第14話 その可能性はあまりに小さく(4)
その後も、ヴァージンは10000mでも勝負をするために、数日の一度10000mのタイムトライアルを行った。だが、ヴァージンのタイムは、そう飛躍的に伸びるわけではなかった。
「32分!……戻っちゃったじゃないか」
「はい」
マゼラウスの強い声が、走り終えたヴァージンに否応なしに浴びせられた。マゼラウスの持っていたストップウォッチを見た途端、ヴァージンの口から軽いため息がこぼれた。
(本気で走ったつもりなのに……、32分03秒28……)
女子10000mで30分を切れば、世界記録に手が届く。このことを知った日のタイムが全てを通じてのピークで、その日以来タイムを縮めることができていない。ヴァージンにも、そのことは分かっていた。逆に、マゼラウスがここまで何も言わなかったことが不思議でたまらなかったほどだ。
ヴァージンが首を軽く横に振ると、マゼラウスはそれを見計らうかのように口を開いた。
「ヴァージン。最近、調子あまり上がってないな……。5000mも15分寸前にずっと甘んじているし、今年に入ってからあまりタイムがよくない」
「はい……」
「もしかして、オリンピックに出られるかどうか、まだ不安に感じているんじゃないだろうな」
「思ってないです」
ヴァージンは、ここでマゼラウスに向かって素早く首を横に振った。
「口はそう言ってても、足が言うことを聞いてないように見える。追い込まれると結果を出してきたヴァージンにしては、珍しい……」
「はい」
ヴァージンは、ここでついに何も返せなくなった。マゼラウスの声は、この日は珍しく鬼のようだった。
「とりあえず、2月のイーストフェリルまでもう日はない!今のタイムでは、表彰台すら難しい。それだけは肝に銘じておくんだ!……明日から、本気で走ってくれよ」
「分かりました」
(悔しい……)
トレーニングとはいえ、今年に入って結果がついてこない。ヴァージンは、ワンルームマンションに戻るときもやや速足で歩いたが、出してしまったタイムを払拭することはなかった。
だが、部屋のドアノブを握りしめた時、突然ガルディエールの声がヴァージンの脳裏に思い浮かんだ。
――君なら、大丈夫だから。あれだけ世界に記録を輝かせたんだから。
(ガルディエールさん……)
「ガルディエールさん!?」
ガルディエールがその場にいるような気がして、ヴァージンは思わず背後を見た。足音が聞こえなかったその空間に、誰もいるはずがなかった。
(でも、何か私に声を掛けてくれている……)
あの日以来、代理人ガルディエールからヴァージンに、例の件については何も連絡がない。その代わり、オリンピック本番に向けて、様々な大会スケジュールやスポンサー撮影などの連絡が数日おきに入ってくるのだった。
ガルディエールは、フェアラン・スポーツエージェントの内外で、ヴァージンのために動いている。ガルディエールの眩しい表情が、見ることのできないはずのヴァージンの脳裏に浮かんでくるのだった。
(私、大丈夫だから……)
ガルディエールは、今期の成績が特例でのオリンピック出場の可否を分けると言っている。この日のトレーニングでは最悪と言っていいタイムを残してしまったが、ヴァージンに立ち止まっている時間はなかった。
(2月、イーストフェリル室内選手権が今シーズンの最初。そこで、まず満足のいく成績を残す。私には、それしかない……)
2月に入り、フェリル共和国・イーストフェリルで開かれたインドア選手権が、ヴァージンが19歳になって初めてのレースになった。オメガからフェリル共和国に渡る飛行機は、日に1便しかないにも関わらず、ヴァージンのほかに女子の長距離走に出場しそうなライバルは誰も乗っていなかったように、ヴァージンには思えた。
ヴァージンは、飛行機のシートベルトサインが消えると同時に、隣に座るマゼラウスに尋ねた。
「最近だと、いつもなら、飛行機の中でメドゥさんとかオメガ国のライバルにばったり会うんですけど、今日はいないですね……」
「それが、オリンピックシーズンというものだ」
「オリンピックシーズン……。そこに照準を合わせて、参加するレースを絞っていくわけですね」
「ヴァージン、よく分かるな」
マゼラウスが、軽く首を縦に振る。ヴァージンは、マゼラウスの首の動きに合わせて軽く笑ってみせた。
「グラティシモさんに、この何年かの間でいろいろ教えてもらいました」
「そうか」
そう言うと、マゼラウスは一度口を閉じ、ヴァージンを見つめながら言った。
「でもな、ライバルが調整しているからと言って、レースで気を緩めてはいけない。自分との勝負は、残っているはずだろ」
「はい」
ヴァージンは、力強く首を振った。昨年のようにトレーニング中に何度も14分30秒を切るようなタイムをたたき出すようなことはなかったが、それでもマゼラウスにきつく言われて以降は、徐々にタイムを戻してきた。あとは、自分がどれだけのタイムを残すかだった。
