第13話 絶望へと続く故郷(1)
グリンシュタイン国際空港に、1機の中型飛行機が軽い音を立てて着陸した。
世界で最も貧しいと呼ばれる国、アメジスタで、唯一の国外への公共交通機関が、このグリンシュタイン国際空港に発着する週1便のオメガ=セントラル便だ。飛行機に乗れるほど豊かではないアメジスタにやってきて、また出ていこうとする人間は、たいていは国外の政治的な要人、あるいはアメジスタの貧困度を調べに来る研究者たちばかり。アメジスタ人が、週1便の余所行きの飛行機に乗ることなど、ほとんどないのである。
だが、年の瀬も近いこの日、飛行機から一人のアメジスタ人がゆっくりと降り立った。
ヴァージン・グランフィールド。
今や、世界ではかなりの知名度を持つ、先日19歳になったばかりの女性。世界一貧しい国から、その足で頂点へと上り詰めたアスリートの姿が、地上へと伸びるタラップに現れた。
スタジアムを流れる風を吸い込むように、ヴァージンは大きく口を開き、感じ慣れたアメジスタの温もりを体じゅうに浴びた。
「ここが、アメジスタ……。私の故郷……」
10kmほど先に見えるグリンシュタインの街並みと、それを押しのけてしまうほどのどかな田園風景。これまで大会でいくつもの国を訪れたヴァージンも、飛行機を降りてここまでのどかな景色を目にしたのは、やはりこの国だけしかなかった。
(懐かしいなぁ……)
2年半ぶりに戻ってきたヴァージンは、故郷にいる感覚をすぐに取り戻すことができた。整備の手が行き届いていない国際空港の到着ロビー、商品が入っておらず、コインの投入口が壊れたままの自動販売機。何か所も消えたままの蛍光灯。
彼女が何年も拠点にしてきた、超先進国オメガでは、全くあり得ない光景だった。
(そう言えば、アメジスタはこういうところだった……)
小さめのキャリーを引っ張り、空港の出口を出る。そこにはタクシーが一台止まっていた。国内にタクシーの台数が少ないイメージはあったが、週に1度しかないこの空港の営業日、その数少ないタクシーはこの週もまた、空港で「お金を持っている人を」相手にするのであった。
(せっかくだし、乗るか……)
今回の帰国のことは、事前に父親ジョージにも手紙で知らせている。これもやはり、週1便の国際便でアメジスタに届いたもの。おそらく、4週間前には届いていると思われるが、そうかといって自転車しかないグランフィールド家から、自転車で迎えに来ることは荷物があるのでできない。
ヴァージンがアメジスタを出る前に、スーツケースを持ったまま自転車の二人乗りを試してみたが無理で、結果としてヴァージンが空港との間を1.5往復したくらいだ。さすがに、今や賞金を年何十万リアも稼ぐのに、タクシーを使わない手はなかった。
ヴァージンは、タクシーのドアをバタンと閉め、行き先を自宅と告げた。
アメジスタ国内で初めて乗るタクシー。それは、オメガやほかの国で乗ったそれと比べ明らかに乗り心地が悪く、何度も揺れる。おまけに排気ガスもそれほど排気性能がよいものではなく、排気ガスのにおいが直接鼻に入ってくる。その空気は、アメジスタにいる間何度か感じていたが、いざ外に出てしまうとはっきりとその臭さが分かる。
次の瞬間には、ヴァージンは鼻をつまんでいた。それを感じたのか、タクシーの運転手が停車中に顔を覗かせる。
「お嬢ちゃん、アメジスタじゃ当たり前だよ。自動車も、かなり古いやつばっかりだから」
「そうです……か」
さすがに、ここで「ね」とは、知っていても言えなかった。そればかりか、ヴァージンは力なく言葉を返していた。タクシーの運転手には、自分が何者か分かっていないようだ。
だが、その時はまだ、このタクシーの運転手が特別なのだろうとばかり思っていた。
空港と自宅とは、グリンシュタインの中心街を挟んで、ほぼ正反対にある。タクシーは、グリンシュタインの街の中に入り、古ぼけた街並みを、人の姿を裂けるようにゆっくりと走っていく。
ヴァージンの左手に、聖堂が見えてきた。相変わらず、この国で一番高い建造物だ。そして、すぐに右側を見つめた。
――世界を相手に戦いたいんです!お願いします!
