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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
初めてだったはずのオリンピック
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第13話 絶望へと続く故郷(4)

 ヴァージンがアメジスタに戻って、二日目の朝が来た。トレーニング設備が整っていたセントリック・アカデミーと違い、アメジスタには大したものはなかった。中等学校に行けば、かつて部活で使っていたトレーニング器具などはあるかもしれないが、今や世界のトップスターとなったヴァージンにとっては、年齢的な問題以上に中等学校でトレーニングということを考えることができなかった。

 だからといって、トレーニングを怠ることもしたくない。朝起きると、ヴァージンは布団を片付けて、すぐにオメガから持ってきたトレーニングウェアに身を包んだ。そして、彼女の部屋の中で、器具を使わなくてもできるストレッチを始めた。

 父ジョージも姉フローラも起きていないかもしれない時間帯なので、激しい動きは避けたが、それでも少しずつではあるがアカデミーにいるときの感覚を取り戻すことができた。

「さて……」

 ある程度ストレッチを終えると、今度は部屋から廊下に飛び出し、そのまま玄関へと進んだ。だが、その時ヴァージンの背後から眠たそうな男性の声が響いた。

「お、ヴァージン。どこに行くんだ?」

「父さん……。今から軽く走るところ」

 ヴァージンが顔を振り向くと、そこには目をこすりながら若干うつむいた様子のジョージの姿があった。ヴァージンが言い終えると、ジョージは驚いたような表情を見せた。

「ちょ……っ!まだ、朝ごはん食べてないだろ!」

「軽く走ってくるの。そう本気で走るわけじゃないし、そこの農道まで出て、折り返すの」

「そうか……。って、それで往復2kmじゃないか!」

 ジョージの息を呑み込む音が、ヴァージンの耳にかすかに響いてくる。だが、ヴァージンは軽く笑いながら、ジョージにこう返した。

「私は、5000m専門。2kmぐらい大したことないし、アカデミーでもたまに朝から走ったりしてる」

「そうか……。やっぱり、プロになると、練習量が違ってくるんだな。まぁ、迷わずに行ってくるんだ」

「分かった」

 そう言うと、ヴァージンはスポンサーであるイクリプスのシューズを力強く玄関に叩き付け、大きく息を吸い込むと、ゆったりと走り出した。


 自宅から農道までを往復するコース。それ自体、中等学校4年生になったヴァージンが、ジョージに日曜日のトレイルランニングに釘を刺されてから走り出したコースだった。2km程度であれば、ジョージがトイレの便座に座った隙を狙って外に飛び出しても間に合うと分かっていたのだった。勿論、1ヵ月もしないうちにバレて、ジョージにもそのコースがどういうものか知るところとなったが、その後もトレイルランニングに代わってヴァージンが走るコースになったことは言うまでもない。

 中等学校に通っていた当時、ヴァージンが本気で走って6分30秒ほどかかっていたコース。それを、今のヴァージンは若干ゆったりと走って6分30秒程度で戻ってきた。その朝「ただいま」と帰ってきたヴァージンを見て、ジョージが腰を抜かしかけたのは、言うまでもなかった。


「グリンシュタインの街の様子って、とくに変わったことはない?」

 朝食が済むと、ヴァージンはジョージの入れてくれた紅茶を片手に、ジョージとフローラにこう尋ねた。ジョージは、ヴァージンの言葉が終わるや否や、軽く手を振った。

「グリンシュタインは、最近あまり行ってないから、分からないな……」

「父さん、あまり行ってないんだ」

「もう、文筆の仕事も減っちゃってさ……、子供たちの稼ぎだけでなんとかやってるし、何よりヴァージンがものすごく稼いでるものな」

 その言葉に、思わず苦笑するのが二人の娘であった。そして、苦笑が絶えない空気の中、ジョージは先程の質問をフローラに振った。

「そうですね……。私もほぼ病院の中で生活しているので、外の様子はあまり分からないですが……」

「お姉ちゃんも、分かんないんだ……」

 ヴァージンは、フローラに見えないように軽いため息をついた。すると、そのため息を跳ね返すようにフローラがゆっくりと口を開いた。

「でも、昔に比べると住む場所のない人がかなり増えたような気がします。きっと、家賃を支払うことができなくなったりとかだと思いますが……、昔に比べるとアメジスタはもっと貧しくなっているような気がするのです」

