第15話 潰えた夢舞台(4)
モニカ・ウォーレット 14分25秒32 パーソナルベスト
ヴァージン・グランフィールド 14分26秒03 シーズンベスト
瞬きしている時間にも満たないこの差は、あまりにも大きすぎた。順位、時間、称号、賞金、レース後の扱い、その他もろもろのことが、昨シーズンのほぼ無敵だったはずのヴァージンとは違っていた。
ウォーレットを新たなライバルとして臨んだヴァージンにとって、二度も見せつけられた彼女の本気。そして、やはり今回も出すことのできなかった、パーソナルベストとワールドレコード。
(悔しい……。順位以外は、手ごたえのある結果だと思ったのに……!)
意識的にウォーレットよりも遅くロッカールームに入り、何事もなかったかのように着替えを済ませ出てくる、レースに敗れた世界記録保持者は、それでもどこか小さく見えた。
「やってしまったようだね……」
選手受付を通り過ぎると、ヴァージンから見て目立つような場所にガルディエールとマゼラウスが並んで立っていた。ガルディエールの表情は、これまで見たこともないくらい硬くなっていた。その時、ヴァージンの脳裏には、前日ホテルでマゼラウスとひそかに話し合っていたことが否応なしに思い出された。
(この結果を受けて、この場で何か言われてしまう……)
レース前は、たとえライバルから何か言われようとも、たとえそれによって落ち込もうとも、レース中だけはそれを力に変えてきたはずだった。しかし、全てが終わり、そこには現実しかなかった。
そんなヴァージンに構わず、ガルディエールは静かに口を開いた。
「2000mとか3000mとか、本当にウォーレットと勝負しなきゃいけないところで、君は怯えていたのかもしれない。今までの君とは違う。はっきりと見えたよ」
ガルディエールはきっぱりとそう言いきった。横でマゼラウスもうなずいている。ヴァージンの足が竦む。
「思うに、きっと君も真実を知ってしまったのかもしれない。そうじゃないのか」
「真実……。それって……、それってどういうことなんですか?」
真実という言葉だけが、ヴァージンの中で独り歩きしているように思えた。しばらくの間、空白の時間がスタジアムの熱い空気を遮り、やがて最初から用意していたような言葉をガルディエールは言った。
「チュータニアに、オリンピック委員会がないということ。そして、そのせいでオリンピック出場の特例枠をめぐって、君と勝負することになってしまったということ……」
「特例枠……。勝負……。私……」
何度か聞いたはずの言葉を細切れに呟くヴァージンは、それを止めようと両手に力を入れた。だが、その言葉を言うたびに、目の前にコーチと代理人ではなく、ウォーレットの勝ち誇った姿が見え隠れするのだった。
「やっぱり、分かっていたみたいだな」
「えぇ……。実は、レース前にウォーレットさんから、そう言われました」
「そうか……。あえて、レース前の君には言わなかったんだが……、こんな形で君が取り乱すことになるとは」
そこまで言うと、ガルディエールは一度、二度うなずき、スーツの裾を軽く上げた。
「ガルディエールさん……」
「それでも、君は負けちゃいけなかった……!あの足を……、あの実力を持った君なら、必ずあんな挑戦を退けることができたはずだ……」
これまで何度となくヴァージンを支えてきたガルディエールの目に、うっすらと涙が浮かんだ。ヴァージンは、ただ黙ってそれを見ているしかなかった。
「こんなことを君に言わなきゃいけないなんて、とても辛い。最後のプレゼンで、この状況を打ち砕く可能性だってある。でも……」
恐ろしいほど凍りついた間。ガルディエールの口が、一度完全に閉じて、再び開いた。
「カリネスクオリンピック出場は、この時点でかなり絶望的になった」
その後、ヴァージンは何を言われたのか、全く覚えていない。ホテルに戻り、気が付くとベッドに座っていた。あの時のように壁に何かを叩き付ける気にもなれなかった。石のように動かず、ずっと壁ばかり見ていた。
(私の夢は、世界と戦うアスリートになることだった……。そして、それが達成された今、次の夢はその力で、自分の国に希望を届けることだった……)
