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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
初めてだったはずのオリンピック
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第14話 その可能性はあまりに小さく(5)

 スタートの号砲とともに、ヴァージン、ウォーレット、そしてその周りにいる12人のライバルたちの足が一斉に薄青のトラックを力強く蹴り上げた。ヴァージンは、一気に内側に寄り、そこでほかのライバルたちの出方を伺おうとした。

 だが、最初のコーナーを回る前に、その戦略は打ち砕かれる。

(……っ!)

 ウォーレットが、スタート直後と思えないほど大きなストライドで一気にトラックの内側のポジションに躍り出た。これまでヴァージンが2年半プロの世界で勝負するようになってから、一度も見たことのないような激しいスピードでのスタートだった。

(私でも、3000m過ぎたくらいのスピード……)

 ヴァージンは、ウォーレットの背中を見ながら軽く息を呑み込んだ。案の定、一気にスタートダッシュをした後のウォーレットが徐々にスピードを落とし、400mを76秒程度のスピードに落ち着かせたが、その足はどこかゆったりとしているようにヴァージンには見えた。

(どこかで、勝負をしないといけない……)


 この時、ヴァージンにはまだ不安はなかった。

 ウォーレットの数メートル後ろで、バルーナなど3人ほどのライバルとともに勝負の時を待っていた。


 200mの室内トラックを5周し、最初の1000mを過ぎた。だが、先頭を走るウォーレットのスピードはなかなか上がっていかない。200mを38~39秒程度のスピードで、最初の1000mも3分12秒と、世界記録をたたき出したときのヴァージンのスピードから見てもかなり遅い方だった。ヴァージンの足が、徐々に退屈を感じ始めた。

(レースは、やっぱり自分が作らないといけない……)

 ヴァージンは、ここで軽くスピードを上げることにした。右足に力を入れ、目の前にいるウォーレットを追いかける。ウォーレットの足は、特にスピードを上げていない。200mもあれば、楽に追い抜かせる。ヴァージンははっきりと確信した。

 だが、ウォーレットに手が届きそうな距離まで近づいたその時、突然ウォーレットのストライドが大きくなった。後ろを振り向くことなく、ウォーレットがヴァージンを突き放しにかかる。200mを38秒程度で引っ張っていった足が、ヴァージンの体感で35秒程度まで速くなっていた。400mにすれば70秒で、ヴァージンにとっては決して速いスピードではないのだが、このレース展開にヴァージンはどこか奇妙に感じないわけにはいかなかった。

(まだ、ウォーレットさんと勝負すべき時ではないのかもしれない)

 無意識のうちに、ヴァージンはその足を緩めてしまう。完全にスローペースでのレース展開に、自らが呑み込まれていた。


 それは、まさに今年に入ってからのヴァージンの「癖」であった。先のことを気遣ってゆったりとしたスピードで走り、結果としてベストからは程遠いタイムでフィニッシュしてしまう。この日のレースも、このままではその再現になってしまう。

 2000mを過ぎ、残された距離が徐々に少なくなっていく。

(もっと速く、私は走っても大丈夫なはず!)

 ヴァージンは、再びスピードを上げようとした。だが、短時間で再びスパートをかけようとすると、足がついていかない。

 心なしか、ウォーレットとの距離が開いていくように見える。だいたい数十メートルぐらい離されただろうか。ウォーレットは、順調にスピードを上げている。

(よし)

 ヴァージンは、一気にウォーレットの前に出ようとスピードを上げた。だが、ヴァージンのストライドがあまりにも大きくなっていることに、当のヴァージンはすぐに気が付かなかった。

(少し上げすぎた……)

 まだ半分くらいの距離があるにもかかわらず、ヴァージンは最後に見せるようなトップスピードで次の足を踏み出していた。200mを34秒程度まで上げたウォーレットを追いかけるには十分すぎるスピードだが、これでは体がもたない。ヴァージンは、前に出すぎた足を少しずつ引っ込めようとするが、一度勢いに乗ってしまったスピードから戻していくので、膝に違和感を覚えた。

(……)

 膝がガクッとする。こんなことは、レースではもちろん、アカデミーでのトレーニングでもほとんど味わったことがない。味わったとすれば、マゼラウスに「遅すぎる」と言われてしまったときぐらいしか思い出せない。

 ヴァージンは、ペース配分を誤ったことに気がついた。


 そして、その足が再びトラックの上で激しいスピードを見せることはなかった。

 最後の200mも、32秒。スパートをかけているはずが、ウォーレットに引き離されていく。

 世界記録を生んだ自慢のスパートが、沈んでいく。


(負けた……)

