第16話 私ができるもう一つのこと(4)
「アルデモードさん、こんなに頂いていいんですか……!」
「いいよいいよ。せっかく僕たちの試合を見に来てくれたわけだし」
高級レストランの奥の方にある、店内の喧騒とはかけ離れた予約席。ヴァージンの目の前には、遠征に行ったときの夜でも出ないほど豪華な食事が次々とやってきた。最高ランクの牛肉だったり、一般的には滅多にお目にかかれないとされるエビだったり。そういった限りないごちそうを、ヴァージンとアルデモードは隣り合わせに座って口に運ぶ。
会話は食べ物の話で始まり、ファーシティの名物料理、有名なお祭りと、今のアルデモードだからこそ伝えられる話で盛り上がる。そして、料理もだいぶ少なくなったところで、アルデモードがヴァージンにこう切り出す。
「ところで、話が変わるんだけど」
「どうしたの……ですか?」
少し考えたようなしぐさを見せるアルデモードに、ヴァージンは思わず首をかしげた。ヴァージンの目からは、少し傾いたアルデモードの顔が妙に真面目になっているのが見えた。
「僕たち……、生まれはアメジスタだよね」
「そうですね……。私も、絶えずアメジスタの人々のことを想って、走るようにしています」
「それは、君がインタビューとかでも何回か言ってるからね。僕もそれに共感しているんだ。だから……」
すると、アルデモードはバッグから100リア紙幣の束を手に取って、軽く揺らしてみた。厚さ的に、2000リアはあるように見えた。
「君が、アメジスタ・ドリームという基金を作ったことは、いろいろなところから聞いているよ。だから……」
「いいんですか、こんなに……」
「いいよ。僕もアメジスタのために力を捧げたいから」
そう言うと、アルデモードはヴァージンの手に紙幣の束を軽く乗せた。
「ありがとうございます。アルデモードさん」
「いやいや。そう言われることもないよ。それでさ、ちょっと僕は考えていることがあるんだ……」
そう言うと、アルデモードは右の親指と人差し指をパチンと叩き、一度うなずいた。どうやら、基金の話が本題だったわけではないと分かり、ヴァージンは軽く目を細める。
「僕が試合でシュートを決めること以外に、そして君がレースで走ること以外に、アメジスタにできることって何だろうって、最近思うようになってきたんだ」
「私が、走ること以外にアメジスタのみんなに対してできること、ですか……?」
「そういうこと。僕も、君も、それぞれの世界で戦っているけれど、それ一筋でやっている気がしてさ」
(たしかに、今までの私は走ることに全てのエネルギーを使っていたのかもしれない……)
アルデモードのその言葉を聞いた瞬間、ヴァージンは思わず手を止めた。図星だった。たしかに、セントリック・アカデミーでは午前と午後のトレーニングをこなし、自主トレも心がけている。たしかに、昼休みには基礎的な学問の授業も受けているが、起きている時間の8割以上は走ることだけを考え続けていたのだ。
(アルデモードさんも、そのことは薄々気が付いていたのかもしれない……)
何度かうなずくヴァージンを見ながら、アルデモードはさらに言葉を続ける。
「僕は、クラブチームに入っているから、チームのみんなから離れて行動することができない。けれど、陸上はリレーとかそういうものじゃなければ、基本自分のスケジュールに合わせてメニューを組み立てることができる」
「たしかに、言われてみれば私はライバルと同じトレーニングはしていないです」
「やっぱりね。だからこそ、君ならアメジスタのためにレース以外でもいろいろやれることがあるんじゃないかなって、僕は思うんだ。例えば、大学とかね」
「大学……!」
ヴァージンは思わず息を呑み込んだ。これまで、数多くのアスリートにレースの前後に話しかけてきたが、大学という言葉を何度か耳にしてきたのだった。
「ほら、ライバルたちだって、トレーニングと大学を両立してきたと思うよ。普通の大学生と一緒に専門知識を学びながら、それが終わったら大学の陸上部とか入ってさ。……ちょっと、僕が口出しし過ぎてるなら、この場で謝るけど」
アルデモードは、ここでヴァージンに向かって思わず苦笑いを浮かべた。そのしぐさに、ヴァージンは右手を軽く振り、続いて首も横に振った。
「そんなことありません。なんか、私も動き出そうって思っていた頃なので」
ヴァージンの目に、アルデモードの笑顔が映る。その向こうには、うっすらと映るアメジスタの人々。明日への希望すら見えず、建物と建物の間に身を寄せるしかない人々。
そして、立ち入ることすら禁じられた、本来は自らの限界に挑む場所であるはずの、陸上競技場。
それらがみな、ヴァージンの記憶の中から、はっきりとした形で甦ってくるのだった。
