第13話 絶望へと続く故郷(3)
ヴァージンの記事を持つ手がかすかに震える。だが、目の前でジョージとフローラがこちらを見ている前で、これ以上空白の時間を作るわけにはいかなかった。
大きく息を吸い込んだヴァージンは、少しゆっくり記事を読んだ。
「ヴァージン、ちゃんとオメガで新聞記事になってるじゃないか」
「うん……。でも、なんかこれを読んで、嬉しくない……」
ジョージの言葉に、ヴァージンは首を横に振る。溜めこんでいた涙を、ぐっとこらえようとした。
「だって、これじゃ私がオメガから世界記録を奪ったようにしか書かれていない……」
「奪った……、って、ヴァージンが自分の実力で掴んだんじゃないのか」
「そう。だけど……、これじゃ私が……、アメジスタが……、悪人に思えて仕方ない……」
「ヴァージン、そんなわけじゃないだろ」
ジョージの手が、なだめるようにヴァージンに伸びていくが、それでもヴァージンは首を横に振る。
「こんなのおかしい。私が頑張っても、この記事は私を少しも認めようとしない……」
そして、ヴァージンの目からこらえきれなくなった涙が、ついに流れ落ちた。
「露骨には言ってないかもしれないけど、アメジスタに対する侮辱としか思えない!」
「ヴァージンの言う通りですよ。父さん」
「フローラ」
新聞記事を渡されたその瞬間から抑え切れなくなっていたヴァージンを、今の今まで黙って見ていたフローラが、ヴァージンに向かってうなずいていた。
「お姉ちゃん……」
「人間に、不平等なんてあっちゃいけません。ヴァージンのように、立派な結果を残した人に対して、こんな貶すような書き方をするのは、間違いじゃないかと思うんです」
「それは、一理あるな……」
フローラの一言に、ジョージがかすかに唸っている。腕を組み、天井を少しの間見つめながら、ジョージが考えているようだ。そんな父親を助けるかのように、フローラが言葉を続けた。
「私だって、危機にさらされている命を、この手で救っています。病院に訪れる人は、誰もが平等です。それと一緒だと、私は思うのです」
ヴァージンは、フローラの懸命な説得をその耳で聞いていた。そして、フローラが一度うなずいて言葉を止めたその時、ヴァージンは口を開いた。
「お姉ちゃん、ありがとう。なんか、今の言葉を聞いて、私の考えてることが間違いじゃなかったんだなって」
ヴァージンは、大きくうなずいた。もう、目には涙が残っていなかった。その言葉を聞いて、ジョージもヴァージンに向かって微笑んでいた。
「ヴァージン……。やっぱり、こっちの記事の方がおかしいよ」
「父さんも……。ありがとう……」
そして、再びヴァージンは大きく息を吸い込んだ。二人の目が、ヴァージンを見つめる。
「私の……、アメジスタの挑戦は、まだ終わったわけじゃない!」
「オリンピックに出るのね?やっぱりすごいです」
家族3人の楽しい食事が終わりを告げる頃、ヴァージンは翌年のレースのことを聞かれて、思わずその言葉を口にした。アスリートとしてのヴァージンの活動に、あまり口を挟んでこなかったフローラが、珍しくこの話題に先に食らいついてきたので、ヴァージンは面食らった。
「代理人のガルディエールさんも、今の成績なら間違いなく出られるとか言ってたし」
「それを言われるだけでも、ヴァージンの実力がすごいってことですよ。だって、4年に一度、あらゆるスポーツの中で最高峰の大会がオリンピックって言われていますし……」
「それくらい知ってる。見たことないけど、私、ワクワクして仕方ない」
ヴァージンは、先程までの涙とは打って変わって、ここで大いに笑おうとした。だが、その時ジョージが腕を組んでヴァージンを見つめていることに気が付き、ヴァージンは思わず息を呑み込んだ。
「そんな簡単に、オリンピックに行けるもんなのかなぁ……」
「父さん。私、オリンピックに向けて今から本気なのに」
ヴァージンのこの年唯一の心残りが、掴みかけていた世界競技会の金メダルへの道を、最後の最後で閉ざされてしまったことだった。だからこそ、オリンピックで何としても勝利したいのだった。
オメガを離れる前の最後の練習で、ヴァージンはマゼラウスにこう語った。
「世界記録を持っているのに、金メダルを取れなかったのが、本当に悔しい!」
「そうか……。なら、アメジスタの代表としてオリンピックに出て、その悔しさを吹き飛ばす走りを見せなさい」
「はい。分かりました」
