第2話 誰もヴァージンの未来に力を貸さない(3)
それから、二人の間にどれだけの時間が流れたか分からないほど、ヴァージンと男性は次の言葉を口にすることができなかった。いや、ヴァージンの口は何かを言いたくて仕方がないほど動いていたが、それを音にして外に発することができないくらい、彼女の声は臆病に映った。
不意に、しゃがみこんだ男性の髪が、迫る壁を叩き付ける風にかすかに揺れ、わずかながら上に持ち上げられた。それは、男性がかつて胸に抱いていた勝負心のように、ヴァージンには映った。
「失敗って……」
不意に、ヴァージンのかすかな声が男性の耳を優しく撫でた。言いたくても言えなかった言葉を、彼女が必死で叫ぼうとしている姿に、男性はようやく顔を上げた。
「失敗って、この世界、誰もがすることだと思うんです……。失敗は、悔しいし、もしかしたらそれが怖いから……怯えちゃうこともあると思うんです」
「それが、俺のアスリートをやめた直接の原因だな……。必ず失敗するし……、何もかも失敗するし……」
細い声で言う男性に、ヴァージンはかすかに首を縦に振った。その左手の拳は、無意識のうちにギュッと握りしめられていた。
「気持ちは分かります!でも……、でも何で、必ず失敗するって思うんですか!」
「……っ」
ヴァージンは、目の前にいる人物が赤の他人でなかったら左手の丸めた拳で殴れそうなくらい、煮えたぎっていた。男性の言った一言が、胸を締め付けられるくらいにヴァージンの心を襲う。
「誰もが言います。アメジスタは弱いとか、勝てないとか。世界の壁が厚すぎて、勝負にならないとか!けれど……、けれど、それに挑めるのがアスリートじゃないのですか!」
気が付くと、ヴァージンは涙声に変わっていた。まだ16歳の少女が無意識に言い放った言葉が、余計に彼女を汚していった。
「失敗を恐れて諦めるなんて、そんなのおかしいです!」
ヴァージンの崩れかけた顔を、男性はまじまじと見ることができず、時折首を横に振ってその浴びせられる言葉から逃げようとした。けれど、ヴァージンの言葉で突き刺さった明るい光を消し去ることはできなかった。
「……負けたよ。君に」
「負けた……、って、そんな」
「いや、昔の俺も、そういうこと言ってたなって思うんだ」
そう言うと、男性は軽く天を仰いだ。世界を目指して、バスケットという分野で戦おうとしたとき、彼もたしかに同じことを口にしていた。けれど、その言葉はやがて汚れた空のようにくすみ、次第に諦め混じりの言い訳へと変わってしまっていた。
「俺も、絶対に諦めるかって思った。一生懸命練習した。その結果が、あの0-154だ……。勝利への道があまりにも遠いことを悟り、俺はその時に諦めを悟った……」
男性はふぅとため息をついて、見上げていた空から首を元に戻した。
「あの時諦めていなければ……。今でもそう思う」
「もっと違う人生があったと思います。今じゃ、世界で活躍するアスリートに……」
「たぶん……、そうだと思う。てか、そうなりたかった」
そこまで言うと、男性は大きくうなずいて体を起こし、中腰のままのヴァージンの肩に手を優しく乗せた。
「前言撤回だ。君は、昔の俺のような立派なアスリートになって欲しい。俺は、今のままの君に……、希望を持ちたいんだ」
「……ありがとうございます!」
ヴァージンは、涙声を止めて優しく微笑んだ。あれだけ辛い言葉を言われた相手から飛び出してきた言葉が、今のヴァージンにもわずかに信じられないが、彼の表情を見る限りでは、もはやあの時の言葉は出なそうだった。
「さっき言ってたな。夢は、陸上の選手だと」
「はい。その夢を諦めるつもりはありませんから」
「そうか……」
そう言うと、男性は路地に横たわっている一つの樽に手を伸ばし、煤さえ空気中にまき散らして樽の蓋を開けた。そして、薄暗い樽の中に、男性は慣れたように手を入れ、紙の束を飛び出した。
「それは……!」
ヴァージンは、思わず口を両手で押さえた。樽の中から出てきたのは、紛れもなく100リア紙幣の束で、それが一つだけでもアメジスタで1ヵ月は軽く過ごせるのに、男性は同じサイズの束を四つも抱えていた。男性はそれを突き出すようにヴァージンに近づけた。
「未来の君への投資だ。やる」
「……いいんですか?こんなにもらっちゃって……」