ヴァージンは、アルデモードに目を合わせながら、ゆっくりと口を開く。
「私とアルデモードさんは、アメジスタの人々を、そしてアメジスタがどんなに貧しいかを世界に伝えられる数少ない人間だと思っています」
「数少ない……。そうだよね。僕と君以外、たぶん今のところいないと思うよ」
「だから、外の世界からアメジスタを見つめている私たちが、それを伝えられるようにしないといけない」
そこまで言うと、ヴァージンはグラスに入っていた水を軽く喉に通した。アルデモードの目線が、グラスからヴァージンの目に移る。
「私も、できれば大学に入りたい。そして、アメジスタのみんなが経験しているような、貧困とは何かを、外の世界から学んでみたい」
「ヴァージン……。それは、たしか貧困社会学って言う立派な学問だと思うよ」
「貧困社会学……?」
「そう。僕も詳しくは分からないんだけど、たしか前の会社にいた時に、それを専攻していた人がいて気にはなってたんだよ」
そう言うと、アルデモードはヴァージンに向けて軽くウインクする、ヴァージンはそこで力強くうなずいた。
「君は、まだ20歳。今から大学に入っても、決して遅くはない」
「ちょっと……待ってください」
「どうしたんだい?」
「トレーニングは大学が終わってからアカデミーでやればいいと思うけど、私、全然勉強ができないような気がする……。時間の計算ぐらいしか、この数年考えたことはないような気がする」
ヴァージンの脳裏には、様々なライバルから聞いた「大学入試は簡単ではない」という言葉が浮かんでいた。それまでの学校に入るよりも難しく、一流大学であればあるほど希望していたのにふるい落とされるというのはざらにあるのだった。
「そうだな……。でも、大学に入るのは普通の試験だけじゃないと思うんだ」
そう言うと、アルデモードはバッグからノートパソコンを取り出して、皿が少しずつ片づけられたテーブルにそっと置く。そして、ヴァージンに見せるような向きにして、「貧困社会学 大学」で検索を始めた。
数十秒後に、ヴァージンの目には荘厳な印象を持ったキャンパスの画像が飛び込んできた。
「イーストブリッジ大学……。ここに私が目指そうとしている道があるんですか……?」
「そうだね。ここの大学教授が、貧困社会学で世界的に有名なところ。大学のレベルも、かなり高かったような気がするんだ」
「でも、そういうところほど入るのが難しい気がします……」
「じゃあ、一般入試以外で何かあるか見てみようか……、ほら!」
アルデモードが大きくうなずいたのを見て、ヴァージンはノートパソコンの画面にもう一度目をやる。
(これは……!)
「ワールド・ナンバーワン入試。世界で一番と認められたもので大学にアピールするんだ」
「ワールド・ナンバーワン……!これ、私のためにあるようなものじゃない……」
「僕もびっくりしたよ。これ使える人はそんないないのに、イーストブリッジ大学にこんな入試があったなんて」
ヴァージンとアルデモードは同時に口元が緩み、お互いがお互いのことを見て笑った。
「ヴァージンは、世界で一番、いや今まで生きた女たちの中で一番速いんだからさ」
「なんか、もう大学に行けるような気がして……。すごく嬉しくなりました。ありがとうございます!」
その後、ヴァージンはアルデモードのノートパソコンで大学の情報とか軽く見た。大学入学のシーズンは9月で、ちょうど来年の世界競技会が終わったあたりで大学に入学することになる。ワールド・ナンバーワン入試は5月に行われるとあり、大会スケジュールを調整すれば何とでもなる時期だった。
(あとは、大学とトレーニングの両立をどう進めていくか……)
「今日は、どうもありがとうございました」
「そんなことないよ。なんか、君の大学に入りたいって強い意志が聞けたんだし、感謝するのは僕だよ」
あっという間に二人きりの時間は流れ、ファーシティから家に戻らなければならない頃になった。ヴァージンはこの長かった一日を思い出しながら、アルデモードの手を力強く握りしめる。
「来年も、君が次々と記録更新していくの、楽しみにしているよ。アメジスタの大きな星を、僕はずっと見ているから」
「分かりました。その星の輝きをもっと強くしていきます」
そう言って、ヴァージンは天を見上げた。ファーシティのネオンが照らすその先の夜空に、流れ星が見えた。
「あ……!」
「どうしたんだい?」
「さっき、ここから流れ星が見えたんです……」
「じゃあ、大学に入れますように、世界記録更新できますように、僕といつまでも……、と3つ早口で言ったんだね」
「……言った」
ヴァージンはそう言うと、大きくうなずき、まだ人の往来が激しい通りをバスターミナルに向かってゆっくりと歩き出した。時折アルデモードに振り返ると、そこには笑顔を絶やさない彼の姿があった。