第12話 アメジスタかオメガか(5)
「もう少し、タイムは伸ばせただろうな」
「はい……」
近づいてくる「勝者」マゼラウスに、ほんのわずかの緊張が走ったヴァージンは、マゼラウスの落ち着いたトーンの言葉に、見えないように胸をなで下ろした。タイムだけを見ると、自分のベスト記録にはまだ10秒以上足りないということは、言われなくても分かっていた。
「ヴァージンにしては本気になるのが早すぎた。1周間違っていたのか?」
「いいえ……。コーチは、あのあたりからスパートをかけるのですか?」
マゼラウスが、ヴァージンの言葉が終わらないうちに首を横に振る。
「私も、早すぎたと思う。最後、ギアを上げられなくなるところだった」
「そうですか……。でも、……やっぱりコーチは違います」
「何を言いだすんだ、ヴァージン」
ヴァージンの目に、マゼラウスのやや険しい表情が飛び込んできた。マゼラウスは、ゆっくりと顔をヴァージンに近づけて、やや低い声で言った。
「たしかに、私は男、ヴァージンは女。それなりの差はある。けれど、同じ距離に挑むライバルというのは、何も変わらない」
「はい」
「それにな、お前はまだ、記録を伸ばせる。ひょっとしたら、来年や再来年には、今の私ではお前に先を越されてしまうかも知れない」
マゼラウスが、同意を求めるかのような表情で、首を縦に振った。ヴァージンも、それに合わせるようにうなずいた。
「それにな、久しぶりに追うべき相手を見て、やっぱりお前は変わってないな……」
「はい……」
「ペースの違うライバルが現れて、まだ追い抜くことだけを考えている。4位とか7位とかに甘んじるレースで、ヴァージンが見せてきた走りだ」
「それは、私も感じました」
「な。だから、今回私が本気になったんだ」
マゼラウスが、ふぅと息をついて、ヴァージンを見つめていた。この間、マゼラウスはタオルで自分の汗を拭くこともしなかったが、その汗は自然に引いていった。これこそ、長年鍛え抜かれていたマゼラウスの実力をはっきりと映し出しているかのように、ヴァージンには見えた。
「いつか言った。ヴァージンは追いかけられる存在だ。そして、いつかは抜かれる存在になるはずだ」
「はい」
「その時に、お前が実力で抜き返せるか。本気で食らいつけるか。私は、それを知ってほしかった」
ヴァージンの目の前に、メドゥやグラティシモ、バルーナといった世界各国に散らばるライバルの素の表情が浮かんだ。その普段着の表情と、レーシングウェアに身を包んだ本気の姿。それぞれを交互に思い浮かべる。
どれも共通しているのは、記録を出したヴァージンを褒め称え、そしてそれに向かって努力しようとしている姿だった。
マゼラウスは、さらに言葉を続ける。
「だから、今日の私が、トラック上にいると思え。一緒にレースしていると思え。追い抜かなければならない相手を、感情的にならず抜き返せ」
「はい」
「世界一速く、5000mを走り抜ける女。お前なら、きっとできるはずだ」
「分かりました」
それから10月のオメガ国・ファーシティ大会までの間、ヴァージンはほぼ毎日5000mタイムトライアルで好記録を出し続けた。一人だけで走りきる「練習」であるにもかかわらず、そのタイムがヴァージン自身の持つ世界記録まであと3秒と迫ることもあった。
「ヴァージン、トレーニングとは言え、すごいタイムだな」
「そうですね……。でも、なんかまだまだ上を行けそうな気がします」
「あの時の、私でも見えたんか」
「……見えたかもしれませんね」
ヴァージンは、マゼラウスの冗談に軽く笑ってみせた。
この時、ヴァージンには分かっていた。本気の自分が出せる最高の走りは、今まで見せたものとは1段違うということを。
大会までの残り日数が少なくなってくると、ヴァージンは今まで以上に大会での自分の走りを夢見るようになった。
そして、大会2日前、彼女にとって嬉しい知らせがやってきた。翌日には現地入りするため、この日の練習を夕方早い時間帯で切り上げたヴァージンは、何気なくパソコンを開き、久しぶりにメールフォルダを開いた。
「あれ……?」
一番上にあった、未開封メールにヴァージンは息を呑み込んだ。ガルディエールとのやり取りがほぼ全て電話にて行っていたヴァージンのメールフォルダに、まともな新着メールが来るのは、実に数ヵ月ぶりのことだった。
タイトルには「合格しました」とだけある。
(合格……。まさか……!)