 15分03秒28。最悪すぎると言っていいほどのタイムでヴァージンはゴールラインを駆け抜けると、首を激しく横に振って観客席の方を見る。観客席が、まさかの展開に驚いている様子だった。

(私は、レースを台無しにしてしまった……)

 悔し紛れのため息を吐き、ヴァージンはウォーレットのもとにゆっくりと近づき、この1年ほどの間自らがされ続けてきたように、勝者を抱きしめる。

「おめでとうございます、ウォーレットさん」

「ありがとう。……でも、もっと勝負がしたかった」

 ウォーレットのタイムも、14分47秒98と決してベストというわけではなく、あの時ロッカーでヴァージンに告げた「目標」を達成することはできなかった。だが、ヴァージンの顔を見た瞬間、ウォーレットはそれ以上の悔しさをあらわにした。

「グランフィールドが、もっと食らいついてくると思ったのに、気が付いたら半周ぐらいの差……。なんか、楽しくなかった」

「そうですか……。私の調子が上がらなかっただけです」

「そう。グランフィールド、次は本気でぶつかってきていい」

「分かりました」

 そう言うと、ウォーレットは観客席に向かい、コーチからチュータニアの国旗を受け取ってウイニングランを始めた。ヴァージンは、それを呆然と見つめるしかなかった。


 ――グランフィールドが、もっと食らいついてくると思ったのに。


 レース後、マゼラウスからほとんど声を掛けられることなかった。いや、「15分台を出すなと言っただろ」などという言葉はヴァージンの耳に響いていたのかもしれないが、全く印象に残らなかった。

 その代わりに、初めてまともに話したライバル、ウォーレットの一言が突き刺さって仕方がなかった。

(悔しい……!できれば、次に会ったときに、同じくらいの差をつけて勝ちたい!)

 ヴァージンは、ロッカールームで着替える時も、右手にグッと力を入れ、自らに対する怒りをあらわにした。


 オメガ国に戻ったその日の夜、ヴァージンのもとに代理人ガルディエールから電話がかかってきた。電話が来るまではウォーレットとどう勝負をするかで頭がいっぱいになっていたヴァージンも、ガルディエールの声を聴いた瞬間、一気に緊張が高まった。

「レースを映像で見させてもらったけど、君らしくなかった。沈んじゃってた」

「はい……」

 言われてしまった、とヴァージンは息を呑み込んだ。だが、ガルディエールの言葉は終わらない。

「このままじゃ、今年一番輝いている女子長距離選手は、君じゃなくてウォーレットになってしまう……。私のエージェントの中でも、何人か君を見限りかけている人がいるんだ」

「そんな……。でも、あれは完全に不本意な走りです」

「そう言ってくれると嬉しい。ヴァージンは、まだまだ成長するはずだから。次に期待する。ただ……」

 ガルディエールがそこまで優しく言った。だがその直後、電話の相手が変わったかのようにヴァージンの耳に低い声が響く。

「……今のままじゃ、オリンピックは厳しい。世界記録を出し続けるとか、そういう国際オリンピック委員会を納得させられる結果が残っていないと、特例で出場することはかなり厳しいと思う」

「……分かりました」

 ヴァージンは、目の前が一瞬見えなくなった。優勝しなければならなかったはずの大会を不本意に落としたことはヴァージン自身も分かっていたが、そのことでさらに崖っぷちに立たされていたのだった。

「とりあえず、次のレースは春季のジュニア大会、それからオリンピックまで、本格的にシニアのレースに臨んでいく。いい結果を残すことを、期待するよ」

「はい」


 オリンピックは厳しい。

 ガルディエールの口から出てきた言葉は、あまりにも悲痛なものだった。


 その後も、ヴァージンはオリンピックを意識して5000mや10000mの走り込みを何度も行った。だが、昨年のようにトレーニングのたびにタイムが大きく伸びていくようなことはなく、ベストと言える状態からはほど遠い状態が続いていた。

 そのような中、ある日の昼休みに、ヴァージンはグラティシモに声を掛けられた。

「昨日の、アムスブルグ室内選手権でとんでもない記録が出たの。ヴァージンは知ってるはずだけど」

「知らないです」

 グラティシモの普段通りの口調に、ヴァージンは戸惑いを隠せなかった。トレーニング中も抱き続けていたあの感情が、一気に湧き上がってくるかのようだった。

 グラティシモは、ヴァージンにゆっくりと告げた。

「モニカ・ウォーレットが14分32秒27。インドア5000mの世界記録を出したわ」

「すごいです……」

 ヴァージンは、ここで軽く笑おうとした。だが、その口がほほ笑むことはなかった。

(世界記録……)

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