第16話 私ができるもう一つのこと(3)
ミラーニ対グラスベスの試合が始まった。ピッチ上で22人の選手が、一つのボールを相手側のゴールに押し込むために懸命に走る。熱きサッカーのバトルが、今そこにあった。
時折湧き上がる歓声に包まれながら、それを見つめる、陸上選手のヴァージン。
(なんかすごい……。観客席にいると、みんな、こんなに熱くなれるんだ……)
これまで数多くのレースに出場してきたが、スタジアムの観客席に上った経験はヴァージンにはほとんどなかった。レースで走っている時は、ほとんどの時間ひたすら前だけを気にしながら走っていた。徐々にヴァージンを応援する声も大きくなってくるが、レース中に意識的にその姿を見ることはなかった。
それが今、フィールドが違うとはいえ、こんなにも熱くなれる。ヴァージンも、気が付くと他のミラーニのサポーターたちと一緒に、大きな声を上げていた。
ヴァージンのすぐ近くに、前半はミラーニのゴールキーパーがいる。後半は、その逆だ。
ヴァージンは、前半を戦うアルデモードの姿をその目で探した。それらしき茶髪の青年の姿が、この場所から一番遠いところに映っていた。
(アルデモードさん……!やっぱり、アメジスタの頃と同じでフォワードやってる……!)
だが、肝心のアルデモードは、こちら側に目を向けている。ボールが、ほぼセンターラインよりヴァージン側で動いてしまっている。この状況下では、アルデモードたちフォワードも、センターラインに近づかなければならない。
そして、まだ開始10分も経過していないのに、その時は来てしまった。
「ああああああーーーっ!」
悲鳴にも近い声が、ミラーニのサポーターからあふれかえる。ヴァージンは、ボールの動きをその目で懸命に追っていたが、ようやくその目が追いついた時、そのボールはゴールの中に収まっていた。
これまで一度もサッカーの試合を見たことのないヴァージンでも、これが何を意味するかはすぐ分かった。
(まずい……。なんか、相手の方がかなり運動量多いような気がする……)
グラスベスの選手が、こちらからもあまり確認できないようなスピードで次々とボールを回していくのに対して、ミラーニの選手はどこかスローモーションに見えて仕方がない。ちょうど、ヴァージンがスピードの遅いライバルを周回遅れで抜き去る時のように、その動きは相対的に見て遅い。
そして、前半のうちに2点、3点、時計が45分を過ぎたあたりで4点目。前半だけで、ミラーニは4点もの差をグラスベスに突き付けられてしまった。
(アルデモードさん……)
ほとんど仕事らしい仕事をできなかった、フォワードのアルデモードの姿が、ヴァージンの目に小さく映る。けれど、彼は決して落ち込んでいるわけではなく、残り45分に向けて気力を振り絞っているようだった。
ヴァージンは、その時はっきりと思った。この後の後半、アルデモードが相手のディフェンスをかいくぐり、こちら側のゴールを揺らす力強いシュートを放つことを。
そして、それは現実のものとなった。
後半が始まって16分、ついにボールがヴァージンの目にもはっきりと見える位置に飛び込んできた。グラスベスの選手が蹴ったボールがサイドラインを越え、ミラーニの選手がスローインする。その時、一人、二人と、これまでにないくらいきれいにボールがつながっていったのだ。
(チャンス……!)
これまで悲鳴しか上げなかったミラーニのサポーターたちが、一気に盛り上がる。その歓声に混じって、ヴァージンも思わず声を上げる。そんな力強い声援に後押しされ、ついにボールがアルデモードのところに届いた。
(シュート……!)
その瞬間、アルデモードの右足がかなりのスピードでボールに迫り、これまでのパスとは比べ物にならないほどのパワーで、右サイドから一気にシュートを放った。力で回転するボールは、平べったいアーチでも描くように、ゴールに迫る。ゴールキーパーが手を伸ばしても、その美しく強いシュートには届かない。
「うわああああ!」
その瞬間、激しく湧き上がるファーシティ・スタジアム。アルデモードが、この不利な流れを断ち切ろうとする力強いシュートを決めた。そのことに、ヴァージンは震えだした。もう、アルデモードの姿を見るしかない。
(すごい……、すごい……!初めて見たけど、本当にすごい……!)
