第13話 絶望へと続く故郷(2)
タクシーを自宅の前で降り、運転士に20リアを渡したヴァージンは、見えてきた自分の家を見て、軽く息をついた。そして、タクシーがゆっくりとUターンすると、タクシーの向こう側に父親ジョージの姿があった。
「おかえり、ヴァージン」
「ただいま……。お父……さんっ!」
小さめのキャリーを放り出し、ヴァージンはジョージの胸の中に勢いよく飛び込んだ。何年も、会うことはおろか、電話をすることすらできなかった、ヴァージンの唯一の親の手は、あまりにも温かかった。
「私、本当に夢を叶えた……」
「そうかそうか……。手紙で十分伝わってるが、ヴァージンの姿を見たら、それが本当のように思えてしょうがないよ……」
「本当……ですか……」
「あぁ、勿論だ。それに、な……」
胸の中に飛び込んだヴァージンに、ジョージが優しく背中を叩いてくれた。そして、ほどなくしてヴァージンの耳に優しい言葉が飛び込んできた。
「ヴァージンには、すごく悪いことをしたな、って思った……」
「えっ……」
「アスリートになるな、って何度も言った。夢を捨てろ、って……。けれど、もし言ってた通りに夢を諦めていたら、いまヴァージンが世界でこうやって戦ってることなんて、なかったからな……」
ヴァージンの脳裏に、かつての記憶がいろいろと甦ってきた。部屋にあった「ワールド・ウィメンズ・アスリート」を破かれたこと、日曜日にトレイルランニングに出かけようとすると鍵を掛けられていたこと、勉強しろ本を読めなどと口酸っぱく言われたこと……。
(そんなことをされても、私は夢を捨てなかった……)
それらの記憶こそ、いまのヴァージンがたどってきた通り道であるとさえ、思えるようになっていた。
ジョージは、さらに言葉を続けた。
「だから、もうヴァージンに夢を諦めろとは言わない。そんな夢のないことを言うのは、もうやめようと思うんだ」
「父さん……」
「それでヴァージンが、すごく輝くのだから」
そこまで言うと、今度はジョージの方からヴァージンの胸に飛び込んできた。ヴァージンは、すっかり軽くなった父の体を抱き、一言だけこう言った。
「ありがとう。本当に……」
ヴァージンがかつて勉強そっちのけで雑誌を読んでいた彼女の部屋は、オメガ国のセントリック・アカデミーに行ったときそのままの状態に保存されていた。何年も主のないこの部屋を、ヴァージンの帰国に合わせて、ジョージが前日のうちにピカピカに掃除していたことは、入ってすぐに分かった。
壁には、相変わらずクリスティナ・メドゥのポスターが貼られていた。彼女が世界で戦いたいという気持ちを抱いた、憧れとも言えるトップアスリートのはずだった。しかし、今やこの憧れだったアスリートですら、背中を見せて走るのがヴァージンに他ならなかった。
(そう言えば、私のポスターって、まだどこにも飾ってなかった……)
雑誌で紹介されたヴァージンの画像があまりにも無様なものだったこともあるが、それ以上に日々のトレーニングに集中していたせいで、ヴァージンは自分のポスターをチェックすることすら忘れていた。
5月のネルスでの大会で世界記録を更新して、おそらくその次の月には「ワールド・ウィメンズ・アスリート」にポスターが載っているはずだった。取材も受けている以上、間違いない。大型の計測器の真横で、「WR」の文字と一緒に映りこんでいる自分の喜んでいる姿だったり、その直前のスパートを見せる自分の姿だったり……。
しかし、それ以降「ワールド・ウィメンズ・アスリート」を買うことはできなかった。そのまま、年の暮れを迎えてしまったのだ。
(バックナンバーがあったら、オメガに帰ってから取り寄せてもらうか……)
そう心の中で思いながら、ヴァージンは自分の部屋にあるメドゥのポスターをゆっくりと外し始めた。ここに自分自身の一番輝かしいものを貼るために、この段階で空けておいたのだ。
「あれ?」
その時、ヴァージンの真後ろから聞き慣れた声が響き渡った。ジョージが、こちらを見ている。
「ライバルのポスターを外してるのか……?」
「勿論です。もう、メドゥさんを追い抜いてしまいましたから」
「そうか……。私も、ヴァージンのポスターが見たいって、ずっと思ってた」
ジョージは、感心したような声で、ヴァージンの方を見ていた。笑顔さえ見せていた。
