第16話 私ができるもう一つのこと(6)
「コーチ……」
ヴァージンは開いた口がふさがらなかった。何かに怯えるような目でマゼラウスを見つめ、その口から次の一言を発することができなくなってしまった。
「どうした、ヴァージン。そんな怯えることもない。私は、お前を褒めているんだ」
「すいません。なんか、また何か言われるんじゃないかと思って……。」
ヴァージンは、胸に手を当てて軽くため息をついた。改めて彼女の目で見たマゼラウスの表情は、トレーニングでいいタイムを出したときのように、喜びに満ちたものだった。
ヴァージンがゆっくりと表情を元に戻した後、少し間を置いてマゼラウスは首を縦に振った。そして言った。
「本当にお前は、よく言ったと思う。その口でな」
「えぇ……」
「もっと自信を持て。私に指図されることなく、自分で自分の道を選んだのだから」
正確に言うと、アルデモードに後押しされた、今回の大学進学の希望。しかし、これまでのトレーニングの時間帯やメニューをともすると大幅に見直さなければならないことであり、マゼラウスはそこに注目していた。
そのことが分かった時、ヴァージンは思わず口を大きく開き、マゼラウスに深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「むしろ、礼を言いたいのは私の方だ。ずっとアカデミーの中に閉じこもって、アスリートとしての生活を全うすることを、ヴァージンは自らの口で否定したのだからな」
「そうですね」
マゼラウスの軽く笑った表情を追いかけるように、ヴァージンもまた笑ってみせた。彼女の目の先には、マゼラウスの背後に自分の見つけたもう一つの道が続いているように見えるのだった。
「ただ、分かっていると思うが、これまで通りヴァージンを鍛え上げるのは同じだからな」
「はい」
「大学受験は、一般入試だと7月ぐらい。世界競技会の直前だ。受験を理由に、トレーニングを逃げ出すとかは、絶対にしないように」
「コーチ。私は、一般入試で大学を受けることを、今は考えていません。もっといい方法を見つけたんです」
「いい方法……か」
マゼラウスは、キョトンとした表情で一言ヴァージンに返すだけだった。
「着替えたら、ロビーのパソコンで見せたいものがあるんです」
「そうか。お前が言うくらいなら、相当なものなのだろう。ロビーで待っているから着替えてこい」
普段より相当早いペースで着替えを済ませ、ヴァージンはいそいそとロッカールームから出てきた。
「お待たせしました」
ヴァージンは、パソコンの前に座り、軽くマゼラウスのほうに目をやった。すぐにイーストブリッジ大学で検索をかけて、ちょうどアルデモードがヴァージンに見せたときのように、一見すると慣れた手つきで大学入試の中身のページに目をやった。
そして、ワールド・ナンバーワン入試のところまでページを進めると、ヴァージンはマゼラウスに向き直った。
「私が目指しているのは、これです。コーチ」
「ワールド・ナンバーワン入試……!それは、この世界ではほとんどいないものじゃないか」
「そうですね。でも、私はもうあの記録を持っていけば、入試の土台に上がれるのですから」
ヴァージンの胸には、強い誇りがあった。その力強い足で、今や14分14秒29で5000mを走りきることができるのだから。
「レースでの成績はどうであれ、記録的には完全に世界ナンバーワンだもんな。で、入試はどうなんだ」
「自己PRだけです」
「勉強とかは必要ないようだな。たぶん、自己PRだけならヴァージンでも何とかなりそうだ」
アカデミーでトレーニングの合間に開かれているちょっとした授業には、これまで3年間にわたって出席し続けてきたが、とくに数学や自然科学といったものについては、ヴァージンはほとんど授業後のミニテストでよい成績を取ったことがなかった。それ以外の分野でもあまり成績が伸びないことは、アメジスタで暮らしていた頃からあまり変わらなかった。
けれど、この数年の間で数多くの面接などを行い、自分の夢や想いをその口で伝えてきたのは事実だった。
「私は、大学に入って何を勉強したいかとか、いろいろ聞かれそうな質問にどう答えていけばいいか、これから入試までの間に考えるつもりです。もし、時間が合ったらでいいですが……、コーチ、私の書いた質問の答えを見て下さい」
