第14話 その可能性はあまりに小さく(3)
ヴァージンがアメジスタからオメガに戻って、1週間が経った。
午前中のトレーニングを終えて、ヴァージンがロッカールームに足を向けようとすると、久しぶりに見かける顔がヴァージンの目に飛び込んできた。
「久しぶりだね」
「ガルディエールさん……」
この日、セントリック・アカデミーに代理人のディオ・ガルディエールが訪れていた。やや遅れて建物に向かおうとするマゼラウスも、ガルディエールの前で足を止め、軽く礼をした。
「この前は、君がいなかったから、どこに行ってたか心配した。ちょっと話をしなきゃいけないことがあったんだけどさ……」
「すいません。アメジスタに帰ってました」
「オフシーズンだもんな……。じゃあ、アメジスタに帰ったんなら、話は君も知ってるはずだと思うんだ」
ガルディエールは、カバンの中から分厚い白ファイルを取り出す。透明ではないため、その中身までヴァージンが確認することはできなかった。
「……どういったことでしょうか」
「オリンピックの話だ。アメジスタには、残念ながら君を推薦する組織が存在しない、って聞かなかったか」
「……親から聞きました」
――それが、ないんだよ。ヴァージンより前に立派なアスリートが育たなかったこの国に、オリンピックに出るという……動きすらなかったんだ。
「私も、調べるまでこのことは分からなかった。君のタイムなら、予選は簡単にクリアできるはずだと思ったからな」
「予選も、アメジスタにはなかったみたいです」
「そうか……」
そこまで言うと、ガルディエールはゆっくりと腕組みを始めた。
「君は、アメジスタの代表として……、出たいよな」
「勿論です。貧しい国に、希望を届けたいんです……」
「そうか……」
ガルディエールのため息が、ヴァージンに恐ろしいくらいに吹き付けてくる。昼間だというのに、トラックを映し出す照明に灯が点っているかのような視線を、ヴァージンは感じた。
「やっぱり、アメジスタ代表で出るのは、厳しいんですか?」
ガルディエールが、重苦しく首を縦に振る。
「ガルディエールさんが、いくら上に言っても、ですか?」
「そうだな……。君には冷たい言い方になるかもしれないけど、オリンピック委員会がない以上は、アメジスタの代表としては出られない」
「そんな……」
(私は、アメジスタの国旗を背負っているのに……)
ヴァージンが慣れ親しんだ、世界一貧しい国アメジスタ。
アスリートに希望すら持てないと言われる国の中で、何とかしたい、という気持ちでいっぱいだった。
その想いは、先日の帰国でより一層強くなっているところだった。
その希望の光が、徐々にしぼんでいく。
ガックリとうなだれるヴァージンを、ガルディエールは声を掛ける。腕組みをしていたはずのガルディエールは、いつの間にかその腕をほどいていた。
「でも、本当はそこまで自分を追い込む必要なんて、ないんじゃないか?」
「……」
「アメジスタの旗を背負えなくても、出られる道はある。君の走りを、世界中に見てもらえるチャンスはある」
「……本当ですか」
ヴァージンは、涙声にならないまでも、半泣きに近い表情でガルディエールの表情を伺う。
「本当だ。ただ、それはすごく難しい道のりになるかもしれないけどな」
「……どういう、道のりですか?」
「……君なら、分かるはずだよ。ちょっと考えてごらん」
ガルディエールのこの返答に、ヴァージンは思わず戸惑った。不意に、トラックの上に冬の冷たい風が吹き付け、ヴァージンの金色の髪を揺らした。
しばらく考えた後、ヴァージンはゆっくりと口を開いた。
「もしかして、オメガに帰化するってことですか?」
「……それも、できなくはなかったんだけどな」
ガルディエールの首が、一度だけ左右に振れる。それを見るなり、ヴァージンは体育以外の才能がほとんどないことを悔やんだ。世の中を知らな過ぎていたのだった。
そうこうしているうちに、ガルディエールがヴァージンに聞き返した。
「もし、君がオメガ国の国王だったとしよう。すると、自分の国の選手が、たくさん金メダルを取るためには、強い選手をそろえればいい」
「はい」
「でも、自分の国にいる選手が、あまり強くなかった。例えば女子の5000mで、15分を切るような人がいない。それでも、金メダルが欲しい。君ならどうする?」
「……選手を、連れてくる」
ヴァージンは、細々とした声で自信なさげに返した。すると、ガルディエールはうなずく。
「そう考えると思うんだ。でも、それをやったとき、オメガってズルいことしてるって思わないか?」
「えっ……?」
「もしそれが認められると、外国の選手により多くのお金を出した国が、いつも金メダルを取れるってことになっちゃうんだよ」
(……っ!)