「私も、いまちょうどそう思ってたところ」
「そうか……」
そう言うと、ジョージは一度うなずいた。そして、数秒の間を置いて、再び口を開いた。
「今日、フローラもこっちに帰ってくるそうだぞ」
「お姉ちゃんが……!」
グリンシュタイン中心部の総合病院に勤める、ヴァージンの5歳年上の姉フローラ・グランフィールド。ヴァージンが11歳の時に病院での就職を決めてから、病院の隣の集合住宅で生活しているせいで、ほとんど家に帰っていない。貧困者の割合があまりにも高いアメジスタでは、病気にかかる率も高くなっており、朝になれば病院に診察を待つ人で長蛇の列ができてしまうほどだ。
「お姉ちゃん……、仕事、大丈夫なの?」
「ヴァージンも、忙しいスケジュールの中、こうやって帰ってきたんだろう」
「うん……」
「そんな忙しいヴァージンが、こうやって家に帰ってきたんだから、こういう時ぐらい姿を見たいとフローラが院長に言ったら、二つ返事で許しが出た」
「ということは、本当に帰ってくるんだ!」
ヴァージンがポンと手を叩き、少しの間天井を見上げた。ヴァージンの部屋の天井はどこか汚れていたが、フローラの部屋に入ったとき、同じ屋根の下であるにも関わらずその天井は汚れひとつなかったことを覚えていた。
ヴァージンが部屋で実家に持ってきた荷物を整理し終えたちょうどその時、玄関のスライドドアがガラガラと開いた。ほとんど出入りがない家のため、ドアの動く音がすると、ヴァージンが反射神経的に首をドアの方に回してしまうのは、実家を2年半離れていても変わらなかった。
しかし、ヴァージンはその目の先に見えた人物を見て思わず立ち上がった。
「お姉ちゃん!」
アメジスタでは珍しい真っ白なローブに包まれたフローラが、ヴァージンの目に飛び込んだ。ヴァージンが生まれて間もない頃、倉庫を掃除していたフローラが眠っていた白いローブを見つけ、以来フローラが外を歩くときに常にこのローブをつけている。
風に揺れるローブに吸い込まれるように、ヴァージンはフローラに駆けていった。ちょうどトップでゴールテープを割るかのように。
「フローラ!すごく久しぶりじゃない!」
「うん……。すごくすごく会いたかった……。私がジュニア大会に行くって決めてから、一度も会えてなかったもんね……」
「じゃあ、今日はお父さんの前で、私たちがこの2年半何をしてきたか話しましょう」
「うん」
「二人ともここに揃うの、すごく久しぶりだなぁ……!」
フローラが部屋で荷物を整理し終えると、父親ジョージが大きな声を上げて二人の娘を食卓に呼んだ。食卓には、ヴァージンがアメジスタを出る前に好物だった仔牛のスープがボウルいっぱいに注がれていた。ヴァージンはオメガ国での生活でおいしい料理をたくさん食べるようになっていたが、父ジョージの作ったスープを見るだけで、そのおいしい味覚が舌の中で動いているように思えた。
「父さん、ありがとうございます」
ヴァージンは、そう言うとスプーンに手を伸ばした。だが、それを遮るかのように、ヴァージンの手にジョージの右手が重なった。
「食べる前に、ちょっとこれを渡したくてな……」
「これ……、何ですか……?」
ヴァージンは、ジョージの目を不思議そうに見つめる。すると、ジョージが何度か首を縦に振って、右手に掴んでいた、二つ折りの紙切れを渡した。
「オメガ国で出ている新聞記事だよ」
「オメガ国の新聞……。輸入したんだ」
「そうだ。オメガ語の分かるヴァージンが、これをアメジスタ語に訳して読み上げて欲しいんだ。きっと、ヴァージンもみんな喜ぶだろう。それくらい、素晴らしいものだ」
「そうなの……」
そう言って、ヴァージンは新聞記事をそっと開いた。おそらく、「ワールド・ウィメンズ・アスリート」の置いてあるような首都の書店で手にしたものだろう。
ヴァージンは、一度息をついて記事を目にした。その瞬間、ヴァージンはわずかの間言葉を失った。
女子5000mの世界記録 奪われる
5月11日、ネルス陸上競技場で行われた陸上選手権、女子5000mで、
クリスティナ・メドゥの持つ世界記録がヴァージン・グランフィールド(アメジスタ)に破られ、
50年間オメガ人の持ち続けた同種目の世界記録がオメガから途絶えることとなった。
「そんな……」
読み上げようとするヴァージンの目に、大粒の涙がたまった。