第14話 その可能性はあまりに小さく(6)
(悔しい……。本当に悔しい……)
ほんの数週間前に直接対決で敗れた相手、モニカ・ウォーレットが、インドア世界記録を出した。ヴァージンは、その事実に何度も首を横に振った。ヴァージンは、昼休みを早々に切り上げてトラックに飛び出した。
(私は……、この足で世界記録を出したはず……!)
昼食を食べたばかりで、激しく動けば腹痛すら襲いかねない。しかし、ヴァージンはそれを承知で自主的にトレーニングをし始めた。そこに、建物の中からマゼラウスが驚いたような形相で飛び出してきた。
「ヴァージン、まだ2時にもなってないのに……」
「今日は、自主的にでもトレーニングしたいんです」
「そうか……。ヴァージンのその気持ち、私も分かる」
ヴァージンは、マゼラウスの表情を伺う。マゼラウスは、腕こそ組んでいるものの、何度か首を縦に振り、それから言葉を続けた。
「女子5000mの世界記録は、ヴァージンのものだからな」
「そうですね。奪われたくないですから」
「お前らしい。いかにも、ヴァージンらしい答えだ。だが……」
「えっ……」
ヴァージンは、ここで言葉を詰まらせる。マゼラウスの表情が曇っているのが、その目にはっきりと見えた。
「もう少し、楽に考えればいいんじゃないかと思う」
「もう少し……、楽に……」
楽、という言葉がヴァージンの耳の中で何度か反射する。ヴァージンの首が、無視息のうちに縦に振れる。
「人は人だ。私は、このことを前にも言ったと思うんだ」
「人は人……。勝負すべきは、自分……。どこかで言っていたような気がします」
「それだ。あくまでも、ウォーレットは今の調子が良すぎるだけと考えてみろ。インドアのあの記録だって、まぐれのはずだ」
14分32秒27という、もう一つの「世界記録」。それは、たしかにウォーレットの出した記録。だが、それを出したと言って、ヴァージンの持つアウトドアの記録を更新できるとは限らない。
マゼラウスの口ははっきりとそう言わなくても、何となくそのようにヴァージンに語りかけているのだった。
「たしかに、それは言えますね……。なんか、自分が熱くなりすぎていました」
「だろ。本番ならまだしも、トレーニングそんな熱くなったら、本気なんて出せない」
「分かりました」
ヴァージンは、一度大きくうなずいた。しかし、マゼラウスは再び建物の中に戻ろうとしない。ヴァージンの真横に立ち、一言こう告げた。
「それが分かった上で、今から午後のトレーニングに入ろう。ウォーレットに勝つための」
3月下旬、アジェンド国の首都アジェで開かれたジュニア選手権は、春とは思えないほど気温が高い中での勝負になった。19歳のヴァージンがジュニア大会に参加できるのは、今年が最後。オリンピックに出場することを考えると、ガルディエール曰く「最後のジュニア大会」ということになる。
(この場所に、ウォーレットさんがいれば勝負したいのに……)
勿論、この場にモニカ・ウォーレットの姿はなかった。取材用のカメラがほぼヴァージンを独占する中で、ヴァージンはカメラをあまり意識することなくレース前の最終調整を行った。
目立ったライバルもいなかったことから、結果はほぼ全ての選手に周回差をつけての優勝。全体的にスローペースな展開になりそうだと知った後、ヴァージンは一人飛び出し、そこからは後続を完全に振り切って12周半を終えることができた。
「自分なりの走りができたじゃないか」
「そうですね……」
アメジスタの国旗をトラックに掲げて走った後、マゼラウスのもとに駆け寄ると、マゼラウスはこの年一番の笑顔でヴァージンを出迎えた。ヴァージンはやや照れるように返す。
「最初は、誰も勝負になるライバルがいなかったから、君が呑み込まれるんじゃないかと思っていた。だが、そこからよく立ち直ったと思うよ」
「ありがとうございます。でも……」
「でも?どうした、ヴァージン」
「タイムが……、やっぱり納得できないです」
14分37秒29。これが、この日のヴァージンの記録だった。そのタイムは、ウォーレットのインドア記録に及ばない。喜びの表情を浮かべたまま、ゴールの真横でヴァージンは見えないため息をついていたのだった。
「そうか……。ただ、トレーニングを見てて、ヴァージンの走りが戻ってきたと私は思うんだ」
「コーチ……」
「今のヴァージンは、まだ復調の途中だと思う。私の期待は、オリンピックという一大舞台で、3度目の世界記録を更新することだ。ライバルたちとの勝負の中で、それを生み出すんだ」
「ライバルたちとの勝負……」
