第16話 私ができるもう一つのこと(5)
「ヴァージン、すごいことやってくれたな」
翌日、普段よりも数十分早くアカデミーに着いたヴァージンに、それよりも早くコーチ控室に待機していたマゼラウスが飛び出すように部屋から出てきた。
ヴァージンは嫌な予感しかしなかった。ヴァージンはマゼラウスの手に持っているスポーツ新聞に目をやると、マゼラウスがすかさず広げてみせた。
「あのな、昨日はオフだからと言って、そんなでしゃばったマネをしてはいけないだろ!」
「でしゃばった……」
「なら、見るがよい」
スポーツ新聞には、ミラーニの試合の記事よりも紙面を割いて、ヴァージンがスタジアムのサブトラックで本気の走りを見せた、ということを紹介している。まさにヴァージンが大学生を追い越した瞬間がはっきりと映っている。
(うそ……)
紙面を見る限り、誰にどこからその画像が撮影されたかは明確に書かれていない。しかし、最初サインをねだってきた中の誰かが画像を撮ったことは間違いないようだ。
「……間違いなく、私です」
「どうして、そんなマネをしたんだ。レース外であまり本気の力を出すなと言ったじゃないか」
「すいません……」
その時、ヴァージンはゆっくりと顔を上げてスポーツ新聞からマゼラウスに視線を移した。肝心のマゼラウスの表情は、言葉こそ硬いが多少笑っている。それを見て、ヴァージンもマゼラウスに見えないように少しだけため息をついた。
「ヴァージン、別に怒っているわけじゃない。こうやって、ファンサービスをするのもアスリートとしてできる社会への貢献だからな」
(社会への貢献……)
ヴァージンの脳裏に、瞬時にあのサブトラックがアメジスタの貧しいインフラに切り替わった。レースの場でなくても力強い走りを見せることによって、その場にいる誰もが喜ぶのだった。
マゼラウスはさらに言葉を続ける。
「たしかに、お前はこのアカデミーに入った頃と比べると相当の知名度になっている。レース前にカメラが寄ってくるのを見て、そのことははっきりと分かっているはずだ」
「そうですね……。私も声を掛けられることが多くなりました」
「だからな、もしお前が外で何か問題を起こせば、その知名度が不利になることになる。だから、ファンサービスをやってもいいが、あまり度を過ぎたことをするなよ」
「分かりました」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉にすんなりとうなずいた。その自覚が彼女の中ではっきりとあったわけではないが、マゼラウスの意見としてヴァージンは心の中にしまうのだった。
だが、そう遠くない未来に、ヴァージンがそのことを思い知ることになろうとは、この時彼女は思わなかった。
「で、それを踏まえて……」
マゼラウスは、いったん閉じたはずのスポーツ新聞を再び開いてヴァージンに見せた。ミラーニの試合の記事の下にヴァージンの本気の走り、そして「・・・」という文字と共に「芸能面に続く」の文字が書かれていた。
「芸能……面……?私、芸能人では……」
「知名度が高いということは、一歩間違えれば芸能人だ。ほら、これを見ろ」
(……っ!)
――あのワールドレコードガール、ミラーニ・アルデモードと路チュー!
