第16話 私ができるもう一つのこと(2)
これまでヴァージンは、一般人にもはっきり見えるアカデミーの敷地外で軽めのトレーニングをしたこともあれば、アメジスタの実家近くを本気で走ったこともある。だが、ファンからの声で5000mを走ることに決めたのは、これが最初だった。
普段のレースとは違い、トレーニングウェアを着たままヴァージンはスタートラインに立った。先程までスタジアムを訪れていた何人かがウォーキングしていたが、雰囲気を察したのか出ていき、サブトラックにはヴァージン一人が残された。
そこに、さらにヴァージンに声がかかった。見るからに学校で陸上部をやっていると思われる、ヴァージンよりも年下の茶髪の青年だ。
「俺も一緒に走っていいですか。結構足に自信があるので」
その男性の細い足を、ヴァージン1秒ほど見て、すぐにうなずいた。そしてそれが引き金になり、すぐに3人ほどのファンが名乗りを上げた。
「ありがとう。私以外男子だけど、一人よりも大勢で走った方が私も勝負しやすいですし」
「ありがとうございます!」
(プロとして世界と戦っている私が、知らない男とは言え負けるわけにはいかない)
ヴァージンの目が、想定していた以上に細くなる。
わずかな空白を経て、ヴァージン含めた5人が土のサブトラックにその一歩を踏み出した。まず飛び出したのは、最後に手を上げた背の低い少年で、まるで400mでも走るかのようなスピードで一気に前に飛び出していき、すぐにペースを緩めた。だが、それが起爆剤になり、ヴァージン以外の青年たちが前に飛び出していく。いきなり400m72秒のペースで彼らは勝負を始めようとしていたのだ。
(少し甘く見ていた。ついていくしかない……)
200mのサブトラックを1周しただけで数歩後ろに回ったヴァージンは、ここで軽くスピードを上げ、なるべく序盤で大差をつけられないようにした。だが、同時にここでむきになって普段のペースを乱すこともしなかった。今はまだ、勝負をかけるときではない。
その時、サブトラックの外から、今は最下位のヴァージンに声がかかる。
「頑張れ!グランフィールド!」
一人のアスリートとして成長するにつれ、レース中の声援は大きくなっていったが、ここまで近くでこの声を耳にすることなどなかった。普段通りの距離、25周を競うが、1周、また1周とその声は大きくなっていく。
5周を通過した時には、ヴァージンの感覚で3分15秒。照準を合わせたレースや、調子のいい時のトレーニングに比べたら、少し遅いペースだ。この時点でヴァージンより前を走るのは、青年二人に絞られていたが、最初に声を掛けた茶髪の青年と、その彼と同じような体格をしている黒髪の青年が40mほど先で1位を争っているようだ。
(やっぱり、陸上やってる……。これは、普通の一般人じゃない)
ここでようやくヴァージンはギアを一つ上げた。これ以上引き離されるわけにはいかない。二人の青年のペースは、だいたい400mで74~75秒程度と、普段のライバルたちのペースと全く変わらない。
(その程度なら、私は軽く出せる!)
ヴァージンは、40m程度まで広がった差を次の1周で一気に10mほど縮めた。ペースにして400m73秒程度。彼らに勝つためには、このくらいの走りで十分だと考えた。
だが、一般人との勝負、そんな簡単に決着がつくことはなかった。
「グランフィールド、追い抜け!あと数歩!」
2000mをおよそ6分17秒で通過したヴァージンは、茶髪と黒髪の二人の青年の背中をついに捕えた。だが、ここで茶髪の青年のストライドが、これまでとは比べ物にならないほど大きくなる。
(……!)
ヴァージンが黒髪の青年を抜き去ったと同時に、その目に飛び込んできたのは少しずつ引き離しにかかる茶髪の青年の姿だった。2000mを過ぎたばかりとは言え、ここでスピードを一気に上げたのだった。
(400m72秒……もしかしたら、70秒切る走りかも知れない)
2200m、2400mと徐々にヴァージンから茶髪の青年の背中が遠くなる。周回遅れになった青年が飛ぶようなスピードでヴァージンに迫ってくるのは大違いだ。
そのまま3000mが過ぎる。差は1000m通過の時と同じ40mだが、茶髪の青年のペースは落ちる気配を見せない。ヴァージンも、最後の勝負に懸けるため徐々にスピードを上げていくが、普段のレースで青年のペースよりも速く走ることはなく、差を極端に詰めていくことはしない。
歓声は、さらに大きくなる。この頃から感情すらこもった声もヴァージンの耳に届くようになった。
「ヴァージン・グランフィールド!もう少しだよ!」
(本気を……、見せるか……)
4000m、ついにサブトラックでの突発レースも、残り5周になった。ここまで力の温存に回っていたヴァージンは、ここで一気にスピードを上げた。茶髪の青年との距離はわずかに20m。本気で1周も走れば、青年がこれ以上ギアチェンジしない限り追いつくことはできる。
(よし!)
