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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
国境の壁 そして勝負以前の敗北
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第12話 アメジスタかオメガか(6)

 ファーシティ大会、女子5000mのレースは決勝1回勝負で行われる。ヴァージンはトレーニングシャツを脱ぎ、スタート15分前にはトラックの上に姿を見せていた。

 目の前で行われている男子400mのレースで、スタジアムはかなりの盛り上がりを見せている。その奥に、観客席に座っている一人の青年の姿が見えた。

(アルデモードさん……)

 曲がりなりにも、夢を一歩ずつ近づけている青年が、ヴァージンの出るときを今か今かと待っている様子だ。このスタジアムで一足先に戦う、アメジスタに夢を与える一人のアスリートの姿を。

(私は、いつものように、最高の走りを見せればいい)

 ヴァージンは、軽く息を呑み込んだ。そして、スタジアムを包み込む熱気の中に、それを勢いよく吐き出していく。トレーニングでのここ最近のタイムは、かなり好調なヴァージンが、ここで力を出し切れずに終わるわけにはいかなかった。


「では、5000m出場選手は、集合場所に」

(よし)

 スタジアムのビジョンに、薄青のトラックに移動するライバルたちの姿が映し出される。所定の整列位置に立つと、メドゥ、グラティシモとカメラが移動し、そしてヴァージン自身の目の前にカメラはあった。ヴァージンは反射的に、両手を大きく振る。

 突然、わあっと歓声が上がった。それは、2ヵ月前にこの国のスタジアムで起こってしまった事件を乗り越え、再びこの場所に戻ってきた「世界王者」を祝福するかのような、喜びに満ちた声だ。

(よし……)

 ヴァージンは、アメジスタの国旗の色に染まったレーシングトップスを2本の指で軽くつまみ、再び大きく息を吐いた。その先に見える視界は、はっきりと澄んでいた。


「On Your Marks……」

 ヴァージンは、トラックの内側から数えて3番目に立つ。最も内側にメドゥ、次がグラティシモ。この二人がどのようなレースを作っていくのかは分からない。だが、自分は自分の走りをすればいい。

(あの時、マゼラウスを相手に急いだ自分には、もうならないから……)


 そして、勝負の始まりを告げる号砲が、スタジアムに鳴り響いた。

 ヴァージンは力強い一歩をトラックに叩き付け、軽々とした足取りで集団の前のほうに躍り出る。世界競技会の時こそ見せなかったが、メドゥのスタートダッシュは素早く、グラティシモとともに、ヴァージンよりも前に出て、レースを引っ張っていく。

 そのトップ集団の中に、外側のスタート位置から走り出したシェターラも食らいついていた。

(珍しい……)

 シェターラは、怪我をしてからというもの、長い間自分の走りができていない。そのことに対して、ヴァージン自身に不満をぶつけたりもした。だが、この日のシェターラは好調だった頃の走りを取り戻している様子だ。後先考えることなく、シェターラがいま全力で走っているとは、茶髪が風に靡くその姿を後ろから見る限り、ヴァージンが感じることはできなかった。

(この勝負……、なんか面白そうな展開。私だって負けてられない!)

 次の瞬間、ヴァージンはほんのわずかストライドを大きくとり、数メートルほど離されたトップ集団の真横に並ぼうと最初の勝負に出た。

 最初の400mを通過した時には、ヴァージンはグラティシモの真横にぴったりとついた。その数歩前を、メドゥとシェターラ。この二人を抜かすには、このままではいっぺんに勝負をかけなければならない。だが、最初の1周が体感で74秒程度とややペースが速い展開になっていたため、ヴァージンはここで勝負をかけることをせずに、しばらくはそのペースについて行くことにした。

(2000mぐらいまでこのペースなら、この集団の中にいる。2000mで、少しだけスピードを上げる。そこから、自分の走りをする)


 これまで、レース序盤で先頭集団に翻弄されがちだったヴァージンの走りは、この日は珍しくその翻弄から自分自身を断ち切ろうとしていた。

 もはや迷いはなかった。


 2000mを、6分09秒ほどのタイムで走り抜ける。相変わらず、先頭集団のペースに衰え、そしてペースアップは見えてこない。ヴァージンは、ここで首を一度縦に振った。大きく軸を右に傾け、ほぼ横に並んで走っているメドゥとシェターラを、そのさらに右から一気に攻めていく。トラックの内側のラインから1m以上は出ただろうか。ヴァージンは若干遠回りと思われるルートで、懸命に二人をいっぺんに追い抜いた。

 追い抜くとき、シェターラの首が少しヴァージンを見ているのが分かったが、全く意識しない。ヴァージンは集団の前に出て、そのままのスピードでトラックの一番内側に戻った。

(これで、あとはこの集団を引き離すだけ……!)

