第2話 誰もヴァージンの未来に力を貸さない(1)
それから2年の歳月が流れた。
中等学校四年生になったヴァージンは、この日も学校の400mトラックを12周半、陸上部の女子を誰一人寄せ付けないスピードで走っていた。
最近では、ジョージの部屋から彼が全く使っていない秒針付き腕時計を借りて、学校に行くときにそれを左腕につけている。授業中は授業の残り時間を気にするために使っているが、放課後になると自分がどれだけのタイムで走りきったか一目で分かるツールへと早変わりする。
(15分18秒。……あと3秒で自己ベスト更新できたのになぁ)
陸上部の誰もがヴァージンの圧倒的なスピードに羨ましさを感じているにも関わらず、時計を持ち出してからというもの、ヴァージンはほぼ毎日のように見えないため息をついていた。
ヴァージンの身に宿る羅針盤の針は、もはや中等学校の陸上部に向いていなかった。
「ただいまー」
スライドドアをゆっくりと開けて、この日もヴァージンは家に帰ってきた。ジョージは文筆活動に熱心のようで、今日は声を返すだけで姿を見せない。しかし、声がいつになく低い気がしたので、ヴァージンに一気に緊張が走った。
(もしかしたら、今日は何か言われるのかな……)
恐る恐る歩きながら、ヴァージンは自分の部屋のドアを開けた。
「……あれ?」
壁が妙に寂しかった。この部屋がヴァージンのものになった日と同じように、壁が茶一色に染まっていた。彼女が壁に貼り付けていたライバルたちのポスターは、きれいに剥がされ、折りたたまれて机の下に置かれていた。
(とうとう……剥がされた)
その予兆はあった。ヴァージンの数学の成績は、中等学校四年生になってからクラス最下位を抜け出すことができず、テストで0点を取ることも少なくなかった。アメジスタ語だけは何とかクラスの平均点くらいまで達していたが、それ以外の科目はほとんどダメと言っても過言ではない。
そうヴァージンは思っていた。
「父さんったら……」
そう吐き捨てて机に近づくと、机の上に何やら紙が置かれていることに彼女は気が付いた。
(家庭教師のチラシ……?)
嫌な予感とともに、ヴァージンは一枚だけその紙を手に取った。そして、椅子に腰かけると同時に、彼女は息を飲み込んだ。
――グリンシュタイン 7月中等卒業 採用企業一覧――
そこには、会社の名前とか、採用する職種・人数、応募資格、それに給料などが事細かく書かれてあった。一枚につき10社程度、それが十数枚ヴァージンの机の上に置かれていたのだった。
(私も、本当に進路を決めないといけないのかな……)
中等学校卒業を間近に控えた今、クラスでも陸上部でも、四年生が集まった時の話題の中心は、何と言っても卒業後の進路のことだった。土木工事で働くとか、病院で働くとか希望は言うものの、ほとんどの同級生が家でやっている農業を継ぐのが現実的だと、口を揃えて言う。
むろん、この数年間そういった進路など眼中になかったヴァージンは、その手の会話になると話を聞いているかのようにうなずくだけだった。それが、ついに自分のところにも来てしまったのだ。
不意に、ヴァージンの部屋に誰かが入ってきたような気がして、ヴァージンは後ろを振り返った。
「ヴァージン。その紙が、やっぱり気になるよな。四年生として」
「……父さん。どうしたの、この紙。てか、ポスター剥がさ……」
「もういいだろ、それは」
「父さん……」
眼の吊り上るジョージに、ヴァージンは不貞腐れた表情を隠せなかった。ここ数年、何度も言われ続けた言葉が、ジョージの口から語られる前にヴァージンの脳裏に甦ってきた。
しかし、ポスターまで剥がされたとなると、これは普段と全く状況が違う。ヴァージンは口を開けずにいた。娘が何も言わないのを見て、ジョージは腕組みをしながら低い声で言った。
「ヴァージン。もう、卒業まで日はないよな」
「……はい」
「で、どこの会社に勤めたいと思ってるんだ?」
ジョージの視線が、ヴァージンを突き刺すように見つめている。これほどまで細い目を向けられたことは、ヴァージンの16年間の人生の中で、ただの一度もなかった。
普段ならすぐにあの言葉を返す彼女も、緊迫した空気のあまり、数秒待って言葉を選んだ。
「私の進路は、会社じゃなくて……」
「世界と戦うアスリート、と言いたいのか?」
「……うん。だって、ずっとそう言い続けてきたから」
ヴァージンは、首を下に向けた。もはやこれ以上、目の細いジョージの顔を見る気になれなかった。
――パァン!
