第17話 インドア・ナンバーワン(1)
年が明け、ヴァージンにとっての新しいシーズンが訪れた。
「コーチ、いいですか」
ヴァージンは、ある日のトレーニングを終えるとドリンクを口に含み、素早くマゼラウスの横に立った。
「まだ体を動かしたりないのか?」
「いえ……、なんか今年はインドアにも力を入れたいんです」
年が明けてから春が訪れるまでの間は、陸上のほとんどの種目においてはインドアシーズンである。室内のトラックを中心に、各種の選手権が行われる。だが、そこでのヴァージンは、たいてい満足のいくタイムや成績を残していないのだった。
昨年は、15分台という「最悪」のタイムで終えてしまったレースもある。だからこそ、インドアの4文字にヴァージンは目を光らせていたのだった。
「インドアシーズンだからこそ、今インドアでトレーニングをしたいんです。できれば、私が2月の終わりに出る、オメガセントラル室内選手権の会場とか……」
「もしかして、インドアでのタイムトライアル、か?」
「はい」
「そうか……。なら、お前の満足のいくようなトレーニング施設を代理人にお願いしておこう」
これまで何度もインドアシーズンも経験してきたヴァージンだったが、今年は大きな目標を持っていた。
それが、インドアでの世界記録だった。
今や、室外では何度も記録を更新するまでに成長したヴァージンだったが、インドアでの記録は昨年からの「宿敵」と言ってもいいウォーレットが持っている。昨年アムスブルグ室内選手権で出した14分32秒27。その壁を自らの足で乗り越えない限り、二つ目の世界記録を手にすることはできない。
ヴァージンの脳裏に、インドアで大きく差をつけて優勝したウォーレットの小馬鹿にしたような表情が浮かぶ。
(私は、インドアでも直接対決で勝つしかない……)
数日後、ヴァージンの姿はセントリック・アカデミーではなく、オメガセントラル市内の総合室内競技場にあった。その場所こそ、今年の2月に各国からライバルが集う決戦の地であった。彼女はそこに入る前に、巨大なドーム状の建物を見つめ、ゆっくりとした足取りで中に入った。
エントランスは、これまでどこの室内選手権の会場でも見たこともないほどに明るく開放的で、勝負に挑む者の心を落ち着かせるようなデザインになっていた。しかし、そんなデザインをじっくり見ている暇はヴァージンにはなかった。「セントリック・アカデミーによる貸切のため入れません」と書かれてあった立て看板を通り過ぎ、ヴァージンは中へと進む。
その看板こそ、この日のトレーニングがはるかに特別であることを示すものだった。
(他のライバルたちに邪魔されず、トレーニングができる……)
普段こういう場に入るときはまず大会の時で、中には様々な種目の選手がひっきりなしに出入りしているので、広々としたロッカーにはヴァージンにとって違和感さえ覚えた。しかし、トレーニングウェアに着替えてインドアフィールドに駆けあがると、そのような違和感があったことすら忘れてしまったのだった。いつものように、マゼラウスが先にトラックの手前で待っている。
「やっぱり、いつものように私の言った時間の10分前には姿を見せるな」
「えぇ。今日は特にやる気ですから」
「そうか……。とりあえず、まずお前に言っておきたいことは、お前の希望した通り、ここで室内選手権が行われること。そして、その大会にウォーレットが乗り込むことだ」
「ウォーレットさんが……、オメガに乗り込むのですね」
「今朝のニュースでウォーレットが言ってた。インドアの世界記録を、ヴァージンの目の前で見せたい、と」
この日に限って、ヴァージンはニュースを一切見ていなかったため、マゼラウスの口から告げられた言葉にヴァージンはやや戸惑いながらもうなずいた。
(逆に、いい勝負の場ができる。ここで、力の差を見せつければいい!)