(夢語りの……、広場……)
2年半前、ここで力強く叫んだヴァージンの姿が、今のヴァージンの目にうっすらと映った。2000リアとだけ書かれたプラカードを持って、あの場所で自分の夢をみんなに語った時の、まだ小さい存在の自分だ。
(もし、あの時みんながお金を出してくれなかったら、今の私は……)
ヴァージンは、その目にうっすらと映った昔の自分に吸い込まれるように、タクシーの運転士に声を掛けた。
「ちょっとすいません。ここで少し車を止めてもらっていいですか」
「構わんけど、停車中の運賃もちゃんと頂きますよ」
「分かりました」
ヴァージンは、タクシーが聖堂近くの路肩に寄せるのを確かめて、ゆっくりとドアを開けた。目の前には、広場が広がっていた。
ヴァージンは広場へと足を踏み入れる。日曜日ではないので、助け合いの場「夢語りの広場」はやっていないが、広場には神様に祈りを捧げる者、プラカードを掲げて明日の自分自身の居場所を求めている人など、あの頃と変わり映えのしない光景が、ヴァージンの目の前に広がっていた。
ただ、自分の夢を叶えてくれた人に、お礼が言いたい。目的はそれだけだった。
(私を覚えている人、いるのかな……)
おそらく、2年半もの間、一日も欠かさずここまで足を運んでいる人だっていることだろう。そうだとすれば、本当にアスリートの夢を叶え、すっかり生活が変わったヴァージン・グランフィールドを見て、その人は何と言うだろうか。
この時のヴァージンに、そういう淡い期待だけは、たしかにあったのかも知れない。
「こんにちは」
「お、こういうところでどうしたのかね、お嬢ちゃん」
あの時、渋めの表情を見せた中年男性だ。その顔をヴァージンははっきりと覚えていた。多少、シワが増えてきたように見えるが、返事から受ける印象は全くその通りだった。
もっとも、2年半の間に向こうがこちらを覚えているかは別だ。ヴァージンは、少し笑顔を見せようとした。
「夢語りの広場で、自分の夢を叫んだこの場所に、もう一度来ようと思ったんです」
「そうか……。お嬢ちゃん、この場所で夢を語ったことがあるんだな」
男性は、少し首を傾けてヴァージンにそう尋ねた。まだヴァージンが何者なのか、あまり分かっていない様子だ。そこで、ヴァージンは思い切って返した。
「もうだいぶ前ですが、私はここでアスリートになりたい……って言ったんです」
そこまで言って、ヴァージンはピタリと言葉を止めた。男性の眉が動く。どうやら、何か男性に思うことがあったのか、とヴァージンは気が付いた。
だが、数秒後にヴァージンは息を呑み込んだ。
「あぁ、そうだそうだ。アスリートになろうと夢を言って、結局散ったんだろ」
(えっ……)
息を呑み込む本人の前で、青年は貶すかのように笑った。その高い笑い声に、周りでくつろいでいた人々も、吸い込まれるように集まってきた。そして、ヴァージンに一歩、また一歩と近づいてきた。
「あ、ようやく来たか。史上最大の無謀な夢を語った……」
「アスリートなんて、無理!無理!君は、やっぱり実現しえない夢を語ったんだ」
「アメジスタの国旗は重すぎる。ほら、言った通りになった!」
「集めた2000リア、どこでどう使ったんだ?」
(嘘でしょ……!)
ヴァージンは、口を開きたくても開くタイミングすら見出すことができなかった。あの時、「君の挑戦に力を貸すよ」と、アメジスタの優しい人々が光を解き放った前の光景に、よく似ていた。
普段は、力強い走りと圧倒的なスパートで、世界中のライバルに打ち勝つ二本の足。だが、今はその足が力なく竦んでいるかのようだった。
(私が何なのか、みんな分かっていない……)
ヴァージンは、軽く首を横に振ってゆっくりと口を開いた。
「私は、散ってなんかいない。アスリートになるという自分の夢を、叶えることができたの」
「ほ、本気でそんなこと言ってるのか?」
「本気です。少なくとも、私の足を見てもらえば……」
ヴァージンはそう言うと、長ズボンの裾を捲し上げ、引き締まった右足を彼らに見せた。
「本当だ……」
「元どころか、ひょっとして現役の選手?」
「現役です。アメジスタの国を背負って、日々世界で戦ってます」
ヴァージンは、ズボンの裾を下ろすと語りかけるように男性たちに話した。さすがに、ここまで来てヴァージンがアスリートになれなかったと言い続ける者はいないようだ。
だが、次の瞬間、最初に話した男性がこう言い捨てた。
「そうは言ってもな、アスリートの中でも成功する人はほんの一握りだろ?本当に成功したんかね」
ヴァージンは、再び息を呑み込むことはしなかった。落ち着いて、自分の真の姿をこう綴った。
「成功はしてます。だって、私は世界記録持ってますから」
「え……?」
(ダメか……)
その場にいるすべての人々の表情が、ぽかんとしている。
14分15秒72――そのタイムが何を意味するか、この人々には知ったことではないように思えた。同時に、ヴァージンの中で、必死に積み上げてきた何かにヒビでも入ったかのように思えてきた。
「やっぱり、信じてもらえない……」
そう言うと、ヴァージンはくるりと向きを変え、男性たちに背を向けた。そして、アメジスタ人が滅多に乗ることのないタクシーへと、力なく歩いた。