その時、ヴァージンの目にアルデモードが向かってくるのが映った。
喜びと達成感に満ちた彼の表情が、こちらに飛び込んでくる。気が付くと、アルデモードはコーナーすれすれのところまで走り、はっきりとヴァージンの席に体を向けていたのだった。
「アルデモードさん!」
その声はスタジアムを包み込む歓声に紛れて全く聞こえないが、それでもヴァージンは彼を後押しするような声で叫んだ。すると、アルデモードは、ヴァージンに向けて大きく手を振った。
――僕は、ゴールを揺らすことに、全てを懸けているんだ!
しかし、アルデモードの喜びに満ちた瞬間は、ゲームの中のほんの一部に過ぎず、この後ミラーニは立て続けに3点を突き放されてしまう。結局、最後までヴァージンたちの近くにボールが回ってくることはなく、1-7という、サッカーをある程度知っている人であれば「絶望的な」点差で、ミラーニはホームでの試合を落とした。
ガックリと肩を落として帰る、サポーターたち。そのほとんど開かない口から、時折「リーグオメガ最下位」「来期はオメガセカンドも覚悟かな」などという声がこぼれてきた。
(なんだろう……。私はアルデモードさんの活躍が見れただけで嬉しかったのに……、やっぱり負けて悔しいと思うのは、ライバルに負けた時の私と一緒……)
ヴァージンは、ミラーニの選手が完全に見えなくなって、ようやく席を立った。
1時間後、スタジアム近くの高級レストランの前で、ヴァージンはアルデモードを待っていた。数日前にアルデモードから受け取ったメールでは、ここで豪華な夕食を食べながら話をすることになっている。
しかし、肝心のアルデモードの姿が、約束を10分過ぎても現れない。これまで、ヴァージンを誘ったとき、アルデモードは必ず約束の時間よりも前に来ており、ヴァージンを待っているのだった。
そして、時間は過ぎ、すぐに約束の15分後になってしまった。わずか15分弱の勝負に挑んでいるヴァージンが、これほど長いこと同じ姿勢で立っていることは、これまでほとんどなかった。
(アルデモードさん、どうしたんだろう……)
ヴァージンは、スタジアムの方向を見つめて、見慣れた青年の顔を懸命に探した。スタジアムに近いということもあり、試合終了から1時間以上経っているのに、大勢の人が途方に暮れていて、アルデモードの姿を見つけることは容易ではない。
街は、敗戦の悔しさを消し去ることができないでいた。
そして、約束した時間から30分が経とうとしていた。ヴァージンは、ついに首を下に向けた。時折吹き付ける、12月の冷たい風に、ヴァージンの金色の髪が力なく震えている。本気で走れば、かなりのスピードで突き進むことができるその足まで、この寒さで固まるような気さえした。
その時、ヴァージンの耳を優しい声が撫でた。
「君まで、首を下に向けることはないよ」
「えっ……、この声は……」
ヴァージンは、恐る恐る顔を上げた。ヴァージンからほんの数歩のところに、見慣れた青年の姿があった。
「僕だよ。お待たせ」
「アルデモードさん……!」
ヴァージンは、思わずアルデモードに泣きつきそうになった。これまで張りつめていた想いが、彼の姿を見るだけで込み上げてくるようだった。それを、ヴァージンは左足でぐっとこらえていた。
「随分待たせちゃった。ちょっと、チームで急なミーティングをしてたからね」
「でも、来てくれた……」
ヴァージンの目に時折映る、アルデモードの優しい笑顔。時々ウインクさせる彼の目が、ヴァージンの視線を見えない糸で釘づけにさせた。
「うん。だって、チームも大事だけど、君も大事だからさ。世界一のアスリートになるっていう、同じ夢に向かっているアメジスタの仲間なんだから」
その瞬間、ヴァージンはあの時のシュートにも似た力強さを、その肌で感じた。スピードスターのトレーニングシャツに包まれたヴァージンを、アルデモードの2本の腕が強く握りしめた。
(えっ……)
まさか、こんな人ごみの中で、それも所属チームのホームタウンの中でやることを想定していなかったヴァージンは、思わず涙を目に浮かべた。
「僕の、負け試合を……応援してくれるヴァージンが、とても素敵だった」
「アルデモードさん……」
ヴァージンも、わずか数秒遅れて、アルデモードの腕の動きと同じように、アルデモードに強く抱きついた。
(なんか、アルデモードさんが……、素敵に思えて……!)