しかし、そんなワクワク感を吹き消そうとするかのように、ジョージの重い口が開いた。
「アメジスタの代表になるのは、今のままだと、ほぼ不可能じゃないのか?」
「……父さん!私……、世界でこんなに活躍しているのに?」
「ヴァージンの言う通りですよ」
ジョージの一言に、ヴァージンはフローラと思わず顔を見合わせた。しかし、そんな冗談交じりの返事とは裏腹に、ジョージの話すトーンがさらに低くなった。
「アメジスタには、オリンピック委員会がなかった気がするんだが……」
「オリンピック……委員会……?」
ヴァージンは、ジョージに向かって顔を乗り出しながら、言葉を途切れ途切れにして言った。
「知らなかったのか、ヴァージン」
「知らないです……。てっきり、あるものだと思っていたので……」
「それが、ないんだよ。ヴァージンより前に立派なアスリートが育たなかったこの国に、オリンピックに出るという……動きすらなかったんだ」
ヴァージンが、体育以外の学業で平均点以下だから知らないというわけではない。オリンピック委員会の存在そのものについて、普通は学校で習うことなどなく、しかもいざオリンピックに出られそうな実力をつけたときでさえも、自国にオリンピック委員会があって当然、出られる道が決められていて当然としか、選手は思わないのだ。
そして、当のヴァージンはおろか、コーチのマゼラウスや代理人のガルディエールですらアメジスタ特有の事情を知らなかったのだ。
「父さんが知らないだけとか、そういう話じゃないの?」
「そう言われると思った」
ジョージが、やや肩を落としてそう言う姿が、ヴァージンの目に飛び込んだ。見るからに、ヴァージンに対して悪い知らせしか持っていないように、ヴァージンには思えた。
「調べたんだ。ヴァージンがオメガで一生懸命やってると聞いてね」
「本当に調べたんだ……」
「勿論だよ。かわいい娘が、オリンピックに出られるって思うと、どうやって出るのか気になったんだ」
オリンピック出場などと言う、希望すら垣間見れる言葉の数々。本来であれば得意げに話すようなこの言葉を口にしても、ジョージの表情は晴れるような気配がない。
「父さん。それで、結果はどうだったんですか」
ジョージは、首を力なく横に振った。それは、オリンピックを目指そうとするヴァージンにとって、あまりにも非情だった。
「さっきも言ったように、アメジスタには国内のオリンピック委員会がない。大会に出るためには、オリンピック委員会の推薦が必要だとあった。つまり……、あの組織がなければ、アメジスタはオリンピックに出ることができないんだ」
(うそ……)
ヴァージンは、机に手を叩き付けようとしたが、それすらできなかった。何度か歯を食いしばろうとしても、歯に力が入らない。
再びの涙が、ヴァージンの額を流れ落ちていく。そして、息を吐き出すように、ヴァージンは尋ねた。
「出られる道は……ないの?ねぇ、父さん!」
「ヴァージン……。分かった分かった。そんな、急にカッとなるな」
なだめようとするジョージの手に、力はなかった。その手が、あたかもその答えを持っていないかのように。
「父さん……っ!」
「それ以上のことは分からない。あとは、コーチとか、代理人とか……オメガに戻ったときに聞いてみるといい」
「……分かった」
ヴァージンは、ついにガックリと首を垂れた。2週間ほど滞在しようと思っていたが、今すぐにでもオメガに戻ろうとさえ、わずかながら思いが込み上げてきた。
もっとも、通信手段も往来手段も著しく限定される、「世界一貧しい国」では不可能な話だった。
(手段は……、まだあるはず……。これで終わりたくない……)
ようやく、ヴァージンは自分の歯を力いっぱい食いしばることができた。それを見たジョージが、いつの間にか落ち着いた表情に戻って、ヴァージンに語りかけた。
「力になれず、悪いことしたな……。でも、本当はヴァージンがオリンピックに出るところ、見てみたいんだよ」
「本当?」
「本当だ。ヴァージンも悔しいと思うけど、娘を勝負の世界に送り出した身としても、それが悔しいものだよ」
ジョージは、ここで優しく笑ってみせた。
「アメジスタを動かすんだよ。ヴァージンの、その走りは」
「はいっ!」
ジョージの力強い一声に押されるように、ヴァージンもようやく正面のジョージにほほ笑むことができた。これから先の険しい道を、その足で乗り越えていくことを誓って。