そして、当日がやってきた。イーストフェリルの室内競技場に、ヴァージンは本番3時間前に姿を見せた。建築間もない白いドームを見て、ヴァージンは右手に力を入れる。
(よし……)
周りを他の種目のアスリートたちが行きかう中、ヴァージンは大きくうなずいて選手受付場所へと歩きだした。
飛行機の中で抱いた予感が的中してしまった。やはり、メドゥやグラティシモといったオメガの有名選手は、今回の選手権をみな回避していたようだ。これまでヴァージンがライバルだと思ってきた選手の中で今回の大会に出場しているのは、バルーナとウォーレットぐらいだった。
しかも、バルーナは1月の地元アドモンドの大会で表彰台を逃すほど、今年は勢いがないと言われる。そうなると、残すはウォーレットだけだ。
「余裕」
今や敵なしの実力を持つヴァージンは、誰にも聞こえないように呟いてロッカールームへと急いだ。
ロッカールームに入ると、ヴァージンの目の前に見慣れたライバルがいた。ダークブラウンの髪を後ろで縛りながら、入ってくるヴァージンに勢いよく振り向き、ヴァージンに近づいてきた。
「誰かと思ったら、グランフィールドじゃない」
「……ウォーレットさん」
普段はほかのライバルよりも早く会場に入るヴァージンにとって、この日のモニカ・ウォーレットは珍しい先客だった。昨年は、出場したほぼ全てのレースで5位以内に入るなど、「ワールド・ウィメンズ・アスリート」の中でもヴァージンに次いで昨年成長した長距離選手と紹介されるようになっている。今年25歳になる彼女は、まさに上り調子のライバルだった。
これほどまでに注目される選手でありながら、ヴァージンはウォーレットとほとんど話したことがなかった。トップでゴールした後、他のライバルと同様に軽く抱きしめるだけで、気が付くとお互いまともに話さないままスタジアムを後にするのだった。こうして声を掛けられること自体、ヴァージンには意外であった。
ヴァージンの正面に立ったウォーレットが、軽く息を吐いた後にヴァージンに口を開く。
「どう?今年最初のレースはうまくいきそう」
「……全力を尽くすだけです」
「そう……。私だって、全力を尽くす。昨日までの自分を、超えるために」
「私もです。自分を超える一年にしたいと思っています」
ヴァージンがそこまで言うと、目の前のウォーレットは軽く笑ってみせた。
「世界記録を手にしてしまったグランフィールドが、自分を超えるのは、そんな簡単なことじゃないんじゃない」
「ウォーレットさん……。そんなことないですよ」
「冗談。ただの挑発。……だけど、今の私は室内でも14分40秒切れそうな気がする、ってことだけは言っておくわ。じゃあね」
「また、トラックで……」
そう言って、ヴァージンはロッカーに扉をゆっくりと開けた。そして、中からアメジスタカラーのレーシングトップスを取り出したとき、ヴァージンは思わず息を呑み込んだ。
(私のインドア記録……)
インドアでは、アウトドアと比べて空気抵抗が変わり、しかもコーナーの数もアウトドアの倍になるため、どの種目もそうだがベストタイムがアウトドアに比べると悪くなる。14分15秒72という世界記録を手にしたヴァージンでさえ、そのインドア記録は昨年のアムスブルグ室内選手権の14分39秒28。ウォーレットは、それに近いタイムで勝負してくる可能性もある。
ヴァージンはそこで首を大きく横に振った。
(ウォーレットさんは脅してるだけ。私は、ウォーレットさんなんて気にしない)
ウォーミングアップを念入りに済ませ、ヴァージンは眩しいライトに照らされた、輝くような薄青のトラックの上に立った。待機場所である2レーンまで移動すると、待ってましたとばかりにヴァージンにカメラが近づいてくる。そして、沸き上がる歓声と共にモニターに自らの顔が映し出されたのを見て、ヴァージンは小さく手を振る。
(勝負の時間……)
世界記録をたたき出してから、カメラマンがヴァージンの目の前で止まらなかったことが一度もなかった。モニターに映されることにもすっかり慣れ、逆にそこで軽く手を振ることによって、ヴァージンの緊張は解けてくる。
だが、二つ外側の4レーンにウォーレットが立った瞬間、ヴァージンと同じくらい大きな歓声が沸き上がった。
(注目されている……)
昨年一発目のレースでは、大本命がバルーナとされていたが、ここにきて主役級の選手が入れ替わっているかのようにヴァージンには感じられた。ヴァージン・グランフィールドに立ち向かえるアスリートは彼女しかいないとばかりに。
(私は、負けない……)
ヴァージンは、スタートレーンに立った。振り返ると、ウォーレットの姿が、心なしか大きく見えた。