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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
初めてだったはずのオリンピック
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第14話 その可能性は限りなく小さく(7)

 ヴァージンにとって、初めてとなる女子10000mのレース。一発本番で行われるリングフォレストでの一戦は、間もなく始まろうとしていた。

 薄青のトラックの上に、ヴァージンとバルーナが立つ。そして、カメラが軽くヴァージンを映す中、彼女はその目でトラックの外側を見つめる。昨年の世界競技会で10000mを制した、オメガのエンジェル・ホレスキンといった、もともとこの畑で戦っているアスリートたちの背中がはっきりと映った。

(世界記録を持っているサウスベストさんは来ていないか……)

 サウスベストに会ってみたい。それはヴァージンにとっての夢でもあったが、いないことでかえって目の前のレースに集中できる。ヴァージンは、はっきりとそう感じていた。

 最後に、ヴァージンはバルーナの表情を横目でちらっと見る。

「On Your Marks……」

 ヴァージンの足は、いまスタートラインを踏みしめた。


(よし!)

 リングフォレストの空に、始まりの時を告げる空砲が鳴った。ヴァージンと同時に、12人のライバルたちの足が一斉にトラックの上を軽やかに叩き付ける。

(……前に出ない)

 ヴァージンは、最近のトレーニングと同じように、最初の1周を76秒前後のスピードで飛び出していったが、徐々にトラックの外側に立っていたライバルたちを追い抜いてしまっていることに気が付いた。

(……っ!)

 最初の1周を通り過ぎ、カーブに差し掛かった頃、ヴァージンは軽く後ろを振り返った。ヴァージンにぴったりとついている選手は誰一人としていなかった。10000mにフィールドを移したバルーナですら、ホレスキンの後ろでその出方を伺っている。

 レース展開が、想像した以上にゆっくりだ。初めて10人以上を相手にして走る10000mの世界に、ヴァージンは少しずつ違和感を覚えた。

 気が付くと、ヴァージンは少しだけスピードを緩め、ホレスキンの数メートル前までポジションを移した。ホレスキンやほかのライバルたちが勝負に出たところで、ヴァージンも勝負に出る作戦を、ヴァージンは咄嗟に思いついた。


 ――ズルズル行くな!タイムが伸びないぞ!


 10000mのトレーニングの際、ほぼ毎回のようにマゼラウスに言われてきた言葉が、2000mを過ぎたあたりのヴァージンを後押しする。2000mの通過タイムが6分29秒、5000mでレースをしている時にはヴァージンにとっては遅い範疇であったが、それを気にするわけにもいかなかった。

(まだ、本気を出したら力がもたない……)

 今はただ、ライバルたちに抜かれないようにする。ヴァージンがそう誓った直後だった。

「……っ!」

 突然、ホレスキンがヴァージンの真横に回り込んで、一気に抜き去っていった。スパートと言えるような走りではなく、その足取りはあまりにも軽い。まるで、5000mのレース展開とは違うことを、その足がヴァージンに教えているかのように。

(負けない……!)

 5000mで世界記録を持っている身として、このままホレスキンに先頭を許してしまうわけにはいかない。バルーナをはじめとした他のライバルたちも、徐々に後ろからヴァージンではなくホレスキンの背中を追っている。

 ヴァージンは、ほんの少しだけストライドを大きめに取った。だが、一度スピードを上げたホレスキンの両足が、ヴァージンとの距離をさらに広げていく。3000mを通過する頃には、差が10mほどに広がってしまっていた。

(いま勝負するのは、やめた方がいい……)

 ヴァージンは、これ以上スピードを上げるのをやめ、なるべくホレスキンとの差を広げないように今のスピードを維持することにした。なかなか広がっていかない2位集団の先頭に、ヴァージンはポジションを確保した。


 この後、2位集団内部で多少の順位変動や脱落者が出たものの、世界競技会を制したホレスキンとヴァージンの位置関係は何一つ変わらなかった。そのまま、8000m、残り5周のところまできた。

 ヴァージンの体感的に、8000mの通過タイムが25分40秒程度だろうか。トレーニングで出すタイムと比べれば、決して悪くはない数字だ。ヴァージンは徐々にスピードを上げ、今度こそ先頭のホレスキンを追撃し始めた。

(最後は、本気のスパートで必ず追い抜いてみせる!)

 だが、ヴァージンがそう決意した瞬間、2位集団から数人のライバルが一気にヴァージンを抜き去った。同じことを考えていたのだった。一歩遅れたヴァージンも、一気にスピードを上げ、何とか集団に食らいつく。

 その時、ヴァージンの目に見慣れた体つきをしたアスリートの姿が飛び込んできた。

(バルーナさん……!)

