第14話 その可能性はあまりに小さく(2)
ヴァージンが久々にセントリック・アカデミーに戻ってきたその日、午前中のトレーニングが終わりを告げると、マゼラウスはヴァージンを手招きして言った。
「さっき、私はヴァージンに、スペシャルプログラムとか言ってなかったか」
「はい。言ってました」
「それはな、たしか1年位前にもやろうとしてて、結局中途半端にやめてしまったやつなんだが……」
ヴァージンは、その言葉を聞いた瞬間、思わずうなずいた。
「10000mにも挑戦するということですよね」
「よく分かってるじゃないか。ヴァージン、もうすぐインドアシーズンに入るが、それが終わったアウトドアシーズンから、5000mだけではなく、もしできるなら10000mにも挑戦してほしい」
「アウトドアシーズンから……。分かりました」
「5000mで、最後あれだけのスパートができるのだから、ヴァージンにとっても10000mは余裕だろ」
「えぇ。たまにそういう練習を自主的にやったりしています」
「それは心強いな、ヴァージン」
10000mへの挑戦をマゼラウスに言われてから、そのことを心の片隅に置いていたため、ヴァージンはいつ本格的なトレーニングを始動してもいいように、1ヵ月に数回程度、アカデミー近くの陸上競技場で、一人で10000mを走っていたのだった。アメジスタに帰国した時には、トレイルランニングのコースが10kmほどだったので、ほぼ毎日10000mの走り込みを行っていたのだ。
新たなシーズンに向けて、ヴァージンが新たな種目に挑戦する準備はできていた。だが、マゼラウスの提案はそれだけでは終わらなかった。やや時間を置いて、マゼラウスがゆっくりと首を縦に振った。
「それと、これは一度でいいから試してほしいんだが……、フルマラソンやハーフマラソンとかどうだ。ヴァージンは、長距離の世界で、オールラウンドプレイヤーになってほしいと思っているんだ」
「マラソン……」
マラソンの距離は、42.195km。ハーフマラソンでもその半分の距離になる。しかも、トラック上ではなく、一般の公道をゴールに向かってひたすら突き進む。ヴァージンがこれから挑もうとしている10000mとは、同じ長距離走とは言え、庭が違うと言ってもいいものであった。
「いや、別にやりたくなければそれでいいんだが……、もしかしたらヴァージンの体力とか持久力とか考えたら、マラソンを目指してもおかしくないと思ったんだ……」
「コーチ……。一度だけ、やらせてください」
「ヴァージンよ、それは私に言わされてるから、じゃないだろうな」
マゼラウスは、やや顔をしかめる。それでも、ヴァージンは首を縦に振った。
「分かった。なら、そのことはこんど代理人と会うときに決めようじゃないか」
「分かりました」
ヴァージンにとって、普段の生活が徐々に戻ってきた。昼食をとり、アカデミー内の教室でこの日は科学の講義を受け、板書を何とか残そうとヴァージンは懸命にメモを取った。だが、頭の中はこれから挑む新たなジャンルのことで一杯だった。
午後3時になり、ヴァージンは再びアカデミー内のトラックに姿を現した。
「もしヴァージンがその気なら、今から10分後でもいいから、10000mを一度試しに走ってみよう」
「はい」
「で、タイムももちろんだが、久しぶりに君のランニングフォームを見させてもらう。10000mを走り終えてクールダウンした後は、とりあえず2階の小会議室で話をしよう」
そう言うと、マゼラウスは軽く腕組みをし、ヴァージンに10分後スタートの指示をした。ヴァージンは、トラックの脇で軽くストレッチをし、間もなく始まる10000mの走り方をその目で想像した。
「ヴァージン、いいか」
マゼラウスが、ストップウォッチとカメラを構えてヴァージンのもとに近づいてきた。すっかり準備の整ったヴァージンは一番内側のレーンに移動し、スタートラインの手前に足を合わせた。
(5000mの時と違って、ゴールラインがそのままスタートライン……)
ヴァージンは、普段と違うスタートラインにやや戸惑うも、その場所で軽くジャンプしてみせた。
「コーチ、OKです」
「なら、いくぞ。On Your Marks……」
いよいよ始まる、新たなフィールド。ヴァージンは、突き進むべきトラックをじっと見つめた。
「Go!」
ヴァージンの右足が、力強い一歩を踏み出した。今や、その足は女子5000mではトップクラスの実力にまで成長した。あとは、これをその倍の距離でどう操るかだ。ヴァージンははっきりとそう確信した。