そこまで言いかけて、ヴァージンは首をはっきりと縦に振った。
「速い奴がたくさん集えば、お前は自然に本気の走りを見せることができるはずだからな」
翌日からヴァージンは、よりウォーレットを意識したトレーニングに入った。あの日インドア記録を出したウォーレットと同じほぼ同じスピードでマゼラウスが数周走る中で、ヴァージンが5000mを走るというタイムトライアルは、それからの1ヵ月で5回、6回と回数を重ねていった。
「その調子だ、ヴァージン!」
「……ありがとうございます。何となく、ウォーレットさんの走りが分かってきたような気がしました」
「だろ。ただ、今の走りプラスアウトドアでどこまで伸びてくるか、だからな。いいな」
「はい」
おそらく、オリンピックでも決勝の舞台をはじめ、この先何回かウォーレットと直接対決することになるだろう。だが、このトレーニングを続けていけばウォーレットに勝てる。ヴァージンは、次第にそう確信するようになっていた。
オリンピックイヤーも、本格的なアウトドアシーズンに突入した。
「ヴァージン。前に言った通り、そろそろ10000mに出場してみよう」
「分かりました」
4月、少しずつ暖かくなってくるとともに、本調子とは言えなかったヴァージンの5000mのタイムも上向きになってきたが、それ以上に10000mのタイムがコンスタントに31分台前半出せるようになったことから、マゼラウスも10000mの勝負に彼女を送り出したのだった。
「とりあえず、再来週のリングフォレストでの大会を、10000mデビューとして君の代理人が押えている。5000mに続いて、世界に君の力を見せてやるんだ」
「はい、分かりました」
それから2週間後、ヴァージンの姿はオメガ国のリングフォレストにあった。リングフォレストは、3年前のジュニア大会で、ヴァージンが初めて世界にその名を知らしめた時に、5000mを走り抜けた場所だ。いま、ヴァージンは10000mに挑むアスリートとして、この場所に戻っている。だが、フィールドを踏んだ時の感触は何一つ変わっていない。薄い青のトラックを真っ先に駆け抜けた、あの日の記憶がヴァージンに甦ってくる。
オリンピックシーズンということもあるのか、この大会でもオリンピック優勝候補とも言える有力なライバルは揃っていない。5000mでもグラティシモの一人勝ちと事前に言われており、事実ヴァージンが会場入りする前に行われたそのレースでも、グラティシモが他を圧倒した。
だが、大会の注目はやはりヴァージン自身にあった。
「女子5000m世界記録保持者が、ついに10000mでもその力を見せつける!」
会場近くで売られているスポーツ新聞が、こぞってヴァージンを記事にしている。それだけではなく、ヴァージンが会場に入るなり、大勢の記者がヴァージンにカメラを向け、その表情を伺っていたのだった。
(私は、10000mでは明らかなチャレンジャーなのに……)
そう言って、ヴァージンは選手受付に進んだ。そこで、ヴァージンは信じられない名前を目にしたのだった。
(エリシア・バルーナ……)
バルーナが、5000mではなく10000mに出場する。この事実を目の当たりにして、ヴァージンは思わず息を呑み込んだ。今年、同じインドア大会に出ていたはずだ。やはり、同じことを考えているライバルは、他にもいるのだった。
(でも、何か気が楽になってきた……)
完全アウェイの世界で、ヴァージンは自分の走りをするつもりでいた。だがここに来て、5000mのライバルがいるのは彼女にとって心強かった。
ロッカールームに入ると、そのバルーナがヴァージンを待っているかのように着替えていた。
「バルーナさん、まさかここで会うとは思いませんでした」
「そう。私も、ここで10000mに乗り換えるなんて思わなかった」
バルーナが、やや小さい声でそう言う。ヴァージンの目には、彼女の表情がどこか寂しげに見えた。
次の瞬間、バルーナがヴァージンの元に近づいてきた。
「私、コーチに言われた。勝負すべき場所を10000mに替えなさいって」
「えっ……」
ヴァージンは、思わず戸惑った。それが何を意味するか、その時のヴァージンには想像できなかった。
「これからは10000mが私の本職。そういうことになったの。じゃ」
そう言うと、バルーナはスタスタとロッカールームを出ていってしまった。
(どうして……)
可能性を少しでも広げるために、初めて出場した10000m。だが、必ずしもそうではないライバルがいる。
気が付くと、ヴァージンの心臓の音は速くなっていた。