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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
初めてだったはずのオリンピック
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第15話 潰えた夢舞台(3)

 翌日、ヴァージンはスタイン総合競技場へと足を踏み入れた。既に選手権は始まっており、オリンピックシーズンを控え、スタジアムは熱気に包まれていた。

(負けられない戦い……)

 マゼラウスとガルディエールに挟まれるように歩くヴァージンには、この日の成果がどれほど重要なものになるか分かっていたのだった。


 二人と分かれ、出場選手受付へと向かう。既に何人かの選手が列になっている。だが、その列の先に、見慣れた体つきのライバルの姿があった。

(ウォーレットさん……)

 スタジアムには比較的早めに足を踏み入れるヴァージンだったが、ライバルに先を越されるのは珍しいことではない。だが、この日に限ってはどうしてもウォーレットに負けたくなかった。

(いい。本番で抜き返せばいいだけの話)

 受付を済ませ、ゆったりとした足取りでスタジアムの中に入るウォーレットに、どこか余裕が見える。ヴァージンは首を何度か横に振り、そのイメージを振り払った。レースとは直接関係ないはずだが、例えば着替えで時間を詰め、できるだけ早くウォーミングアップを始めてみたい、とあれこれ思うのであった。

 そして、当然のように二人はロッカールームの入り口付近でばったりと出会うことになった。

「久しぶりです、ウォーレットさん」

「グランフィールドじゃない、お久しぶり!」

 振り向いたウォーレットの表情に、やはり余裕が見える。勝負では決して見せることがないかもしれないくらい、その顔がほほ笑んでいるように見えた。

「お久しぶりです。今日は、必ず勝ちます」

「やっぱり、グランフィールドもそう思っているようね」

(私、も……)

 ヴァージンは、相手に見えないようにして、そこで軽く息を呑み込んだ。淡々とした声で話し続けるウォーレットのセリフに、どこか引っかかる。

「いろんなところで、私とグランフィールドが絶対に負けられない戦いとか言われてるでしょ」

「そう言えば、昨日テレビでそんなことを言っていたような気がしますね」

 ヴァージンの目には、前日のテレビ番組のコメントがはっきりと焼き付いていた。そして、ウォーレットの一言で、その時に抱いていた当然の疑問がかすかに消えていくような気がしていた。

「グランフィールドも、きっと分かってくれているはず。私とグランフィールドがどういう立場かを」

「立場……」

 ヴァージンは、ウォーレットをじっと見つめながら、軽く首を横に振った。

「私、何も分からないです。自分はともかく、ウォーレットさんの立場など、知るはずもないです」

「そう……」

 ウォーレットは、アゴに手を当て、数秒ほど考えるしぐさを見せる。そして、ヴァージンにこう告げた。


「チュータニアにも、オリンピック委員会がない。ここで成果を残さなければ、道は閉ざされるの」


(……!)

 嫌な予感の範疇だったとはいえ、聞きたくない情報を聞いてしまったようにヴァージンには思えた。レース前にも関わらず、目の前から希望の光が遠のいていくような気がしてならなかった。

 チュータニアは、アフラリの属国とも言われるほど小さな国家。これまでオリンピック委員会もなく、世界を目指すアスリートはみな国籍をアフラリなどに移すことによって勝負に臨んでいた。

 しかし、ウォーレットは違っていた。

「私は、他のアスリートの真似はしたくなかった。国籍を移すことなく、自分の力でオリンピックの頂点を目指す。去年、5000mのタイムが上がってきたあたりから、そう思うようになった」

「チュータニアの国旗を背負って走る……」

「できるなら、そうしたいくらい。けれど、オリンピック委員会がない以上、特例を使うしかないの。グランフィールドがそうしようとしているように……」

 ウォーレットの唇が、ゆっくりと閉じていく。その様子が、ヴァージンには憎たらしかった。

「私、そんなこと何も公にしていない」

「どうかしらね……。例えば、エージェントの中で、あなたの代理人の行動を私の代理人に見透かされていたとか、あるんじゃない。お互い出会う機会がなければ、まずその可能性があると思う」

 ヴァージンは無言で確信した。これは、可能性ではないということを。最初に希望していた代理人ストレームによって、ヴァージンの全てがライバルに筒抜けになっているかもしれないということを。

「つまり、私とウォーレットさんは、オリンピックの特例出場を賭けて、この場で勝負するわけですね」

「そういうこと。だから、私はグランフィールドに真実を伝えたの」

 ウォーレットは、軽く息を吸い込み、バッグを持ってロッカールームの出口へと向かう。

「じゃあ、トラックで待ってるわ。インドア記録を持つ私を追い抜いてみなさい」

「必ず追い抜きます」

 声ではそう強く言ったはずのヴァージンの足は、軽く震えていた。これまでライバルを恐れることすらなかったはずのヴァージンは、この日生まれて初めてといってもいいくらい、レース前に激しく緊張していた。

 ウォーレットの姿が視界から消えると、ヴァージンはようやくバッグを開いた。中から、スピードスター製の着慣れたレーシングトップスがその鮮やかな色を見せていた。

(このままじゃいけない……!これを着たら、私はウォーレットさんなんかに負けない!)

