第13話 絶望へと続く故郷(5)
「これは……」
あの時、ヴァージンが見たものよりもはるかに荒れ果てた大地が、そこにはあった。総合公園のグラウンドがあったと思われる場所は、もはやどこがトラックであるか全く確認することができないほど、丈の長い草に覆われていた。立ち入りを制限しているはずの鉄格子も完全に錆びついており、それすらもところどころ草に覆われていた。そもそもどこからグラウンドとしての施設が始まるのかさえ、もう何年もトラック上での勝負の世界にいるヴァージンですら分からなかった。
「うそでしょ……」
クールダウンをすることすら忘れ、ヴァージンはその場でガックリと首を垂れた。否応なしに出てくる荒い呼吸と、深いため息が、ヴァージンのトレーニングシューズに霧のように降りかかる。
ヴァージンは、一度首を上げて、もう一度草の生えた大地を見た。やはり、目の前に広がっていた無残な光景は変わっていなかった。
ヴァージンの背後を、まばらに通り過ぎていく人の表情とは裏腹に、ヴァージンは孤独すら感じた。この場所に集ってもおかしくないはずのライバルは、その集う目的すら失ってしまっている。自分がアメジスタを離れていた間に誰かが整備していれば、この場所もまだ使えたかもしれないが、これだけ草が生えてしまった今、もうどうしようもなかった。
その時、ヴァージンの耳元で、聞き慣れた声がかすかに響き渡った。
――でも、この場所を整備するお金すら、今のアメジスタにはないんだ。
(アルデモードさん……?)
あの時、世界一貧しい国の真実を何一つ知らなかったヴァージンに、突き刺さるような声で言った一人の青年。あのアルデモードすら、この光景には絶望を感じざるを得なかった。
そして今、世界一の実力を持ったアメジスタ人が、どうすることもできない場所で静かに立ち竦んでいた。
不意に、冷たい風がヴァージンの頬をなでた。
「何とかしなきゃ……」
この場所が、本来母国に戻った時にトレーニングをする最適の場所だったはずだ。往復2kmの一般的な道とか、一周10kmのトレイルランニングという、ヴァージンにすら正確な距離が分からない場所でトレーニングをするのではなく、世界中どこにでもある1周がちゃんと400mあるトラックでトレーニングがしたかった。
ヴァージンは、次の瞬間には錆びた鉄格子に手を掛け、力づくで乗り越えていた。勿論、管理者や警察が来れば一大事になるところではあるが、それでもヴァージンの決意はあまりにも固かった。
(この場所を元に戻したい……!)
何十年も前、もしかするとまだアメジスタの国民がアスリートたちに期待を寄せていたかもしれない時代。その頃にこの場所を戻すこと。この光景を見たヴァージンには容易かったと思ったのだろう。もともとは土のグラウンドだった場所に何十年もかけて根深く生えたその草を、手で引き抜くということがどれだけ大変か、ヴァージンは知らなかった。
(取り戻す……!)
ヴァージンは、最初の草を勢いよく引き抜いた。ヴァージンの実家の庭に生えている雑草の何十倍も、根が伸びてしまっている。根からこぼれ落ちてきた土ぼこりが、容赦なくヴァージンのトレーニングシューズの上に落ちていく。スポンサー契約をした自らが、自らの「居場所」のためにシューズを汚している。
5本ぐらい草を引き抜いたところで、ようやくヴァージンが中腰になれるスペースを手に入れた。ここにきて、これをトラック1周ぶん全ての整備をすることの無謀さに、ヴァージンは気が付いた。
(まだ、トラックの外側まで10mぐらいあるじゃない……)
ヴァージンは、軽く首を横に振った。草を引き抜けば引き抜くほどヴァージンが人目についてしまうため、できるだけ短い時間で終わらせなければならない。ヴァージンは、これまでよりも草を抜くペースを上げ、時には左右交互に草を取り除いていくこともあった。
だが、ついにヴァージンは呼び止められてしまった。
「君っ!」
(ヤバい……)
声の太い男性の声が聞こえるとともに、ヴァージンは慌てて後ろを振り返った。両手に長すぎる草を持ち上げており、呼び止めたその男性にはっきりと自分のしていることを見せていた。振り向く前に草を隠そうとしたが、時既に遅し、だったのだ。
「何をしているのかね、君は」
「……草を、取ってました」
アメジスタの国旗が刻まれている制服が、ヴァージンの目に飛び込んだ。警察だ。これまで、どんなに成績が悪かろうが公道を全力で走ろうが、お咎めひとつなかったヴァージンは、その場で凍りついた。
(19歳にして、初めて警察に捕まってしまう……)
ヴァージンは、ゆっくりと鉄格子に近づいてくる警察の姿を見つめながら、自分のしてきたことをもう一度悟った。
(でも、自分のしていることは、決して誰かに迷惑をかけているようなことじゃない!)