だが、気が付くとヴァージンの足は5000mのスタート時とほぼ同じぐらいのストライドにまで開いていた。
(少しゆったり走らないといけない……)
ヴァージンは、すぐにストライドをやや小さくしようとした。だが、その時ヴァージンの足を踏み出すリズムが狂い、最初の一周だというのにヴァージンは右足に軽い痛みを感じた。
「急にストライドを変えるな!」
たまたま真横にいたマゼラウスの声が、ヴァージンの背後から響く。その頃には、長距離走を何度も走りこんでいるヴァージンは、何とか序盤のテンポを掴むことができた。5000mよりも気持ちゆったり走ることを意識した。
「400m、81秒。まずまずのペースだな」
5000mを走るときの最初の1周を、だいたい75秒前後で走ることを考えると、ヴァージンの足には物足りないスピードであった。残された距離は24周。どこまでこのスピードを維持するか、ヴァージンは考えた。
だが、ヴァージンの足は無意識のうちに足を地面につけるテンポを上げていく。最初の4、5周は80秒台だったが、3000mまで達するとコンスタントにラップ73秒前後までスピードを上げてしまっていた。これでも、5000mの時に比べるとゆったりとしたスピードだったが、ヴァージンの足が1周80秒以上かけて走ることを許さないのか、どうしても5000mのときのストライドを意識してしまう。
そして、普段であればトップスピードでゴールラインを駆け抜けていく、5000mを何事もなかったかのように過ぎていく。ヴァージンの体感的には、15分40秒前後だろうか。マゼラウスも、ほぼ思った通りのタイムを口にし、この調子と声を掛けた。
だが、ここから5000mでは世界記録を輝かせるヴァージンの走りが大きく狂いだす。
徐々にペースを上げていった足は、6000mを駆け抜ける頃にはラップ70秒になり、7000mの時点では60秒台に突入していた。このままのペースで行けば、ヴァージンが最後スパートをかけるとして30分を切るタイムでゴールすることができる。ちょうど10kmかどうか分からないトレイルランニングでも、今のヴァージンには32分前後がやっとということを考えると、これはかなりのハイペースになると確信した。
だが、すぐにマゼラウスの声がヴァージンの耳を貫いた。
「少し落ちてきてるぞ!75秒もかかってるじゃないか!」
(……っ!)
ヴァージンの右足が、残り5周で思うように前に進まなくなっている。序盤でペースを上げすぎたのが、ここにきて大きな誤算だったと気が付いた。この足では、ヴァージンがライバルを引き離していく圧倒的なスパートは乏しいものになってしまう。
(30分以内……っ!)
ヴァージンは、やや辛くなっている右足をそれでも懸命に前に突き出し、ペースを保とうとする。だが、上半身は前に出ても、ストライドを大きくすることができない。そして、そのうち上半身も前のめりになりかけてしまい、ヴァージンのランニングフォームは本人も信じられないほど崩れてしまった。ラップタイムも、80秒、85秒と落ち、自慢のスパートは気力だけで終わってしまった。
結果は32分24秒18。前半よりも後半の方が遅くなったことを知り、ヴァージンはガックリと首を垂れた。
「これじゃいかん!5000mプラスクールダウンじゃないか」
会議室に入り、プロジェクターにヴァージンのランニングフォームが映った瞬間、マゼラウスはやや声を大にして言った。
「それは自覚しています……。序盤、飛ばしすぎました……」
「ヴァージンも、分かっているようだな」
マゼラウスがプロジェクターに指し棒を当て、何度か叩き付ける。
「この走り方だと、やはり5000mのストライドだと思う。世界のトップレベルの選手は、もっと楽に走っている。こんな感じでな」
10000mで世界トップレベルとされるアスリートたちのランニングフォームを見て、ヴァージンは大きくうなずいた。この中には、5000mの決勝でも見かけるライバルたちの姿も映っていた。
「とりあえず、課題は分かった。……オリンピックに向け、ヴァージンに練習を叩き込んでおこう」
「オリンピックは、2種目、ということですね」
「まぁ、選考とかもあるがな。私は、2種目で金メダルを取ってほしいと考えている」
「分かりました。取れるように、私も頑張ります」
「さすがだ……」
ヴァージンは、マゼラウスに手を差し出して、久しぶりにその温かい手を握りしめた。
しかし、その希望や期待すら、長くは続かなかった。