 レースに敗れたわけではないはずなのに、ヴァージンに少しずつ悔しさが込み上げてくる。全力で、常にウォーレットの前に立って走ろうと誓う悔しさが。


 しかし、一度先を越された二人の関係を取り戻すための時間は、あまりにも短すぎた。


「On Your Marks……」

 オリンピックに向けた調整なのか、これまで何度もライバルとして戦ってきたメドゥやグラティシモといった名前は、今回の女子5000mのトラックにはなかった。ほとんどが、これまで表彰台に手の届かないアスリートである中、スタジアムのビジョンに映すのも、ほぼ二人に絞られていた。世界記録を誇るヴァージンと、インドア世界記録を叩きだしたウォーレット。

 いま、勝負のとき。号砲が鳴る。

(前に……出る!)

 ヴァージンは、これまで一度も見せたことのないほど素早いスタートダッシュで、15人の中で先頭に躍り出た。だが、その真後ろをぴったりとウォーレットがついてきていることは、振り向かなくても呼吸で分かっていた。

(あとは、どれだけ引き離せるか……)

 最初の1周を71秒で飛び出したヴァージンは、しばらくそのスピードを保つことにした。最初の1周のタイムから考えれば、3000mを9分以内に通過し、自らの世界記録更新にも期待が持てるはずだ。

 ヴァージンは、できるかぎりスピードを落とさないようにして、2周、3周と先頭で集団をリードする。そして、5周目に入ったところでコーナーごしに集団を見ると、そこにはもうウォーレットとあと一人のライバルしか残っていなかった。

(ウォーレットさんは、きっと仕掛けてくる。そこで、私が食らいつけば、ウォーレットさんを最後にかわすことができるはず……)

 2000mを5分54秒で通過したヴァージンは、ここでややスピードを上げた。だが、スピードを上げたにもかかわらず、背後から聞こえる靴音が近くなってくることに気が付いた。やはり、仕掛けてきた。

(……っ!)

 次の瞬間、コーナーの外側からウォーレットがヴァージンを捕えようとしているのが、横目ではっきりと見えた。まだ半分くらいの距離が残っているにもかかわらず、ここでウォーレットは力強いスパートをヴァージンに見せつけていた。たちまち、ウォーレットはヴァージンの前に飛び出た。

(食らいつくしかない……)

 ヴァージンは、ウォーレットの背中に懸命に食らいついた。1周67秒程度なので、スピードとしてはヴァージンの本気からすればほど遠いが、それを2000m付近から始めるのは、ヴァージンにとっても初めてのことだった。同時に、ウォーレットがラストスパートに頼ることなく、インドアであのタイムを出せる力を持っているかもしれないということも、確信に変わったのだった。

 その後、3000mを過ぎたあたりまでは、ヴァージンはぴったりとウォーレットにくっついていた。だが、そこでヴァージンはついて行くのをやめた。

(最後に抜き返す……。今のままじゃ、ウォーレットさんを抜いたところで、最後にかわされるかもしれない)

 ヴァージンにとって、最大の武器は1周50秒台を誇るラストスパート。1周67秒程度で走り続けるウォーレットを追い抜くには、ここで食らいつかなくても十分に追いつける。そう思った。


 だが、一度狂い始めたヴァージンのリズムは、戻ることはなかった。


(残り2周!)

 ヴァージンは懸命にスピードを上げた。この時、100m近くに開いていたウォーレットとの差を、少しずつ縮めようとする。だが、その時には既にウォーレットも1周65秒程度にまでラップを上げてきており、少しずつしか縮まらない。それどころか、最後の1周で1分を切るような走りを見せれば、ヴァージンの目の前で自らの世界記録を奪ってしまいそうな勢いだった。

(そうはさせない!)

 ヴァージンは、重心をできる限り前に傾け、ついに本気のスパートを見せた。ウォーレットとの距離が縮まってきてはいる。60m、50m……。

 だが、残りの距離がそれを許さなかった。

(……っ!)

 捕えるか捕えないかのうちに、ウォーレットが先にゴールテープを割った。あと4歩ほど、ヴァージンが追いつくには足りなかった。

(負けた……)

 ヴァージンは、薄青のトラックの上で疲れを全て吐き出すかのようにうずくまった。その目の先に、勝ち誇ったようなウォーレットの表情が、大きく見えた。

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