第15話 潰えた夢舞台(6)
カリネスクオリンピックの女子5000m決勝が行われたその日の夜、ヴァージンのもとに電話がかかってきた。発信者にガルディエールと書いてあった。ヴァージンは、一度電話から指を離して、それからゆっくりと電話を取った。
「ガルディエールさん。……今日の夢舞台に出られず、すいませんでした」
「すいません、と君が謝ることもないよ。それより、君も見ただろ。あの優勝インタビューを」
「えぇ……。ウォーレットさんの、私と戦いたい、というメッセージですよね」
「その通りだ。で、実はいま、そのことで話が進んでいるんだよ」
時折、背後で人々の熱気あふれるような声が聞こえる。代理人ガルディエールのいる場所は、オメガではなく、まさにいま夢舞台が開かれているカリネスクだと。ヴァージンは確信した。
「その話って、何ですか?」
「それは君が、一番望んでいることだと思うんだ。オリンピック以上にね」
ヴァージンは、オリンピックという言葉を聞いた瞬間に、終わってしまった舞台のことを脳裏に思い浮かべそうになった。だが、その瞬間、電話口の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「対決だ。対決。真の世界王者を決める勝負だ」
(ストレームさん……!)
聞き覚えのある声は、明らかにヴァージンにとってのライバルであった。同じ会社の代理人二人が、未来のクライアント開拓のために、カリネスクに渡っていても無理はなかったのだ。そして、まさに今、二人は同じ場所にいるのだった。
「驚いたかい。いま、この夢舞台に世界最強と言われる女子5000mの選手の代理人が揃っちゃってるんだよ」
「そういうことだったんですか……。分かりました」
「で、今度何が行われるか、もう分かったよね。君と、オリンピックチャンピオンが戦うんだ」
「本当ですか……!」
その瞬間、ヴァージンは思わず電話から手を離しそうになった。息を軽く呑み込み、これまで何度となく自らが苦杯を飲まされているウォーレットの姿を思い浮かべた。
「もう、二人で話し合って段取りはついている。君とウォーレットの調整がつけば、10月のフィアテシモ選手権で、何人ものトップ選手を呼んで二人を直接対決させるということだ」
「ありがとうございます!」
数日も経たないうちに、再びヴァージンの名前が世界じゅうのメディアに登場することになった。
――オリンピック女子5000mは、まだ終わっていません。あのインタビューが記憶に残っている方も多いでしょう。モニカ・ウォーレットは、まだ打ち負かさなければならないアスリートがいるのです。
(本当に、ウォーレットさんと勝負ができる……!)
あのオリンピック落選を報じた時と同じキャスターが、アカデミーのテレビでそれを伝えていた。その瞬間、再びアカデミー生の目がヴァージンの方に次々と向けられた。
(悔しさは、ここで晴らすしかない……!)
通常、世界最高のレースであるオリンピックが終わると、トップアスリートであればあるほどそのシーズンはあまり大きな大会には出ず、来季を見据えた調整に入るものである。だが、二人の代理人から世界の各選手に声をかけたのだろうか、フィアテシモ選手権のために調整を進めているアスリートが、女子の長距離走の世界では見られたのだ。彼女たちの全ては、「まだオリンピックの勝者は決まっていない」の一言に共感していることの表れであった。
当のヴァージンも、気を抜くことはできなかった。ウォーレットとの勝負が正式に発表されたその日から、ヴァージンはマゼラウスに進んで特訓を申し入れ、これまでにないほど5000mのタイムを上げる訓練を行った。
真のライバルになったウォーレットに挑むヴァージンに、コーチの声もまた熱くなる。
「目の前に、ウォーレットがいると思え!今のタイムじゃ、彼女が自己ベストを出せば負ける!」
「はい!」
その特訓の成果は、9月になって少しずつ表れ始めた。この年、トレーニングでほとんど切ったことのない14分30秒の壁をコンスタントに切るようになり、9月終わりには世界記録まであと5秒と迫る14分20秒39までタイムを上げていった。
「あと5秒だな。君の持つ世界記録まで」
「はい……。なんか、走っていても手ごたえを感じられます」
「そうだな。ヴァージンの走りを見ててもそう思える。トレーニングでこのタイムを出せるということは、レース本番の熱いトラックの上では、十分世界記録を狙えるかもしれない」
「はい」
ヴァージンは、マゼラウスにはっきりとうなずく。これまで何度となく首を縦に振ったヴァージンに、マゼラウスも大きく首を振る。
「出せるか。ヴァージンの最高の力を」
「出してみせます!ライバルとの勝負で」
最初に戦ったときには、世界記録を持つ自らの力なら楽勝だと思っていたウォーレット。だが、彼女の実力が一気に上向いてきている今、ヴァージンの心に点った火は、ウォーレットの顔を見るごとに大きくなるのだった。
10月、ヘンプシル共和国の小都市、フィアテシモに世界中の女子5000mのトップアスリートたちが集った。ヴァージンとウォーレットという、オリンピックで誰もが直接対決を見たかった二人に加え、メドゥやグラティシモ、シェターラといった、ヴァージンがこれまでにその背中を抜き去っていった数多くのライバルたちがこの舞台にやってきた。
もっとも、スタジアムのある公園が広いということもあり、普段から早めに会場入りするヴァージンが、選手集合時刻まで同じ競技のライバルたちの顔を見ることはほとんどなかった。その代わり、ヴァージンが最終調整をしているときに、数多くのカメラがヴァージンの姿を撮っているのだった。
(私は、今日こそ負けない……!)