(……っ!)
ジョージは、右の手のひらをヴァージンの左の頬に叩き付けた。狂ったようなスピードで襲い掛かった平手の後、左耳を突き刺すような激しい耳鳴りがヴァージンを襲い、続いて血の溢れ出そうなほどの痛みがじわじわと顔じゅうに広がっていった。
涙すら浮かんできたヴァージンの目に、仁王立ちしたジョージの険しい表情が映る。
「その夢を捨てろと言っただろ!何度も何度も!」
「……父さん」
ヴァージンの声は涙で枯れていた。ヴァージンが普段から放つ響きわたる声は、数年ぶりに襲った激しい痛みに飲み込まれてしまった。
「いい加減、目覚めてくれ!そんな子供の遊びみたいなことを、大人になっても続ける気かよ!」
「……そう、決めてました。でも……」
ヴァージンは、口ごもった。その後の言葉が出てこない。
「何度も言ってきただろ。アメジスタではアスリートは生まれない、って!こんな貧しい国に、アスリートは生まれるわけがない、って……!」
(私……、それでも……)
声にならない言葉が、ヴァージンを苦しめた。言いたくても、言えるような雰囲気ではなかった。ひたすら、涙を流すしかなかった。
「とりあえず、この家では農業はできない。私の月収もたった30リアで、死ぬまでお前を育てていくことはできん。だから、フローラと同じようにグリンシュタインに出て働くしか、お前の生きていく道はない。分かったな」
「……っ!」
ジョージは、ため息をついて後ろを振り返り、ゆっくりとドアのほうに戻っていった。そして、ヴァージンの方を振り向くことなく、こう吐き捨てた。
「あ、就職が決まるまで、日曜日に家の周りを走ることは禁止だ!鍵をかける」
「父さん……」
涙声のまま、ヴァージンはジョージに何とか聞こえるような言葉を返した。走っていないにも関わらず呼吸は乱れ、その息が震えているようにジョージの耳には届いた。
ジョージは右足を前に出したまま、その場に立ち止まった。それでもまだ、振り返らなかった。
「私の夢って……、私の希望って、そんな惨めなもの?」
「……言ってるだろ、さっきから」
ジョージの黒い髪が、部屋に入り込むかすかな風に揺れる。それと一緒になって、ヴァージンの解いた金髪も揺れていった。
その風が収まると、ヴァージンは何度か唇を噛みしめ、再び荒い呼吸を吐き出すかのように叫んだ。
「希望の一つや二つ、それすら持っちゃいけないの?」
「それを言い出したら、こっちにも希望がある」
ようやく、ジョージはヴァージンに首だけを向けた。相変わらず彼の目は細く、ヴァージンはその目に視線を合わせるたびに怯えかけてしまう。
「……お前を路頭に迷わせたくない、という希望だ」
「路頭に……」
ヴァージンの目には、2年前にグリンシュタインで見かけた、見るからに帰る家のない人々たちの姿が映った。路頭に迷い、生きる希望すら持てず、ただ聖堂に祈りを捧げるだけの人々だ。
「お前にも、希望はある。それは分かってる。でも、このままお前の希望を通せば、必ずお前も路頭に迷うに違いない。それが嫌なんだ」
「……うん」
「一生走るな、って言ってるわけじゃない。せめて、遊び程度にしておくべきだ。いいだろ」
ヴァージンは、次第に柔らかい口調に戻っていくジョージに、思わず首をかすかに縦に振った。それを見て、ジョージはまた後ろを振り向き、普段と何一つ変わらない足取りで部屋の外に出ていってしまった。
後には、寂しくなった壁と、床に散らばったポスターと、希望の一つすら感じられない求人情報だけが彼女に残された。
(私にだって……、希望があるのに……)
ヴァージンは、泣き崩れるように机に突っ伏した。そして、父によって閉ざされかけようとしている夢を守るために、彼女は部屋の中で大声を上げて泣き続けた。
(私は、どうすればいいの……!)