そう心の中で叫びながら、ヴァージンは再びマゼラウスの表情を見つめた。すると、これまで落ち着いた表情で話していたマゼラウスが表情をやや硬くし、声のトーンを下げる。
「ただ、去年のままの走りでは、ウォーレットに勝つことはできない」
「はい……」
「ちょっと、このグラフを見て欲しい」
マゼラウスは、ヴァージンに一枚の紙を開いて見せた。そこには、ヴァージンとウォーレットの名前が書かれた曲線のグラフが示されていた。
「これは、私とウォーレットさんの何のグラフなんですか?」
「スピードだ。スポーツ科学の研究をしている大学教授から、去年のイーストフェリル室内選手権のデータを出してもらった。10m単位でスピードを測ってもらった、パフォーマンスカーブだ」
「イーストフェリル……」
ウォーレットに16秒ほどの差をつけられた、完敗とも言えるレースだった。その地名を言われた途端、ヴァージンの目が一気に細くなる。
「このグラフを見て、どこか気が付くところはないか」
「はい……」
(30m、50m、100m……。なんか、5000mではなくて短距離走のスピードグラフのような気がする……)
ヴァージンは、グラフの横軸の目盛を見て、すぐに悟った。そして、ヴァージンの走りを示す赤い曲線にかなりのふらつきがあることに気が付いた。
「なんか、私のグラフ、30m~70mとか130m~170mぐらいのところで、ウォーレットさんよりも遅くなってしまっています……」
「ウォーレットより遅くなっている、……か。まぁ、正解だ。ただ、そのパフォーマンスカーブは、正確に言うと、お前自身のスピードがそこで少し落ちているということだ。コーナーでな」
「コーナーで少し……落ちている……」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉に思わず息を呑み込んだ。自覚がなかった。ヴァージンの目から見ても分かったあのグラフの落ち込みは、まさにコーナーの場所に他ならなかった。
ヴァージンが紙からゆっくり目を離すと、すかさずマゼラウスはヴァージンに告げた。
「去年から、私はちょっと気になっていた。どうして、世界記録をバンバン叩きだすお前が、インドアではその走りができないのか……」
「えぇ……」
「それで、もう一つのレースを、専門家に見てパフォーマンスカーブを作ってもらった。スタイン選手権でのレースだ。2枚の紙を見たら、私の言ったことがはっきりと分かるはずだ」
スタイン選手権でも、同じようにウォーレットのタイムを上回ることができず、結果として優勝を逃している。しかし、イーストフェリルのときよりも、その差は限りなく小さくなっている。あと一歩のところで追いつけなかったレースだった。
スタイン選手権でのヴァージンのパフォーマンスカーブは、室外400mトラックでのコーナーと言える場所で、ゆっくりとスピードが落ちているように描かれている。しかし、イーストフェリルでのデータと比べて、コーナーでのスピードがかなり速くなっているように、ヴァージンの目には見えた。
「やっぱり、コーナーでのスピードの差ですか……?」
「いや、そこじゃない」
マゼラウスはゆっくりと首を横に振り、二枚の紙を見比べるヴァージンの横に立ち、右手の人差し指でヴァージンのパフォーマンスカーブをなぞった。
「正直なところ、ヴァージンでさえこの走りのタイプになっているとは、あまり思わなかった。ここに来た時からかなりの実力、かなりのタイムをたたき出せていたから、あまり気にしていなかった……。だが、お前にも足りなかったものがあった」
「足りなかったもの……」
マゼラウスの手がグラフからゆっくりと離れ、その体の向きが元に戻る。ヴァージンが少し息を呑み込むと、その呼吸を待って、マゼラウスは言った。
「お前の足は、コーナーでアクセルをかけたがらないってことだ」
「たしかに……」
ヴァージンは、そう言われた瞬間に首を縦に振った。最後の1周こそ無我夢中で本気の走りを見せるが、それ以外の場所でのレース展開を思い起こせば、たいていはコーナーを曲がりきったところでギアを上げることが多かった。いつの間にか、それが無意識のうちにヴァージンの足に刷り込まれていったのだった。
「そう。インドア選手権では、5000m走りきる間にトラックを25周しないといけない。12.5周でいいはずのアウトドアに比べて、直線区間はあまりにも短い。それは分かるよな」
「はい」
「コーナーでスピードアップしない。そうなると、お前は直線区間で相手に食らいつこうという意識が働く。そこで無茶にスピードを上げるとか、不完全にしかスピードを上げられずコーナーに突入するとか……、まぁ、そこまで言えばお前も分かるだろう」
「はい」
その瞬間、ヴァージンの目はマゼラウスの表情と、その先にある室内選手権専用のトラックをじっと見つめていた。
「そこで今日は、タイムトライアルもそうだが、ちょっとした特訓をしてもらう。おそらく、今まで私がお前に一度も取り入れたことのない、ハイレベルのメニューだ」
マゼラウスは、この時珍しく鼻で笑った。ほとんど見せることのないその表情に、ヴァージンの表情は曇った。