ヴァージンは困惑した。まだ帰る家があり、そしてまだ自分の面倒を見てくれる人がいるのに、お金だけが独り歩きしているかのように、ヴァージンには映った。
しかし、かすかに震えているヴァージンをよそに、男性は首を軽く横に振り、札束をさらにヴァージンに近づけていく。
「いや、アスリートとして育つには、お金がいる。少なくとも、国外に行くには渡航費用とかかかるし、トレーニングの器具とかも安くは買えないからな」
「そうですか……」
前にどこかで聞いた話であるにもかかわらず、ヴァージンはその話を聞き流すことができなかった。目の前に映るたくさんの金が、ヴァージンを釘付けにする。
(でも……、もし私にこんな金を渡して、この人の生活がもっと苦しくなったら……)
「気持ちだけ、受け取っておきます」
「あれ、いらないのか?」
「今は……、まだいいです。応援してくれるだけで、私は力になるんで」
ヴァージンは、話している間にも首を軽く上げて、できる限り札束に目がいかないようにした。見てしまうと、どこから湧いてきたか分からない金に意識が行ってしまうからだ。しかし、男性が言っていることも間違いではなく、ヴァージンは怪しい男性に背を向けることもできなかった。
しかし、揺れ動くヴァージンの心は、聞き慣れた叫び声で終止符を打った。
「何をやってる!ヴァージン!」
(……父さん!)
突き刺さるような激しい言葉に、ヴァージンは思わず後ろを振り返った。そして、そのまま呆然とジョージの表情を見つめていた。ジョージは、最近よく見せるようなしかめ面をヴァージンに浴びせている。
(……まずい)
ヴァージンは少しだけ左に動き、男性の持っている100リア紙幣の束をジョージに見せないようにした。それでも、ジョージはヴァージンのほうに少しずつ近づいていった。
震えながら硬直したヴァージンの前に、ジョージは止まった。
「このどこが、就職活動と言うのか教えて欲しい」
「……ごめんなさい。この場所を通りかかったら、つい……」
ヴァージンは、いつ心から泣きたくなるか分からなくなるような嘘泣きを始めた。しかし、泣いている声は出せるのに、涙は不思議と出てこなくなってしまった、
「あのな、路頭に迷うとはこういうことを言うんだよ。ほら、その人だって、おそらく充実した生活を送れない、元アスリートなんだろ」
「父さんっ!」
ヴァージンは、右足の靴を激しい音と共に地面に叩き付けた。狂ったように男性の表情を伺い、その後ジョージを睨みつけた。
「この人には……希望があって、その希望を叶えるためにアスリートになったんです!今はこの場所に身を寄せるしかないですが……、彼の昔を思い出してくれた私に、希望を見出してくれたんです!」
男性の首が軽く縦に振れるのを、ヴァージンは風の動きだけで掴んだ。
「私がアスリートになってほしい……そう思ってくれる人は、父さんが思う以上にいます。アメジスタは弱いって事実はあっても……、まだみんな希望を捨てていません!」
「そうか……」
そう言うと、ジョージはヴァージンを手招きして路地の外に出した。久しぶりに日の光に照らされるヴァージンの薄い金髪に、路地の壁に髪が触れてしまったのか、少しだけ汚れていた。
「あれ?それ、『ワールド・ウィメンズ・アスリート』の最新号?」
「あぁ。ここに世界ジュニア陸上大会の募集要項が載ってたんだ」
「……え?ちょっと貸して」
ヴァージンは、何故かジョージが買っていた「ワールド・ウィメンズ・アスリート」を手に取って、ジョージが指で挟んでいたページまで紙をめくり続けた。
第38回 世界ジュニア陸上大会
開催地:リングフォレスト(オメガ)
参加資格:20歳未満/国籍は問わない/女子5000mの標準記録16分30秒未満の自己ベスト
「私、出られるじゃない!」
ヴァージンは、食らいつくようにジョージのほうに体を伸ばした。これまで毎号ではないにしても雑誌を目にする中で、一度も目にすることがなかったジュニア大会の募集に、ヴァージンは体が震えていた。
「私……、やっぱり夢を諦めることなんてできない!」
「そうか……」
ジョージはそこまで言うと、ため息をついた。
「はっきり言って、私だって夢とか希望とかかなえさせてあげたい。けれど、ヴァージン。それはあまりにも難しい道なんだよ。こんな気軽に募集しているところでもね」
「えっ……」
ヴァージンは、思わずジョージの苦しそうな表情の顔に、目を丸くした。