400m71秒程度で走っていたヴァージンの足が、すぐに66秒ほどのスピードに舞い上がる。そして、1周も経たないうちにそれが64秒まで高まり、4200mを過ぎた最初のコーナーで茶髪の青年の真後ろについた。
「グランフィールド!すごい!さすがじゃん!」
その声を追い風に、ヴァージンは茶髪の青年の真横に出た。そして、そのまま一気に前に出て、トップスピードに近い状態でヴァージンは青年を引き離しにかかる。これまで女子のトップアスリート相手に見せつけてきたヴァージンの足がトラックを駆け抜ける。
だが、引き離しにかかったヴァージンは、追い越したはずのライバルが近づいてくる風を感じた。
(青年も本気になって走ってる……!)
4400mを過ぎ、最初のカーブでヴァージンは軽く横を見た。茶髪の青年を、はっきりとその目で確認することができなかった。同時に、ヴァージンの耳に響いてくる青年の小刻みの足音。これこそ、戦うフィールドは違えど本気でトラックを駆け抜ける姿のようにヴァージンは思えた。
(最後まで抜かれないようにしないと……!)
残り2周と少し。ヴァージンはここに来る前は絶対に出すことはないと思っていたトップスピードを出すことにした。一歩、また一歩とトラックを蹴り上げるにつれ、体の鼓動が高まる。スピードで食らいついていた青年は徐々に引き離され、最後のコーナーではヴァージンの目にはっきりと見えるところまで引き離されてしまった。
(危なかった……)
予想外の展開に、ヴァージンはゴールを駆け抜けた瞬間、サブトラックの横にある芝生で少しよろめいた。そして、すぐに向き直り、たくさんの観衆が見つめるトラック外に顔を向けて、少し荒れた息と緩めた表情でその声援に応えた。
「やったじゃん!グランフィールド!」
「レコードホルダーの生の走りを見れて嬉しいよ!」
あまりの展開に、ストップウォッチを止めるのが遅れたので、正確なタイムこそ測っていないが、体感的に14分53秒程度と、ワールドレコードと比べればほど遠かった。十分なアップをしていないことを、今更になってヴァージンは悔やんだ。だが、誰一人としてヴァージンの走りと最後まで分からなかったレース展開に不満な表情を見せる人はいなかった。
ヴァージンは大きく手を振り、ウォーターサプリを一気に飲み干してスタジアムの中に入っていった。
気が付くと、ミラーニの試合開始まで15分を切っていた。観客席には地元を中心としたサポーターがぎっしり押しかけていた。ヴァージンのもとに届いたのは2階席のコーナー側なので、ピッチからは見えづらい場所だった。サポーターの熱気はこの場所でもはっきりと届いていたが、肝心な何かが、その席では足りないように思えた。
(アルデモードさん、私に気が付いてくれるかな……)
キックオフの前、両チームの選手はまだピッチに姿を現していない。しかも前半か後半のどちらか45分間は、グラスベス側のゴールになるため、キック力のあるアルデモードはおそらく近づいてはこないだろう。だが、この場所のチケットを送ったのがアルデモードということを考えると、試合中何かしら顔を向けてくれるのではないか。
(私と同じように頑張る、アルデモードさんの姿を、ここで見届けるのが一番か……)
ヴァージンは、スタジアムの時計でキックオフの時間を今か今かと待った。
そして、エスコートキッズの手を取り、ピッチに立つ22人の選手が続々と入ってきた。赤いユニフォームのミラーニ、薄紫のグラスベス。ゆっくりとピッチに向かう選手たちの中に、見慣れた姿があった。無造作に束ねられた茶髪に、涼しげな表情で試合に臨むその姿こそ、アメジスタ時代からその姿を知るアスリート、フェリシオ・アルデモードだった。
(……アルデモードさん!)
向こうから全く見えるはずがないのに、気が付くとヴァージンはミラーニの選手に向けて手を振っていた。