第12話 アメジスタかオメガか(4)
――ヴァージン・グランフィールドというアスリートが、私とまともに勝負できるまでに成長したってことだ。
相手は、男子10000mの元世界記録保持者。マゼラウスという、これまで勝負をしたことのない相手にヴァージンはベッドに入っても目を閉じることができなかった。
大会前日にほとんど寝られないことがなかったヴァージンは、この日に限ってワンルームマンションに映るマゼラウスの様々な表情を思い浮かべていた。
だが、一方でヴァージンの脳裏には別の一言が、まるで隙間風のように吹き続けていた。
――成長しない奴は……。
「おはようございます」
普段と違い、気が付くと朝の集合時間が迫っていた。ヴァージンは、アカデミーにやや小走りでアカデミーに急いだ。
アカデミーのフロントに足を一歩踏み入れるなり、ヴァージンは足を止めた。
「コーチ、おはようございます……」
「珍しく、遅いお出ましだな。今日は勝負の日だから、普段よりも早く来るものだと思っていたが」
「す……、すいません……」
軽く頭を下げるヴァージンの目には、純白のレーシングウェアに身を包まれたマゼラウスの姿があった。これまでヴァージンと並走するときには、必ずトレーニング用ウェアに身を包んでいたマゼラウスも、して本気の勝負に挑むような姿を、ヴァージンに見せていた。
「私は、1時間も前に来てトラックで軽く肩慣らしをしてきた。準備は万端だ。ヴァージンの準備ができれば、私はいつでも走り出してもいいぞ」
「えぇ。では、着替えてきて軽く準備運動をしてから……」
「分かった」
そう言うと、ヴァージンはいそいそとロッカールームに入り、マゼラウスからその姿が見えなくなると右手をギュッと握りしめた。
(コーチは、本気だ。現役だった頃を、何もかも再現しているのかもしれない……)
雑誌「ワールド・ウィメンズ・アスリート」には、当然載ることのない陸上選手の姿。マゼラウスのもとで指導を受けるようになって2年間、その彼が現役で走っていた頃の写真などをヴァージンが見たことは、ほとんどなかった。
しかし、性別が違うとはいえ、勝負に臨む姿は大会の時のヴァージンと何一つ変わっていない。
ヴァージンは、ボストンバッグをロッカールームのベンチの上にゆっくりと置き、大きく息を吸い込んだ。
(これは、練習なんかじゃない!)
ウォーミングアップを済ませ、ヴァージンはトラックを見て一度うなずく。そして、これまで何度となく教えを受けてきたコーチに、勝負の時を告げた。
「あと5分でいいんだな」
「はい。私の方も、十分準備はしました」
「そうか……。なら、5分後にこのスタートラインに足を置こう」
「分かりました」
ヴァージンは、マゼラウスがうなずくと同時に、首を大きく縦に振った。そして、もう一度トラックを見つめると、そのトラックをゆっくりと内側から外側に横切った。トラックの外に、タオルで汗を拭いているグラティシモが、ヴァージンを手招きしているのだった。
(どうしたんだろう……)
「ヴァージン、話聞いたわ。マゼラウスと勝負するのね」
「はい」
「すごいじゃない。女子の選手なのに、男の、しかも10000mで活躍し続けていたコーチと真剣勝負するなんて」
「えっ?そんなに、珍しいことですか?」
「勝負まではしないって」
グラティシモが軽く息をついて、首を横に振っている。グラティシモを指導するコーチのフェルナンドも数多くの勝負を経てアカデミーで働いているが、これまでグラティシモと5000mや10000mで勝負をしたことなど、一度もなかったという。
グラティシモは、さらに言葉を続けた。
「ほら、やっぱり女子はいくら頑張っても、男子の記録は抜けないじゃない。だから、女子と男子が並んで走ることは、よほどのことがない限りやらないし、やったところで現実味に欠けると思うの」
「現実味……。言われてみれば、そういうレースなんてないです」
「でしょ、ヴァージン。けれど……、世界一速い女になって、夢が叶った。コーチも許してくれたのよ」
そう言うと、グラティシモは座っていた体を揺さぶるように起こして、ヴァージンの肩をやや強めに叩いた。
「だから、ヴァージン。ワールドレコードを誇るアスリートが、現役を退いた人間に負けちゃダメ。最後の最後まで、食らいつく」
「いつもと同じじゃないですか」
「別に変わることなんてないわ。でも、もしかしたらこれがヴァージンにとって、考え方を変えるレースになるかもしれないわ」
そう言って、グラティシモはもう一度ヴァージンの肩を叩いた。ヴァージンは、大きくうなずき、既にスタートラインに足を乗せているマゼラウスのもとに急いだ。
「Go!」
練習ではマゼラウスの力強い声を受けて一歩を踏み出すヴァージンは、他種目のコーチの低い声に違和感なく右足を踏み出した。マゼラウスのほうがわずかに内側からスタートしている。ヴァージンは、まずマゼラウスの前に立ち、自らのポジションを定めようと最初から内側に迫った。
(あっ……!)