不意に、ヴァージンは大きくうなずいた。そして、中腰の姿勢を起こし、トラックに立つときのようにしっかりと大地を踏みしめた。
「何のために、草を取ったんだね、君は」
「この場所を、きれいにするためです。公園なのに、ここがあまりにも汚れていたものですから……」
「そうか……」
一応は納得してくれた様子だ。だが、警察官はすぐに腕を組み始め、首を軽く横に振った。
「だが、この場所は二度と再利用できない、荒れ果てた土地だ。草を抜いて、何をするつもりだね」
「国際標準……、いえ、ちゃんとした陸上競技用トラックに戻すんです」
「言ってる意味が分からないな。とりあえず、この鉄格子から出ろ」
「分かりました」
ヴァージンは、言われるがままに鉄格子に手をかけ、先程と同じように力づくで乗り越えた。乗り越えると、いよいよ警察官がヴァージンの手の届く範囲にまで迫ってくる。
「で、陸上競技用トラックにするんだってか」
「はい。この場所は、聞いたところによると、何十年も前はちゃんとしたトラックになっていたそうで……、いま私が草を取り除けば、もしかしたら元に戻せると思ったんです」
ヴァージンは、懸命に説明した。だが、警察官はそれでも納得した表情を見せない。
「あのな……、公園はな、みんなのためのものだ。みんなが必要ないと思ったものは、公園として整備する必要なんてないのだよ」
(整備する……、必要がない……)
ヴァージンは、警察官の言葉を聞きながら息を呑み込んだ。たしかに、この近辺でアメジスタの国民がランニングしたりすることは、ほとんどない。それはヴァージンもはっきりと分かっていた。当然、ヴァージンだけにとっては、その場所は絶対に必要な施設だが、それを警察官に話したところで、話は先に進まない。
「私は思うんです。本当にそれでいいんですか」
ヴァージンは、感情を抑えたように語り始めた。いま声を大きく出そうとすれば、それだけで自らの身が危なくなる可能性もあった。
「場所が用意されることによって、一人、また一人と、この場所で走ってみたいと思う人が増えると思うんです」
「増えるわけがない。みんな、生きることで精いっぱいなんだ」
「それでも……。私のように……、勝負したいと思っている人たちにとっては……」
顔を警察官に向けながら、ヴァージンはウェアについていた土ぼこりを軽く振り払った。だが、その続きを口にしようとしていたとき、警察官はヴァージンに向けてきっぱりと言った。
「もういい。君のやったことは、お咎めなしにしよう。だが、これ以上はやめとけ」
「これ以上……」
「君が一人、そんなことを言ったところで、アメジスタは変えられない!もっと、豊かにならないといけないんだよ、この国は……」
「そうですか……。分かりました……」
警察官が、そう言ってヴァージンに背を向ける。ヴァージンは、肩を落としたように見える警察官を、二つの目でじっくりと見つめた。
その時、ヴァージンの脳裏にジョージの励ましの言葉が思い浮かんだ。
――アメジスタを動かすんだよ。ヴァージンの、その走りは。
「動かす……」
これまで勝負の世界に立つ際、ヴァージンが何度も心に留めてきた「母国」アメジスタの存在。その現実を見せつけられたとき、それがあまりにも中途半端なものだったようにさえ思えた。少なくとも、最初にこの場所を見たときは、ヴァージンは何も知らずにこう言っていたのだった。
――こんなんじゃ、アメジスタでアスリートになろうって、誰一人思わなくなります。
しかし、自らの足が世界と十分戦えることだけは数年かけて証明された今、その足で何をすべきか、ゴールがはっきりと分かってきたような気がした。アメジスタの未来、そして希望のために。
その後、アメジスタ滞在中にヴァージンが総合公園に向かうことはなかった。しかし、オメガに戻る飛行機から、形すらも分からないトラックが飛び込んできたとき、ヴァージンは誓った。
いつか、この場所をアメジスタの希望のシンボルにしたい、と。
だが、ヴァージンにとっての絶望は、あの絶望的な光景で終わりではなかったのだ。