 気が付くと、バルーナにも抜かれていた。ヴァージンはやや目を細め、バルーナの体を見つめる。5000mのレースではあまり見ることのなかったダイナミックなスパートを、彼女の背を追う者に見せている。少なくとも、ただがむしゃらに走っていたようにも見える5000mとは、勝手が違っていた。

(バルーナさんは、10000mに場所を移して正解だったのかもしれない……)

 そうバルーナの姿に見とれているうちに、ヴァージンはあっという間に8400mを過ぎ去っていた。1周無駄にした、とヴァージンは感じた。ヴァージンは咄嗟にスピードを上げ、バルーナをはじめとした集団の真横に出た。

(追い抜く……!)

 あと少しで、ヴァージンの視界からホレスキン以外のライバルの姿が見えなくなる。いま、勝負すべきはバルーナではなくホレスキンのはずだ。ヴァージンは体を左右に震わせ、再びトラックの内側に戻ろうとした。

 だがその時、彼女の内側に「壁」ができた。ヴァージンを抜き返そうと、バルーナが懸命にスパートをかけたのだ。そして、バルーナに続いて、ヴァージンが抜き去ったはずのライバルたちがヴァージンより内側のポジションをしっかり保っている。

(賭けに出よう……!)

 再び内側に戻るためには、ヴァージンはよりスピードを上げなければならない。せざるを得ない戦略に、ヴァージンは従わなければならなかった。残り1000mを切ったあたりで、ヴァージンはさらにギアを上げた。

 1周60秒を切るようなスパート。それは5000mのラストで彼女が見せてきたものに他ならない。見る見るうちに、ヴァージンは再びバルーナよりも前に抜け出し、先頭で滑り込もうとしているホレスキンの背中を追った。

 だが、ヴァージンはすぐにスピードが落ちつつあることに気が付いた。

(苦しい……)

 体が重い。5000mのレースでは先頭で飛び込んだ直後に体の限界を感じることが多かったため、レースには何も影響がなかったが、10000mで普段通りのスパートは無謀だった。ここまで無理をしたことは、初めて間もないはずのアカデミーでのトレーニングで、一度も見せたことはなかった。

 ヴァージンの強さの証だったはずのスパートが萎んでいく。それも、はっきりと後ろのライバルたちに見えるような形で。

 そして、最後の1周でバルーナに抜かれ、他のライバルたちにも次々抜かれてしまった。最後の1周が77秒と、普段から10000mで勝負を挑む者たちにとってはあまりにも遅いスピードで、ヴァージンは6位でゴールしたのだった。

 タイムは31分48秒29。それが、5000mでは他を圧倒するヴァージンの、10000mでの実力だった。


 レース後、取材すら来ないヴァージンのもとに、バルーナがゆっくりと近づいてきた。

「私の負けですね……。10000mでは、バルーナさんにかないませんでした」

「私もそう思う」

 バルーナは首を軽く縦に振って、ヴァージンに短く返した。

「ヴァージンは、やっぱり5000mで走るのが合っているのかもしれない。そんな走りだった」

「そうかもしれないけど……、必ず修正します」

「待ってるから、ヴァージン」

 バルーナの右手がゆっくりと伸びて、ヴァージンの右手に振れる。無意識のうちにヴァージンの右手もそこに吸い込まれていく。

「また、バルーナさんと勝負して、今度こそ勝ちたいです」


 二人の手は、しっかりと握られた。

 その先に待っている、運命を知ることもなく……。


(走り方を考え直さないといけないか……)

 リングフォレストからその日のうちにワンルームマンションに戻ったヴァージンは、部屋に入るなり深いため息をついた。今年に入ってから、シニアの大会で優勝を逃し続けている。スピードスター製のアメジスタカラーのレーシングトップスが、どこか色あせて見えた。

 そして、ヴァージンは何気なくパソコンに向かうのだった。

(今日のレースで、ガルディエールさんから何か言われそう……)

 新着メールは、やはりガルディエールからのものだった。ヴァージンは、咄嗟に開き、思わず息を呑み込んだ。


 ――10000mが不発に終わったことに、私はショックを隠せない。

   どうやって、君をオリンピック委員会に推薦すればいいか、筋道を考え直すよ。

   君の世界記録を出したレースを必死にプレゼンするとか、あの手この手で説得させる。

   だから君も、夢を足引っ張るような走りをしないで欲しい。

   6月の、モニカ・ウォーレットとの直接対決に、期待しているよ。


(6月の直接対決が最後のチャンス……)

 世界最速の足を持つアスリートは、ついに追いつめられた。代理人からのメールが、ヴァージンのいまを、はっきりと示していたのだった。

 オリンピックまで、残り4ヵ月しか残されていなかった……。

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