでは極端に踏み込むこともせず、1周目が38秒12、2周目37秒59と、まずは順調な滑り出しを見せた。

(あとは、少しずつコーナーでのスピード維持を意識するしかない)

 先程越えられなかった10周目を36秒02で通り抜けると、ヴァージンはこのあたりからコーナーで力強い走りを見せ始めた。スピードを落とさないよう、できるだけ重心を内側に傾ける。こうして、11周目を35秒台、15周目には34秒台と順調にクリアしていく。残り10周。ヴァージンはその足にさらに力を入れた。

 しかし……。

「ジ・エンド!」

 無情な空砲が、あと8周のところで2発、鳴り響いた。16周目のラップが33秒29、17周目は33秒49。この僅かとも言える差に、ヴァージンに心当たりはなかった。

 首を軽く傾けるヴァージンに、マゼラウスは告げた。

「15周目あたりから、コーナーを抜けた後の踏み込みが弱くなっている。コーナーだけを意識して、足が意識的な加速に追いついていない」

「分かりました……」

 言われて初めて気が付くヴァージン。これまで、タイムトライアルを日に2回以上繰り返した日はあったものの、やり直しで3回目というのは経験がない。下がりかけたモチベーションを、ヴァージンは唇を噛みしめながらなんとか踏みとどまらせた。

「信じているからな。世界で一番速く、駆け抜けるアスリートの力を」

 マゼラウスの後押しする声に、ヴァージンは拳にグッと力を入れた。


 しかし、そのトレーニングに終わりは来なかった。

「13周目35秒98、14周目36秒89!明らかにあそこのコーナーで気を抜いたな」

「19周目32秒30、20周目32秒78!スパート仕掛けるのが早い!」

「11周目36秒30、12周目36秒31!あとちょっとで続けられたじゃないか!」


(ゴールが、見えない……!)

 感覚として覚えているはずの、5000mという距離。しかし、その距離を走りきることなく、ヴァージンの足は止められてしまう。もはや勝負すべき相手は、スピードではなく気力になってしまっていた。

 そして12回目にその走りを止められた時、ヴァージンはトラックの上でふらつき、うずくまった。

「コーチ……。もう、ギブアップです……」

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