「……すいません!本当に……、すいません……!」
「分かっているだろうな。そのシーンを誰かに撮られてしまったということを」
「はい……。トップアスリートの一人として、恥ずかしいことをしてしまいました……」
ヴァージンは深々と頭を下げ、もう一度マゼラウスの表情を見ようとした。だが、一度傾けた首を元に戻そうとしても首の筋肉が固まったような気がして、すぐには元に戻せなかった。
「前を向け。してしまったことは、どうすることもできないだろ」
「はいっ!」
「……あのな、ヴァージン。男女間の恋愛だ。別に恥じることはない。だが、これでマスコミにはお前の彼氏が割れてしまった。事あるごとに、恋愛の話もされることになる。違うか?」
マゼラウスの表情は、やや硬い。スポーツ新聞を横に置くと、マゼラウスは腕を組んでヴァージンを見つめた。
「そ……、そうですね……」
「そういう人間になってしまったときに、一つ忘れてはいけないことがある。それはな……」
「それは……、何ですか?」
ヴァージンは、やや声のトーンを落としてマゼラウスに尋ねた。しかし、マゼラウスは首を横に振り、言った。
「それは、自分で考えろ。もう20歳になった。立派な大人だろう」
「えぇ……」
ヴァージンは、前日の路上キスの場面をもう一度思い浮かべながらマゼラウスの目を見た。時間が経つごとに下に傾きかける視線を、ヴァージンは何とかこらえて、コーチの瞳の奥に隠している答えを見つけようとした。
数十秒の沈黙が過ぎ去り、マゼラウスはかすかに口を開いた。
「もし、その答えを見つけられなければ、お前の選手生命は終わりだと思え。むろん、これまで真面目に取り組んできたお前が、その道を踏み外すことはないだろうが」
「終わり……。そうならないようにします」
「なら、トレーニングに入るぞ!ロッカーでトレーニングウェアに着替え、今日はトラックに行け!」
「は……、はい!分かりました……!」
そう言うと、マゼラウスはすぐにトラックに足を向けた。ヴァージンはそれを横目で見ながら、普段と変わらない歩幅で女子ロッカーに向かった。
ロッカーに入ると、既に一人、見慣れた先客がいた。黒のツインテールの髪が、ゆっくりとヴァージンに背を向けるように動く。
「あれ……、おはようございます」
「おはよう、ヴァージン。さっき、コーチと話題になってたわね」
いつの間に追い抜いたのか、グラティシモが既にトレーニングウェアへの着替えを済ませ、あとはシューズを履くだけになっていた。ヴァージンは自身のロッカーに手を掛けたまま思わず手を止めた。
「グラティシモさんも、見てたんですか……」
「勿論。あんな芸能面に載ってしまうヴァージンが、すごく羨ましくて」
「そう言ってくれると、嬉しいです……。ただ、コーチに怒られてしまいましたけど」
ヴァージンは、できる限りの笑顔でそう答えた。しかし、グラティシモはかすかにうなずいただけで、さらに言葉を続けた。
「私、走るのに夢中で、今まで恋愛なんてしたことないから」
「グラティシモさん……。本当ですか……」
「いい年頃の女がそれじゃダメだと思うけど、本業に打ち込むと、恋愛に費やすだけのパワーがないの」
グラティシモはそう言うと、かすかにヴァージンに笑みを浮かべて右手で黒く輝く髪の毛をゆっくり撫でた。そして、ヴァージンがはっきりとうなずくのを見ると、そのまま顔をロッカーの出口のほうに向けてしまった。
「人は、最後には恋愛をしなきゃいけなくなるのだから」
それから1日のトレーニングが始まった。
だが、この日はトレーニングをしているうちに徐々に体が重くなっていくのをヴァージンは感じた。
(前日オフのつもりが、かなり動き回ってしまったのが、ここに来ているのかもしれない……)
本来の実力とはほど遠いトレーニングでのアウトプット。最後に10000mのタイムトライアルを行い、そのタイムが久しぶりに32分台に沈んだその時、マゼラウスがついにしびれを切らした。
「今日はよくない。オフ明けとしては最悪だった」
「はい……」
マゼラウスは、走り切って疲れ果てているヴァージンにゆっくりと近づいてきた。
「……おそらく、何か考え事をしているのではないかと私は思うんだが、間違いないだろうな」
「考え事……ですか」
ヴァージンは、その問いかけに首を横に振ることができなかった。そして、ほんの1秒だけ目線をマゼラウスから反らし、再び視線を勢いよくマゼラウスに戻すと。やや声を大にして言った。
「昨日、私の一番の相談相手の……人と、ちょっといろいろ話してまして……」
「そんなかしこまらなくていい。私の前なら、アルデモードと言ってもいい」
「そんな、なかなか言えないです……」
そう言うと、ヴァージンは腹の底から吐き出すかのようにマゼラウスに言った。
「私、大学に入ります!今のままじゃ、自分のやりたいことができなくて……!」
「ヴァージン……」
マゼラウスは、ストップウォッチを下に垂らしたまま足を止めた。その後すぐ、マゼラウスはヴァージンを覗きこむように首を傾けた。
「大学に行きたいのだな」
「はい……。大学に行って、貧困社会学を学んで、アメジスタをどうすればいいのか、自分で考えていきたいんです!」
「そうか……。トレーニングはどうするつもりだ」
「大学の空き時間を使って、今までと同じように、このアカデミーでトレーニングをします」
ヴァージンはそこまで一気に言い切って、ふぅと息を吐き出した。その瞬間、マゼラウスはヴァージンの肩の上に両手を置いた。
「ヴァージン、よく言った!」
(えっ……?)