「分かった。お前の夢を叶えるのなら、できる範囲で面倒を見るからな」
「ありがとうございます!」
ヴァージンは、深々と頭を下げて再びパソコンの画面に目をやった。その画面で学園生活のこと、自分の研究したい分野の教授のことなど、いろいろと確認した。
その後ろでマゼラウスが腕を組んで見ていたことは、ヴァージンにはもう分からなかった。
(なんか、心が軽くなったような気がする……)
ヴァージンは、ワンルームマンションに戻ると、その日のトレーニングの成果があまりに悪かったにも関わらず、ほっとした表情でベッドの上に腰を下ろした。そして、普段は全く気にすることのない壁を何気なく見た。
壁に貼っているポスターや雑誌の切り抜きは、一昨年あたりからほとんど変えていなかった。これまでヴァージンが目標としてきたはずのアスリートの力強い姿が3人、4人と貼られて、あとは申し訳ない程度にヴァージンの小さな画像の切り抜きが貼られている程度だった。
少なくとも、あの時目標にしてきたライバルの背中は、今のヴァージンには見えなくなっていた。逆に、これらのライバルたちが自分の背中に追いつくために、日々努力しているのだった。
一方で、部屋の片隅には一度しか読んでいない「ワールド・ウィメンズ・アスリート」の過去の号が置かれていた。その中に、何度目かの世界記録を樹立した時の、ヴァージンの超特大グラビアがはさんであったことを彼女は思い出した。
「もう、少なくともこの配置じゃまずいかな……」
ヴァージンは立ち上がった。そしてまず、バルーナのポスターの画鋲を勢いよく外して、ポスターを丸めて部屋の隅に立てかけた。
(もう、5000mじゃなくて10000mメインにするとか言ってたし……)
続いて、グラティシモのポスターの前に立った。最も窓側に位置して光に照らされ続けていたのか、すっかり色あせていた。そのポスターの画鋲も力いっぱい外して、ポスターを丸めて立てかけた。
(グラティシモさんも、もう私の敵じゃない……)
さらに、部屋の奥の壁に貼りつけたウォーレットのポスターの前にも立った。そして、画鋲を外そうとしたが、その手はこれまでの二人のように勢いよく画鋲を外すことができなかった。
それどころか、手は止まっていた。
(やっぱり、今のライバルはウォーレットさん……)
ヴァージンは、悩んでも仕方がないと分かっていることで首を何度か横に振った。ここで同じように外さなければ、ウォーレットをこれからもライバル、そして「敵」と認めることになる。しかし、インドアで世界記録を持っているなど、まだまだライバル視しないといけないことも、また事実だった。
(外さないで置くか……)
外しかけた画鋲をまたもとの位置に戻して、ヴァージンは一度首を縦に振って立ち去った。
そして、もう一つ残ったポスターの前にヴァージンは立った。クリスティナ・メドゥのポスターだった。アメジスタに暮らしていたときから、もう何年も部屋に彼女のポスターが飾られていた。
(最近、メドゥさんと真剣勝負をしていないような気がする……)
もはや、ヴァージンの実力からすれば、かなり見劣りがしているようにも見えてしまった。しかし、それでもヴァージンはメドゥのポスターを外すことができなかった。
世界記録とは何なのかを、メドゥがヴァージン以上に知っているのだから。
最後に、ヴァージンは自らのグラビアをはさみで切り取って、それをバルーナのポスターのあった場所に貼りつけた。タイマーの光がはっきりと「WR」と映し出し、それを背に雄叫びを上げる。まさにこれまで何度も世界記録を叩きだしたヴァージンにふさわしい力強い一枚だった。
(これが、私……!)
ヴァージンは、そのポスターの前に立ち、両手をギュッと握りしめた。ポスターを見るだけで、力が湧き上がってくるようだった。
トレーニングはおろか、大会でも未だにタイムに大きな幅ができてしまっている。しかし、本気の実力で掴んだ記録に勝る喜びはなかった。これまで、世界中の女性がどう走っても届かなかったそのタイムを、ヴァージンは軽く乗り越えていく。
これから何度も、こういったシーンを自らの体で経験できると信じ、ヴァージンは何度もそのポスターを見た。
(世界記録を掴んだ時、私がどれだけ嬉しかったか……。これも、自己PRに入れようか……)
今や、ワールド・ナンバーワンの女性になったヴァージンには、この時不思議と希望しか見えていなかった。