ヴァージンは、最後に右手の拳を力強く握りしめ、ライバルたちの待つ集合場所に向かった。
「On Your Marks……」
トラックの最も内側でウォーレットがスタートの構えを見せる。その真横に、ヴァージンも構える。そして、さらにその横にグラティシモ、メドゥ、奥のスタートラインにシェターラの姿も見える。
オリンピックの真の勝者を決めるレースが、いま始まろうとしていた。
(よし!)
号砲が鳴ったと同時に、これまで何度か見せてきたようにウォーレットが一気に飛び出していった。他のライバルたちは、最初から飛ばすことをせず、1周78秒程度のスピードでひとまずペースを確保しようとしている。
その中で、ヴァージンは迷わなかった。ウォーレットのスタートダッシュにやや遅れながらも、単独2位のポジションをキープし、最初の400mを75秒で回り切った。この時点で、ウォーレットの背中は、およそ20m先。おそらく、ウォーレットは最初の1周を71秒ほどで回り切っているのだろう。さらにそこからペースを上げていくと考えると、ウォーレットはオリンピックで叩きだした14分23秒台の自己ベスト更新、そして世界記録を「本人」の目の前で奪うことも視野に入れているように、ヴァージンには思えた。
これ以上離されるわけにはいかない。ヴァージンは、2周目にして早くもペースアップに動いた。2周目は72秒、最初の1000mを3分03秒で駆け抜けた。一方のウォーレットは、特段ペースを上げる素振りを見せず、ヴァージンの20mほど先でリードを保っていた。
しかし、そのときオリンピックチャンピオン、ウォーレットがコーナーごしにヴァージンの姿を振り返った。
(私を意識している……)
間違いなく、ウォーレットは引き離しにかかってくる。ヴァージンがそう思った通り、ウォーレットの次の一歩が力強くトラックを叩き付けた。1周71秒のペースを3周目まで保っていたウォーレットが、明らかにペースを上げている。ラップ70秒、いやラップ69秒まで到達したかと思わせるようなペースで、少しずつだがヴァージンを引き離しているのが分かった。
(ここから、勝負に出るべきか……)
ここで、わずかながらヴァージンは戦略を考えた。たしかに、まだ3周、4周のところから1周70秒を切るようなペースで走ったことはない。だが、躊躇すれば、またスタインで味わったような結果を再現してしまうことになる。目の前でその差を広げようとしているオリンピックチャンピオンには、絶対に勝たなければならないのだ。
その時、ヴァージンはつい先日マゼラウスがトレーニング中に口にしていた言葉を思いついた。
――自分のペースを貫くことに対して、絶対に躊躇はするな!ペースに迷ったら、そこで勝負は終わりだ。
(これくらいの差なら、まだ私は最後に追いつくことができる!)
ヴァージンは、ほんの少しだけスピードを上げたものの、ウォーレットのスピードに合わせることはしなかった。ほんの少しずつ離されるが、スタートダッシュのときのような急ピッチの離され方ではなかった。
そして、3000mを過ぎたあたりではウォーレットが1周69秒~70秒、ヴァージンが1周70~71秒のペースに落ち着いていた。ヴァージンは、ウォーレットの背中を一度睨みつけた。
(そろそろ、私の本気を見せるとき……)
三たび、ウォーレットの背中にアタックを試みようとする、ヴァージンの本気がいま始まる。