ヴァージンは、声に出すかのように息を呑み込んだ。ガルディエールの話を最初から組み立てていき、自らもこのことの意味を悟ったのだった。
「だから、オリンピックとか世界競技会とか、大きな大会では、国籍を取得してから1年未満はその国の代表としては認めない、ということになってるんだ」
「そうですか……」
――だから、オメガの選手として出てもいいんじゃないかと思うんだ。
(ガルディエールさん、あの時言ってた……)
ヴァージンは、ここで唇をキュッと噛んだ。そう言えば、夏の世界競技会の時に、国籍を移すかどうかの選択を迫られたことを思い出した。
あの時ガルディエールは、暗にそのことを意識していたのだということを、今更ながらに気が付いた。だが、もはや時は遅すぎた。
「そうなると……、アメジスタ人としてもオメガ人としても……、私はオリンピックに出られないってことですか……?」
ヴァージンは、唇を震わせたまま、やや息を詰まらせて言った。すると、ガルディエールは一度軽くうなずいて口を開いた。
「君は、出たいんだよな」
「勿論です」
「なら、ちょっと難しい……、いや、ちょっとどころじゃなく難しいハードルをクリアしなければいけない。今日は、その話を君に持ちかけたんだよ」
ようやく本題と言わんばかりに、ガルディエールが白ファイルを開いてヴァージンに見せる。そこには、オリンピック出場の特例という文字が大きく書かれた、長い文章がページいっぱいに書かれてあった。
「これは……」
「これは、オリンピック出場の特例だ。出場を、国際委員会に認めてもらうという、非常に難しい試練なんだけど、今までそれで出場できた選手は何人かいる」
「認めて……」
「そう。まぁ、君が国際委員会に言って直談判するってわけじゃなくて、私が君を懸命に推薦する。勿論、そのうえで、これから先、オリンピックシーズンでの君の成績は、非常に重要なものになってくるだろう」
「国際委員会が、私のタイムを見るってことですね」
「そういうことだ」
そう言うと、ガルディエールはヴァージンの手を取り、優しく握りしめた。
「君なら、大丈夫だから。あれだけ世界に記録を輝かせたんだから」
「はい」
気が付くと、ヴァージンはトラックの上で10分以上ガルディエールと話をしていた。だが、一度どん底に落とされたヴァージンの表情に、もはや涙はどこにも見当たらなかった。
(私は、やるしかない……!)
「私、10000mでも記録を更新したいです」
ガルディエールに「真実」を告げられてから、数日が経った。10000mを全力で走るのも3回目となったこの日、トレーニングを終えたヴァージンはマゼラウスにこのように告げた。
「欲が違うな、ヴァージン。10000mでも記録作ったら、まさに神様みたいなもんだぞ」
マゼラウスは、大きくうなずきながらそう返す。一方、ヴァージンはさらに言葉を続ける。
「今の私、オリンピックのためなら何でも勝負したいんです」
「そうか……。ただな、5000mは十分実力があるが、10000mは厳しいかもしれんな」
「この前言われたような、走り方とかですか?」
「……いや、一番の問題はタイムが追いついていないことだ。まだ、お前は31分40秒を切れてないからな」
「そうですか……。やっぱり、30分切らないと、勝負にならないってことでしょうか」
ヴァージンは、少しの間考えてマゼラウスにこう尋ねた。すると、マゼラウスから返ってきた言葉は彼女にとって意外だった。
「30分……。それは考えすぎだと思うな」
「違うんですか?」
「31分を切れるレベルでも、十分トップを狙えるかもしれない。5000mと違って、もっと差が出てくるだろうからな」
「たしかに……」
ヴァージンは、ここでようやくうなずいた。すると、追い打ちをかけるようにマゼラウスが尋ねる。
「ちなみにだ、ヴァージン。お前のめざしている、女子10000mの世界記録は、いま何分台だか知っているか?」
「……28分台、ですか?」
ヴァージンは、少し考えてからこう答えた。だが、マゼラウスは少し笑いながら首を横に振る。
「いいや、29分台、それも限りなく30分に近いとだけ言っておこう。あとは、お前で調べてくるんだ」
「30分……」
最初から狙おうとしていたタイム。それこそが世界記録に限りなく近いものだということを、ヴァージンは感じた。最初にコーチの前で10000mを走り出したときに、頭の中をよぎったタイムだ。単純計算で2倍というわけにはいかないものの、ヴァージンには狙えないタイムではなかった。
「メルティナ・サウスベスト……、29分57秒29」
ヴァージンは、その日の夜ワンルームマンションに戻ってくると、すぐさま「世界記録コレクション」を取り出した。ヴァージンが世界記録を樹立してから1週間もしないうちに出版社から無償で届いた本で、最近はほとんど開くことがなかった。
メルティナ・サウスベストは、5000mのライバルの多くがそうであるように、オメガ国出身で、現在31歳。ヴァージンから見ればかなり年上の存在だった。「世界記録コレクション」には記録を手にした時の画像が一枚だけ載っているが、それを見る限りではやや黄色がかった肌をしており、やや長い茶髪をレース中も靡かせているかのようだ。
「サウスベストさんを、目指そう!」
ここでヴァージンには一つ、大きな目標ができた。コレクションをしまうヴァージンの手には、不思議と熱がこもっていた。