 ラップタイムを69秒前後まで上げたヴァージンは、ほぼスピードを維持したまま3000mを通過した。そこで、ヴァージンは軽く目を左に動かした。タイムは、まだ8分台だ。


(なんか、いけそうな気がする)

 ヴァージンは、ここで自分にそう言い聞かせた。トレーニングではあまり8分台で3000mを通過することはない。本番でも”本物の”途中経過は、これまであまり意識してこなかった。ただ、この時点で8分台というのが、普段のトレーニングを踏まえるとかなり調子がいい。しかも、時計を見ることができるほど、このときのヴァージンには余裕があるのだ。

 たしかに、後ろから足音は聞こえる。それがライバルの誰の足音であるかは分からないが、ペースを上げた自分に必死に食らいつこうとしていることだけは分かる。しかし、ライバルたちのその走りも、本気のスピードを温存したままの自分にはかなわない。

 後は、自分自身との勝負。ヴァージンは、そう信じた。


 3600mを過ぎ、4000mを過ぎた。ここまで1周67秒~68秒のペースで、トラックをひた走る。だが、足音はまだヴァージンの耳にかすかに響く。徐々に遠ざかるが、勝負の時を待っているのかもしれない。

 その足音が、再び大きくなりだしたようにヴァージンには感じられた。勝負の時だ。

(引き離す!そして、自分の最高の走りだけに集中する!)

 ヴァージンは、ここで右足を力強くトラックに叩き付け、ストライドを大きく取った。徐々にトップスピードへと近づくヴァージンに、誰もついて行くことはできないことだけは分かった。体が、飛ぶように前を目指していく。

 残り400mを告げる鐘が鳴り、ヴァージンの力強い走りは最高潮に達した。全身の力を、この400m全てで吐き出すかのように、ヴァージンはとにかく前に、前にと進んでいく。呼吸が多少苦しくなってくるが、これまで何度も記録を叩きだしているヴァージンには、そこまで意識するものではなかった。

 最後の直線に入った。歓声が上がる。もはや、記録更新が間違いないかのような、温かい追い風だ。


 14分15秒72 WR


(……15秒!し、信じられない!)

 ヴァージンは、思わず何度もタイマーに目をやった。5と8を間違っていないか疑おうとした。だが、15と書かれたその数字が、改まることはなかった。勿論、WRの輝かしい文字も。

 その数字に見とれているうちに、ヴァージンは一人のアスリートの熱い腕を感じた。

「おめでとう、ヴァージン」

「……シェターラ!」

 ヴァージンから遅れること28秒、3位でゴールしたシェターラが、両手でヴァージンを抱きしめていた。14分43秒31も、彼女にとってはジュニア大会以来のベスト記録になる。だが、そんなことよりも、シェターラはむしろ目の前で初めて見たヴァージンの記録に、何度もうなずいているようだった。

「ヴァージンがこんな喜ぶの、久しぶりに見たような気がした」

「ありがとう……。私も15秒台だとは思わなかった……」

「そうなんだ……。でも、それがヴァージンの力なんだから」

「ありがとう……」

 そう言うと、ヴァージンはシェターラを力いっぱい抱きしめた。


 表彰式や取材が終わり、スタジアムが女子5000mの新たな記録に驚き続けている中、ヴァージンはロッカールームで着替えを済ませた。普段のように、バッグを持って選手受付の横を通り過ぎていく。

 そこに、アルデモードは立っていた。

「お疲れさん!」

「アルデモードさん……。いつも、この場所で待ってくれてる」

「それは、君を最初に出迎えたいし。スタジアムじゃ、なかなか声かけられないからね」

「ありがとう」

 ヴァージンがうなずくと、アルデモードは一度息をついて口を開いた。

「メールの返信、読んだよ。オフにアメジスタに帰るんだって?」

「帰ることにしました」

「そうか……。もしかして、僕が本気で帰化とか言っちゃったから?」

 アルデモードが苦笑している。ヴァージンは、その目の前で首を軽く横に振ってみせた。

「そんなことないです。私が、アメジスタのアスリートだと、もう一回自覚しようと思ったんです」

「なるほど……。出ちゃった僕にはできないけど、いいことだと思うよ」

「アルデモードさんも、私の中ではアメジスタのアスリートだと思ってます……」

「ありがとう」

 そう言うと、アルデモードはヴァージンの肩に手を当て、抱きしめた。

「ちょ……っ!ここ、プライベートルームじゃないのに」

「今日は特別。君が、こんなにも素晴らしい記録を残して、アメジスタの人々に自慢できるんだから」

 スタジアムの中で、結ばれつつある二つの体。アメジスタという小さな国に、二人の情熱が伝わればいい。その時、二人はそう思っていた。


 だが、ヴァージンを悲しみのどん底に突き落す残酷な運命は、既に取り返しのつかないところまで来てしまっていた。

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