「私のいるオメガとは比べ物にならないし……」

 そこまで話し出したヴァージンは、突然唇を閉ざした。脳裏にある場所が思いついた。

「あの場所とか、再び開発されましたか?」

「あの場所……?」

 ヴァージンは、ジョージがそう答えた瞬間に思わず口を塞ぎ、首を横に振った。その場所というのが、5年近く前の、ヴァージンとアルデモードだけが知る場所であり、家族に誰も言ってなかったのだ。

「父さん。アメジスタにも、昔立派な競技場があったの」

「あったかも知れないが、ヴァージンも行ってないってことは、もうないだろ」

「あることはあるけど……」

 そこまで言って、ヴァージンは軽く唸った。そして、少しの間考えるしぐさを見せて、ジョージに言った。

「私が5年前、グリンシュタインに行ったときには、既に荒れ果てて立ち入り禁止になってた……」

「ヴァージン……、それってまさか……」

「お姉ちゃん……」

 突然割り込んできたフローラに、ヴァージンは思わず首を横に向けた。すると、フローラが何かを思い出しているかのような表情でヴァージンに尋ねた。

「そこ、総合公園にある陸上用のトラックのような気がします」

「うん、その通りだけど……、お姉ちゃん知ってたんだ!」

「それは、私たちのところに訪れた患者さんがそう言ってたの。あそこは全然整備されてないって……」

「じゃあお姉ちゃん。もしかして今も全然整備されてない、ってこと」

 そのヴァージンの一言に、フローラは重苦しそうに首を縦に振った。


(やっぱり……)

 ヴァージンの抱いていた嫌な予感は、ほぼ的中してしまった。


 その後も、オメガでの生活などについてジョージやフローラの気にしていることをヴァージンは次々と話したが、自分の話したことすら頭に残らないほど、ヴァージンの脳裏はあの日見た光景で埋め尽くされていた。やがて、ジョージとフローラが次々と席を立つと、ヴァージンも待ってましたとばかり立った。

「父さん、自転車借りていい?」

「いいけど、ヴァージン。どこまで行くんだ?」

「グリンシュタインのはずれの方」

 分かった、という言葉が聞こえかけた瞬間には、ヴァージンは自転車のペダルに足を乗せていた。


(聖堂から、この方向に走り出したはず……)

 ヴァージンはいったん聖堂まで自転車を進めて、そこでUターンした。5年前、アルデモードと初めて勝負したあのコースの道筋をその目で追ってみた。だが、ある程度その道順を思い出した次の瞬間には、ヴァージンは自転車を聖堂前の広場に置いた。そして、トレーニングウェアを着たままのヴァージンは、その足でグリンシュタインの石畳の街並みを踏みしめた。

(たしか、この場所から5000mだったはず……)

 あの時、アルデモードに圧倒的な差をつけられて敗れた。オメガで自分の道を見つけた彼は隣にいないけれど、今や女子5000mで世界最速を誇るその足を持つ身として、再びこのコースで自分自身と勝負したくなった。

(よし……)

 普段レースやトレーニングで走っているコースとは全く違うことは分かっていた。トラック12周半ではないし、ヴァージンの「勝負」とは全く無関係の人物もたくさん歩いている中で、その中で走る。だが、かつてそれをやったことのあるヴァージンは、それでも走り出した。ストップウォッチを押し、それをポケットに入れると、ヴァージン・グランフィールドの体は、いちアメジスタ人からトップアスリートへと変わった。

(早く……、今の姿を見たい……っ!)

 道を左に大きく曲がると、そこから総合公園まで一本道のはずだ。ヴァージンは行きかう人をよけながらペースを少しずつ上げて総合公園への道を突き進む。そして、体感的にあと3000m程度のところまできたところで人通りが途絶えると、いよいよヴァージンはラップタイム70秒程度までスピードを上げた。

(あそこだ!)

 遠くからでも分かるような、多くの木々が出迎える総合公園。その姿をヴァージンが捉えると、ヴァージンはトップスピードまで加速した。トラックに換算すると、残り3周程度。そこからこのスピードで走り続けることは、今のヴァージンには全く苦ではなかった。

 そして、ヴァージンの体は勢いよく総合公園の入り口に滑り込んだ。

(着いた……)

 ヴァージンは、ポケットからストップウォッチを取り出し、ストップのボタンに指を引っかけた。だが、その時ヴァージンの目に飛び込んできたものに、ヴァージンの指の動きは止まってしまった。

 もはや何分何秒で走り切ったか分からないほど、ストップウォッチの時計は空しく時を刻んでいた。

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