第15話 潰えた夢舞台(5)
数日後、まだヴァージン本人の口から何もアナウンスしていないにもかかわらず、突然ヴァージンの名前がスポーツニュースで扱われるようになった。モニカ・ウォーレットが正式にカリネスクオリンピックの特例枠出場を公表したからだ。
――オリンピック委員会のない2つの国の女子5000m出場レース、勝ったのはチュータニアでした!最近のレースでは、何度もウォーレットがグランフィールドの追撃をかわすシーンが見られたことが一因とみられます。
このニュースは、先日ヴァージンが苦杯を飲まされたアフラリから流れてきたものであったが、オメガ国を含めて映像メディアのある国ではほぼその日のうちにニュースとして流れた。アカデミーで昼食のチキンカツ定食を食べているところで、ヴァージンもテレビでこの話を目にしたのだった。
そして、同時に告げられる、ヴァージン落選のニュースも。
(ついに、この事実が世界中のみんなに知られることになった……)
ヴァージンは、口に入れていたカツを無意識のうちに呑み込み、両手にグッと力を入れた。幸いにして、アカデミーの食堂の中に同じ競技のグラティシモはいなかったが、男子5000mの選手をはじめ、ヴァージンがどういうアスリートであるか知っているアカデミー生は、みなヴァージンのほうに視線を移した。中には「信じられない」とつぶやく者もいて、ヴァージンにはこの時だけはその小さな声まではっきりと耳に響いていた。
しばらくテレビを見ていると、VTRが終わりスタジオに映像が戻った直後にコメンテーターがすぐにこう切り返すシーンが流れた。
――ヴァージン・グランフィールドとモニカ・ウォーレットをどうしてオリンピックで戦わせないのかって、私は思うんですよね。こんな熱い2人の勝負を最初から見せないように、国際オリンピック委員会は仕組んだ。
――まさしくハロルドさんの言う通りだと思いますね。
(あの舞台に出られないことを今さら悔やんでも仕方ないけど、ウォーレットさんとは戦いたかった……)
ヴァージンはここで映像から目を離し、軽くため息をついた。だが、ここで体が重くなることはなかった。
数日後、この日のメインメニューである10000mタイムトライアルを終え、疲れ切った表情のヴァージンに、マゼラウスが近づいてきた。
「31分03秒20。今日はなかなかいいタイムじゃないか。31分を切るのは時間の問題だな、ヴァージン」
「ありがとうございます」
「10000mを走っている時に、これはいけるという手ごたえはあったか」
「ありました……。なんか、オリンピックに行けないって分かってから、妙に手ごたえを感じるんです」
「そうか……、それはよかった。この前も言ったように、オリンピックに行けなかったとしても、また次があるし、それだけが全てじゃないからな」
そう言うと、マゼラウスは一度咳払いをして、ヴァージンに一歩、二歩と近づいた。そして、立ち尽くすヴァージンの耳元で、静かにこう告げた。
「お前に、励ましの手紙がいっぱい届いているぞ。コーチ控室に置いてある」
「私に……、励ましの手紙ですか?」
「そうだ。オリンピックに出られないことを知って、君のことを想う人がたくさんいるようだ。見たほうがいい」
――残念すぎる。ヴァージンの姿をオリンピックで見ることができないなんて。
――オリンピックのモニターで「WR」の文字を見れると信じていたのに……。
――どうしてアメジスタから出られないのかよく分かりました。世界一貧しい国に希望を届けたい、といつしかあなたが言っていたのを思い出します。そのためなら、私はほんの少しでも力を貸したいです。
「これは……!」
マゼラウスの机の上に置かれた、何十枚もの手紙。ヴァージンの住所が分からないため、所属しているアカデミーに直接届いたのである。ヴァージンは、思わずそのうちの一つを手に取って、中を開き、息を呑み込んだ。
「私のことを……、こんなにも残念に思ってくれる人がいる……」
ヴァージンは、横に立つマゼラウスにも見えるよう、手紙を持ち上げ、できるだけ目から離して手紙を見つめた。だが、その文面を持つ手は震え、手紙も徐々に目に近づけて読むようになっていた。中には、手紙の文面を追っているうちに涙があふれ、そのまま手紙の右端に涙が落ちるというものもあった。
「よく分かっただろ。みんなが、ヴァージンをこれほどまでに応援している証拠だ」
「……はい」
