第2話 誰もヴァージンの未来に力を貸さない(2)
次の日曜日、ヴァージンはジョージの運転する自転車に無理やり乗せられ、グリンシュタインに連れて行かれた。言いつけを守らず、こっそりトレーニングシャツを着ようとした瞬間に、行くぞ、と言われ、ヴァージンは終始首を下に傾げたまま、2年ぶりとなるグリンシュタインに入った。
「ここが、アメジスタの中では大都市と言えるグリンシュタインだ」
「2年前にも来たから、そんなこと分かってるよ、父さん」
ヴァージンがそう漏らすも、ジョージにそれを聞く耳はなさそうだ。後ろに乗せているヴァージンを無視するかのようにジョージは自転車を止め、見慣れぬロゴの描かれた看板を指差す。
「あれが農耕具のアグリスター、その奥が建築設計会社のブライトンハウスだ。この前渡した新卒採用の紙にも書いてあっただろ」
「……書いてあった。でも、設計会社なんて数学0点の私には無理だって」
「無理とか言うんじゃないよ。一度門を叩いて、就職したいってアピールしてこい」
「……はぁい」
ジョージから逃げられそうにないので、ヴァージンはレンガに緑色のペンキの塗られた建物に向かった。建築設計会社にしては、周りの家のつくりと大したことがないが、入口の雰囲気は誰でも歓迎されそうな温もりに溢れていた。
「ヴァージン。父さん、お前の一番入れそうな会社を探してくるから、2時間後に聖堂の下に来い。たくさんの会社を回るんだぞ」
「はぁい」
ヴァージンがため息をついて、その声のする方を振り返ると、もうジョージは彼女の視界から消えていた。重い足を何とか振り切って、ヴァージンは設計会社の事務所がある2階に向かった。
「し……、新卒の採用で、お……、お伺いした、ヴァージン・グランフィールドって言います」
「うちに就職を希望されているのかな」
「……は、はい」
学校の先生以外では初めての硬そうな面をした男性にかける、ヴァージンの声は震えていた。ドアを開けた瞬間に細かすぎる設計図が壁一面に貼られていたので、めまいさえ覚えた。
「そうか……。まぁ、いま時間があるからの……。奥に座れ」
「はい」
そう言うと、ヴァージンは外を見渡す大きな窓と隣り合わせのテーブルへと案内された。彼女よりわずかに年上の茶髪の女性が、陶磁器に水を入れて持ってきた。
「私の名前は、ジェームズ・ブライトン。この会社の企画開発部長をしている」
「企画……開発部長……ですか?」
ヴァージンは手渡された名刺を片手で受け取り、白と黄色のストライプが入ったYシャツの胸ポケットにしまった。そして、聞き慣れない役職に思わず目を丸くした。
「すごく……お偉い方なんですね」
「そう言われては……な。で、君はどうしてこの会社に入りたいと思ったのかね」
「……えぇ、どうしてもお金を稼がないと……、いけないもので……」
ヴァージンの口から反射的に出てしまった言葉に、ブライトンの表情は突然曇り出した。腕を組む姿を見て、ヴァージンも唇を軽く噛んだ。
「それは……、単に働きたい理由なんじゃないかな。もっと、君の希望を聞かせて欲しいんだ」
「えっ……」
そもそもアスリートになることだけを目指していた彼女にとって、数日前に机の上に新卒採用の紙が置かれていたとしても、会社研究をしたことは一秒たりともなかった。学校でも、担任の先生が口を酸っぱくしてそう言ってはいるものの、いざ会社に勤める人を前にしてようやく現実を思い知った。
しばらく考えてから、ヴァージンは口をもごもごさせながら言った。
「私……、走りたいんです……。建築って……走れる人が結構……」
(どうしよう……)
言っているヴァージン自身も全く意味が分からない言葉の羅列に、彼女は思いついた言葉を最後まで言うことができなかった。本当の自分の夢を言えば、襟首を掴まれてドアから放り出されてしまうような錯覚さえ覚え、ヴァージンの体はガタガタと震えた。
「それは……、間違ってると思うんだよな……。そもそも、君は体力に自信がありそうって自分で言ってるし……、本当になりたい自分は別にいるんじゃないかな」
「……はい」
かすかにそう呟いた後、ヴァージンは突然胸の締め付けられる想いがした。息を飲み込んで、時折荒い呼吸をブライトンに響かせていた。
「私……、本当はアスリートになりたいんです。世界で……戦いたいんです。けれど、親も……みんなも、無理だって私を止めようとするんです」
ヴァージンは何度か首を横に振った。ブライトンは呆れた表情を浮かべかけたが、目の前の少女にその表情を見せることができなかった。
「私……、どうすればいいんですか!」
「それは、君が決めることだと思う」
「……っ!」