母国アメジスタには、何一つ希望がないと言ってもいい。寂れた競技場から、何の歓声も生まれない。だからこそ、自分の力でこの国をどうにかしていきたかった。しかし、それを誓ってから、優勝した大会はジュニア大会のみ。昨年までに何社か契約したはずのスポンサーからは主にモノのサポートで、そこから受け取る収入は決して多くはない。何とかアスリートを続けているような生活だった。
カリネスクオリンピックの女子5000mで金メダルを取れば、スポンサーでの扱いも大きくなり、より大きな収入が手に入るのは間違いなかった。けれど、その夢が絶望的になった今、ヴァージンに次の一歩を踏み出す勇気はなかった。
「ヴァージン、落ち込んでないか?」
部屋のドアをノックする音が聞こえる。あの時と違い、そのノックには優しさすらあった。
「コーチ……」
ヴァージンがゆっくりとドアノブを引くと、そこにはやや思いつめた表情のマゼラウスがいた。ホテルの中だというのに、その額には知恵熱とも言える汗がところどころに溢れていた。
「別に、今日はあの時のように、お前を力で諭すようなことはしない」
「はい……」
ヴァージンがゆっくりとうなずくと、マゼラウスは一度咳払いをした。緊張は、どこにもなかった。
「今日のヴァージン・グランフィールドの走りは、0点なんかじゃない。それだけは、お前も分かるだろう」
「0点ではないと……、思います……。100点でもないですが……」
「そうだ。だから、そんなに落ち込まなくてもいい。君は、十分シーズンベストを誇っていいと思うんだ」
世界記録まで、あと11秒ほど。そこからはたしかに遠い。しかし、それでもマゼラウスは決して今日の結果を怒ったりはしていなかった。それは、ヴァージンが最も分かっているのだから。
「そうですね……。それができなかったのは、きっと自分の中であの時、自分を否定してたからのような気がします……」
「そうだろうな。やっぱり、そう思ってくれて助かるよ」
マゼラウスは、ここで何度かうなずいた。そして、再びヴァージンの目を見つめた。
「この後のことは気にするな。オリンピック出場だけが、全てじゃないからな」
「でも、それだけは……、出たいです……」
世界競技会と違って、これを逃せば夢舞台は4年先に遠ざかる。ヴァージンが自分の前に見えない壁を作っていたことに、今更になって本人が気が付いたのだった。
それでも、マゼラウスは軽く笑ってみせた。この状況下で、コーチは笑っていた。
「ヴァージン、4年後は何歳だ?」
「……23歳です。でも、それまで待っているわけですよね」
「……23歳なんて、陸上のトップ選手から見れば、十分若い方じゃないか!少なくとも、4年もあったらヴァージンは確実に伸びる。一度勢いで抜かされてしまったウォーレットになんか、簡単にかわせる」
そう言うと、マゼラウスはヴァージンの肩を軽く叩いた。結果が出ずに落ち込んでいる時、マゼラウスが何度か見せてくれた、最高の励ましだった。
ヴァージンがアカデミーに戻って数日後が、国際オリンピック委員会への最後のプレゼンとなった。ストレームとガルディエールという、フェアラン・スポーツエージェントどうしで、アスリートのアピールが始まった。ただし、その日程を一切ヴァージンには教えず、その結果だけを言うことは、あの日ホテルの中で極秘に話し合われていたのだった。
そして、プレゼンが始まって1時間後、女子長距離選手での特例枠の扱いが決まった。
「双方とも、スポーツで故郷を元気づけたいという態度がにじみ出ている。実力もほぼ同じ。だが、ウォーレットは直前の世界競技会で成績を収め、ヴァージンはその大会で棄権。そして、直近もウォーレットの方が右肩上がりである。よって、特例枠をウォーレットに決定する」
夢は、言われたとおり潰えた。
「いま、大丈夫かい」
夕食前、机に向かってこの日の反省材料をノートにメモしていたとき、ヴァージンの電話が鳴った。そこから聞こえる、残念そうなガルディエールの声だけで、ヴァージンは結果を悟った。
そして、ガルディエールの口から結果を告げられた時、ヴァージンは何一つ悲しそうな表情を見せることなく、電話の向こう側に涙を見せた。
「ガルディエールさん。私が、今以上に実力を出せれば、オリンピックに行けるんです。きっと」
「じゃあ、4年後は……」
「必ず出ます」
そう力強く誓って、ヴァージンは電話を切った。それは、ヴァージンが初めて「諦めた」瞬間だった。