「最初は、アメジスタから出た無名のアスリートだった。でも、お前が世界の強豪に挑んでいく姿、そしてその先にある記録に挑んでいく姿……。ヴァージンが思っている以上に、みんなが共感しているんだ」
マゼラウスの言葉を、ヴァージンは手紙に目をやりながら聞いた。そして、力強く首を縦に振った。
ヴァージンのメールアドレスにもしばらく見ていないうちに、同じように悲しみの声が届いていた。それどころか、スポンサーであるウォーターサプリやスピードスターといった企業にも、何通かではあるがヴァージンの落選を残念がる声が届いたようだ。
それだけにとどまらない。そのことですらテレビ番組に取り上げられるようになり、いつしかヴァージンは「悲劇のトップアスリート」として有名になっていった。記録は出せる実力があるのに、特例枠でしか出られないために、その道が閉ざされたという悲劇。まだオリンピック本番まで1ヵ月以上あるこの時期に、ヴァージンの過去のレースやインタビューの映像を流し、それは多くの見る者の目に印象を与えたのだった。
そして、それをも上回る事件が、ヴァージンのもとにやってきた。
本来ヴァージンがオリンピック前最後の調整として走るはずだった、オメガ国ナパオのレース。14分32秒29と、既にオリンピック出場を決めているシェターラを軽く破って、久しぶりの優勝を果たした直後に、事件は起きた。
観客席の一角にいた何人かの青年が、一斉に声を上げたのだった。
「ヴァージン・グランフィールド!フォー・アメジスタ!」
「アメジスタをもっと元気づけようよ!」
(えっ……!)
ヴァージンは、思わずその声のする方に顔を向けた。そこには、アメジスタの国旗の色にも似たTシャツをきた青年たちが、スクラムを組んで言葉を叫んでいた。傍から見れば人迷惑な集団だったが、ヴァージンはその姿をじっと見つめるしかなかった。
「アメジスタ!アメジスタ!俺たちは支援するぜ!」
どれくらいの支援か、ヴァージンには全く見当がつかない。モノかインフラだけの支援かも知れない。そもそも、ヴァージンがオリンピックに出られないということすら、アメジスタの人々はほとんど知らない中で、ここに集う何人かの人々がそう叫ぶことに、それはあまり意味のないことなのかもしれない。
けれど、ヴァージンはそれでも泣いた。
「ありがとう……!私……、こんな運命と、こんな悲劇に負けないから!」
集団に答えるように言い放ったヴァージン。その瞬間、スタジアムから大きな歓声が沸きあがったのは言うまでもなかった。
その時、件のアメジスタ応援団がヴァージンのもとに振り込んだ額は、総額2000リアだった。これは、最初にアメジスタから世界に挑戦するときにグリンシュタインの人々がヴァージンに支援してくれた額と同じだったが、直接「アメジスタのために」と支援されたのは、これが初めてのことだった。
そして、ヴァージンはオメガ国内の銀行に別の口座を作り、そこに全額を振り込んだ。ヴァージンは、その自らの願いに重ねるように、その口座名を「アメジスタ・ドリーム」としたのだった。
アメジスタ・ドリーム。自ら走ることによって、アメジスタの貧しさを世界に伝え、そしていつかこの国が希望に満ち溢れたものにしていくために……。
ヴァージンのもとに届く応援メールは、その後も日に何十通も届くようになり、ヴァージンもついにその日のうちに全て目を通すことができなくなった。オリンピックに出られない事実は覆せないにも関わらず、開会式の前日までオリンピック出場を願う声が見られたのは事実だ。
そのオリンピックが行われるカリネスクに、ヴァージンは渡ることはなかった。スタジアムの客席に座れば、一度は割り切ったはずの感情が押えられなくなると思ったからだ。結果は終わってから耳にすることにした。
しかし、その生の映像は、否応なしにヴァージンの目に飛び込んでくることになった。
「ヴァージン・グランフィールドと、この舞台で戦えなかったことが、唯一悔しい……!」
「えっ……」
聞き覚えのある声に、ヴァージンは食堂でついていたテレビに無意識に目をやった。そこには、ヴァージンが予想していた通りに女子5000mで優勝したウォーレットの姿があった。
(ウォーレットさん……)
彼女のタイムは、14分23秒30と、またしてもパーソナルベスト更新だった。それでも、戦うべき相手がいなかったことを彼女は訴えたのだ。
「今年中に、私はもう一度彼女と戦いたい……。今のままじゃ、オリンピックに勝った気がしない」
テレビに映るウォーレットの表情が、はっきりとヴァージンを見つめていた。