ブライトンは、スッと立ち上がり、ヴァージンに背を向けた。反射的にヴァージンも立ち上がり、彼女から離れていってしまうブライトンに声にならない叫びを言いかけようとした。ブライトンの表情を見ることができないのが、ヴァージンにとって唯一の恐怖だった。
しばらくして、ブライトンは首だけをヴァージンに向けた。その表情は、不思議とにこやかだった。
「君みたいな人間は、夢をかなえた方がいいよ。誰も手を貸さなかったとしても、君はその夢だけで、現実を変えてしまうかもしれない力がある」
「……本当ですか!」
ヴァージンは、両手を組んだまま、口を大きく開けてブライトンを丸い目で見つめた。
「今日は、君を不採用にするよ。君が本物のアスリートになってほしいから。そして、もしこのアメジスタに輝かしい成果を残したら、少しだけでも支えてあげるよ」
「……ありがとうございます!」
ヴァージンはブライトンに深々と頭を下げて、不採用にも関わらず笑みを見せた。彼女の夢を理解してくれた人がもう一人増え、少しだけ道が開けてきたような気がした。
しかし、現実はそう甘くはなかった。再び通りに出ると、やはり誰も走っている人がおらず、目の前には行きたくもない会社がいくつも立ち並んでいた。そして、ヴァージンに強い北風が吹き、彼女の金色の髪を激しく揺らした。
ジョージと聖堂で待ち合わせる時間まで、まだ1時間以上もあった。この場所で突っ立っている姿をジョージに見られてしまう可能性だってある。そこで、時間ギリギリまで適当な路地裏を見つけ、そこに身を潜めることにした。
(……ここにも人がいる)
ヴァージンは、靴屋と民家に挟まれた人二人分のスペースしかない路地裏に入った。誰もいない場所を期待していた彼女は、筋肉質の男性が横たわっているのを見て、思わず入るのをためらった。しかし、その男性が久しぶりの客に優しい視線を向けたので、ヴァージンは恐る恐るその路地裏に入ることにした。
「君も、家を失ったのか」
「いえ……。私は、単にこの街で仕事を探しに来てたんですが……」
そこまで言って、ヴァージンは男性の姿に釘付けになった。腕と足が太く、ところどころ筋肉が膨らんでいた。穴の開いたウインドブレーカーを着ている。ある程度の目星は付いた。
「あの……、もしかして、昔なんかスポーツやってましたか?」
「何故、そう思った?この体を見てか?」
男性はゆっくりと立ち上がり、ヴァージンの前に立った。
「……はい。なんかその体型、中等学校のバスケ部にもいるような感じだったんで……。バスケですか?」
「……あぁ、やってた。やめたけどな」
そう言うと、男性は両腕を高く伸ばして、レンガの壁を力強く押した。今にもボールを天高く上げようとする姿がヴァージンには連想できた。
「……今は、こんな狭いところで暮らしているんですか?」
「あぁ。もうバスケには飽きたからな。体を動かせる広い場所に立てば、嫌な思い出しか甦ってこない」
男性は語った。一度だけ、オメガで開かれたバスケットの国際大会で、予選の第一試合のコートに入った瞬間、観客からため息交じりのどよめきが起こったこと。相手のスピードに圧倒され、ものの5秒ももたずに相手にボールを奪われてしまったこと。0-154という、屈辱的な点差で負けたこと。帰り際にアメジスタ側の出口で罵声を浴びせられたこと。
そして、そのバスケという言葉を語った瞬間に、全ての会社から落とされたこと。
「そんな……」
ヴァージンは、思わず右手で口を押さえて、男性の後ろめたそうな表情を見つめた。
「今はもう、自分を悔やんでいる。やっぱりこの国でアスリートになってはいけないというのは本当だった」
そこまで言うと、男性は一歩だけヴァージンに近づいて、腰に手を当てて睨みつけた。
「もしかして、君……、俺みたいなアスリートになりたいと思っているんじゃないだろうな」
「えっ……」
ヴァージンは、思わず体を後ろにのけぞった。普通なら、待ってましたとばかりに首を縦に振る彼女であっても、痛々しい記憶が宿るこの男性の前では、その勇気もなかった。
そして、ヴァージンは数秒経ってから小さい声で呟いた。
「私……、なりたいんです……。アスリートに……。陸上ですけど……」
「やめとけ!」
瞬時に返された言葉が、ヴァージンの胸をきつく締め付けた。その時の男性の表情だけ、最近やたらと目にするジョージの厳しい表情に似ていて恐ろしかった。こうなると、ヴァージンにはもう返す言葉かなかった。
「あのな、アスリートは失敗するために……、世界の中で恥をかくためだけに存在するんだ!それを経験した俺には……、もうアスリートに希望を持てない」
男性は、そこまで言うと途端にしゃがみこんで、壁にもたれかかってうずくまった。ヴァージンは膝を屈めたまま、涙目で男性の姿を見つめることしかできなかった。