瞬間、ヴァージンの目の前にマゼラウスの黒い髪が映った。最初のコーナーでその前に出ようとしていたヴァージンを遮るように、マゼラウスはやや長いストライドで、見た目ゆったりとヴァージンの前に立つ。そして、ヴァージンがマゼラウスの真後ろにぴったりとつくのを見計らって、少しずつスピードを上げていく。
(ペースが速い……)
一緒に並走している時ではありえないほど、マゼラウスのスピードが速い。メドゥやグラティシモがレースの先頭を引っ張っている時にもこのようなスピードを見せることがあったが、マゼラウスの走りは、それほどパワーを使っている様子ではない。ヴァージンと同じように、後半に伸びようとするような勢いだ。
(これは、試されているんじゃないのかも知れない……)
マゼラウスは、自分で最高の走りを見せている。ヴァージンも、かすかに首を縦に振って、マゼラウスを見失わないように、普段の練習やレースで見せるように1周70秒前後のラップで後半の勝負に挑む。
ヴァージンが中盤までのポジションを確保した直後から、マゼラウスも極端にペースを上げるようなことはせず、2000m、3000mと距離を進めるも、ヴァージンとマゼラウスの差は100m程度に保たれていた。それでもなお、マゼラウスがここから先、力を使うのかどうかはヴァージンには分からなかった。
そして、3200mのラインをマゼラウスの足が踏んだのを、コーナーの中盤に差し掛かったヴァージンの目ははっきりと見た。突然、彼の次の一歩が大きく出たように、ヴァージンには感じられた。
(勝負に出た!)
勝負のタイミングを見計らっていたヴァージンは、マゼラウスのスパートに合わせるかのように、右足で力強くトラックを踏んだ。残り2000m近くあるが、マゼラウスと本気の勝負ができるのは、ここしかない。
ヴァージンは、できる限りトップスピードに近づけるようにスピードを上げていく。これまで長く吸い込んでいた呼吸のテンポを若干早めていく。ヴァージンの体感的に、ラップは65秒程度まで上がっていた。
だが、マゼラウスとの差は縮まらない。それどころか、コーナーに差し掛かる直前にはっきりと見えるマゼラウスの横顔は、まだ余裕を浮かべているかのように立った。
(現役が……、負けるわけにはいかない!)
ヴァージンは、さらにもう一段階ギアを上げた。ここまでスピードを上げるのは、これまでの大会では早くても残り1000mを切ってからで、しかもその時ですら最後はほぼ失速している。それを、残り1000m以上手前からやろうとしていた。
目の前に、挑むべき相手がいる。ヴァージンは、それだけでスピードを上げた。
(負けない……!こんな大差でなんて、負けたくない……!)
あと100mだけ、マゼラウスに追いついてみせる。ヴァージンの足は、気が付くとラップタイム57秒程度まで「加熱」しすぎていた。
だが、ほんのわずか縮んだかのように見えたマゼラウスとの差は、幻のようだった。残り1周を切った瞬間、マゼラウスが猛チャージをかける。まるで、これまで溜めていた力を一気に吐き出すかのように。
(……っ!)
荒れ始めたヴァージンの呼吸が、本気の力で快走するマゼラウスに届くはずもなかった。1000m近くの間フルスピードで走り続けていたヴァージンのスピードは、彼女の足がはっきりと感じるように落ちていく。食らいつこうとする心も、その足が言うことを聞かなくなっていた。
そして、マゼラウスの体がほぼそのままの勢いでゴールラインを割った。ヴァージンは、まだ第3コーナーを回りかけたところだった。
ヴァージンのタイムは14分32秒28、対してマゼラウスは14分03秒30。タイム差にして、30秒近い差が、追いつくことのできなかったヴァージンの実力だった。
「ヴァージンよ」
ヴァージンがゴールラインを割り、その目でタイムを確認した瞬間、すぐにマゼラウスの姿がヴァージンの目に飛び込んだ。