ヴァージンは、思わずメールをクリックしてみせた。メールアドレスも複雑で、あて名がないメールだったが、ヴァージンの脳裏にはその通りの人物の表情が浮かんでいた。
~アメジスタの偉大なるアスリート ヴァージン・グランフィールド~
この前会ったばかりだというのに、こんな手紙を送りつけてごめん。
日々のトレーニングは、アスリートのヴァージンなら、きっと乗り越えられてると思う。
今日僕がお話ししたいのは、僕もアスリートとして復帰することになったんだ。
オメガ国・ファーシティのミラーニというチームに、トライアウト合格!
さっそく11月からチームに合流することになったんだ。
だから、自分の夢に向かって、きつい練習の中、またサッカーができるってこと。
夢は、諦めなければきっと叶うもの。だから、君も諦めずに頑張ってほしい。
今度、君がファーシティに来ると聞いたから、必ず応援する。
目の前で、WRの文字が輝くの、期待しているよ。
~フェリシオ・アルデモード~
(なったんだ……)
夢を一歩ずつ形にしているアルデモードの言葉は、メールという文字の加減がつかみづらいツールながらも、ヴァージンにはその伝えたいことがはっきりと伝わってきていた。
(アルデモードさん、おめでとうございます……)
ヴァージンは、思わずキーボードに手を伸ばし、返信をクリックし、こう綴った。
ミラーニで、アルデモードさんが大活躍してくれることが、仲間として何よりの力になります、と。
しかし、返信を送信すると、ヴァージンはキーボードに乗せていた自分の手を力なく離した。アメジスタからオメガに国籍を移すことで、プロの選手になったという現実が、そこにはあった。
しかし、そこから再び手を動かすのにはそれほど時間がかからなかった。
「私は、やっぱり私……」
2日後、今年最後のレースになるファーシティ・スタジアムにヴァージンは足を踏み入れた。自動車がひっきりなしに出入りする小さいゲートをくぐると、そこは外壁を赤一色で染め上げた印象的なスタジアムがそびえ立っていた。
(もしかして……。ここが……)
アルデモードの所属するミラーニのホームスタジアムだということを、ヴァージンは色から確信した。ミラーニについて詳しく調べなかったはずなのに、ヴァージンの目には赤のチームカラーがはっきりと焼き付いており、チーム名が書いていなくてもヴァージンにははっきりと分かった。
ここで、1週間から2週間に1回、「先輩」アルデモードが懸命にピッチの上をプレーする。そして、そのピッチを大きく回りながら、12周半駆け抜けようとしている自分。ヴァージンは、メインスタンドの向こうに見えるトラックとフィールドを想像で思い浮かべていた。
今年最後の大規模なレースということもあり、事前に知らされていた出場選手には錚々たる顔ぶれが揃った。世界競技会覇者のメドゥ、それにグラティシモやバルーナ、シェターラ、それに最近調子を上げているとされるモニカ・ウォーレットといったメンバーが、決勝一発だけの真剣勝負に臨むのだった。
既に、そのうちの何人かは受付を済ませ、サブトラック周辺で肩慣らしをしているように見えた。ヴァージンもいそいそと選手受付に向かった。
そこには、見慣れた茶髪のライバルが最後尾に並んでいた。ヴァージンが近づいてくるのが分かると、シェターラは思わず首を後ろに回す。
「あ、シェターラ……」
「ヴァージン!……やっぱり、ヴァージンもこのレースに出るの?」
「もう、これ逃したら大きな大会は来年のインドアシーズンまでないし」
「たしかに……。でも、今日の私は本気だから」
シェターラは、ヴァージンに向かって笑ってみせた。世界競技会で不甲斐ない成績に終わってしまったその姿からは想像もつかないほど、ヴァージンの目にも彼女の意思がはっきりと伝わっていた。
「ここで本気を出さなかったら、今年何もやっていないことになる。できれば、ヴァージンを抜いて、トップでゴールしてみたい」
「そこは、私」
ヴァージンも、ほとんど間隔を開けることなく返した。それ自体が、ヴァージンにとっては最低限の結果であるだけに、この言葉を口にしてもヴァージンはもはや何も思わなくなっていた。二人のうち、明らかにリラックスしているのがヴァージンであった。
スピードスターのレーシングトップスとショーツに身に纏い、ヴァージンは勝負の舞台へと駆け上がった。