第12話 アメジスタかオメガか(3)
アルデモードが帰化すると告げたその日、ホテルに戻ったヴァージンは、ベッドに腰を掛けるなり全てを出し切ったかのように肩を落とした。大会で優勝したはずなのに、その後に言い放った言葉がヴァージンの脳裏から離れられなくなってしまい、レースの余韻すら思い出す余裕がなかった。
(私までオメガに帰化したら……、アメジスタから夢がなくなってしまうような気がする……)
ヴァージンは、無意識のうちに天井に目をやった。これまで遠征で旅をしたどこの国でもありそうな、白い天井が妙に眩しかった。ヴァージンがこれまで訪れた国の中で、唯一母国アメジスタにだけ、そういう眩しい天井はなかった。シャンデリアも、ユニットバスも、テレビも……。
アメジスタを離れて、はや2年と少し、ヴァージンもオメガのセントリック・アカデミーでの生活にすっかり慣れてしまっていた。アメジスタで生活していた頃は、何も不自由や不便を感じることがなかったのに、あまりにもかけ離れた生活を繰り返していると、やはりアメジスタが世界一貧しい国だということを実感せざるを得なかった。
(私は、本当のところ、どっちに行けばいいんだろう……)
そう言って、ヴァージンは先程まで肩に掛けていたボストンバッグのチャックを開き、レーシングトップを取り出し、ヴァージンの目の前で広げた。そこには、はっきりとアメジスタの国旗に使われている色が彩られていた。
もうアメジスタの仕立屋が作ってくれたものではなく、スピードスター特注のウェアではあったが、その色彩はアメジスタ人ヴァージンにとって、何にも代えられない心の拠り所のように思えた。
(近いうちに、決めないといけない……)
ヴァージンは、深いため息をついてレーシングトップを再びボストンバッグにしまった。そして、気を失ったようにベッドに潜り込んだ。
サラディ共和国は、オメガ国から最も遠い場所にあるため、飛行機を使っても片道10時間はかかる。地図を見る限り、まさにアメジスタの上空を通過する航路をとっているらしい。もっとも、それを知ったのも、大会の後にアルデモードと出会ったときからなのだが。
「運よく、窓側の席になりましたね。コーチ」
マゼラウスと隣同士に飛行機の座席に腰かけたヴァージンは、思わずそう言った。
「どうしてだ。ここの席は、意外と下を見られるから怖いところだぞ」
「違うんですよ。この飛行機、アメジスタの真上を通るみたいなんです」
「本当か!?」
アメジスタには週1便しか航空機が飛ばないという、ヴァージンから告げられた情報しか知らないマゼラウスは、ヴァージンの目をまじまじと見つめた。
「アメジスタ出身の、アルデモードさんに出会ったんです」
「あの時の、青年か?」
「そうです。彼が、地図を私に見せてくれて、そこで初めて知ったんです」
「なるほど……。けれど、いくら上を通るからと言って、見えはしないだろう」
飛行機は上空1万メートルと高いところを通るため、よほどのことがない限り地上の世界をはっきりと見ることはできない。フライト中雲しか見えないケースも多々ある。何より、ヴァージンが普段挑んでいる距離の約2倍の距離を、その目で見ることがどれだけ難しいかは、マゼラウスも分かってはいた。
しかし、ヴァージンはそれでも首を横に振った。
「いまのアメジスタを、この目で見たいんです」
「何を急に……。なんか、彼に出会ったとかで、気になったことでもあったんか」
「コーチ、別に気になったということじゃないんです。でも、何となく……」
ヴァージンがそこまで言いかけた時、客室乗務員が搭乗した人々に出発を告げた。もう何度離陸の感触を味わったか分からないほどのヴァージンだが、この時はいつになく落ち着かない素振りを見せていた。
「私は、離陸したら寝るからな」
マゼラウスがそう言ったが、ヴァージンの目は既に飛行機の外に向けられていた。
離陸して何時間経ったか分からないが、飛行機はやがて大海原へと飛び出した。地図によれば、この海の向こうにアメジスタなどの国々がある大陸の上空に突入する。
(いつ通り過ぎる……)
ヴァージンが何度目かにそう呟きかけたその時、飛行機から望む景色が海の青から、緑色へと変わっていた。アメジスタの国土の大半を占める、人の手の入ることのない大草原や深い森だ。そして、その中にポツンと見える、あまり活気のない街……。
ヴァージンも、アメジスタじゅうを飛び回っているわけではなかったので、狭い国土の隅々まで知り尽くしているわけではなかった。けれど、下から込み上げてくるエネルギーのようなもので、何となくここがアメジスタだと分かる。
裕福な者がほとんどおらず、みなその日の生活にあえいでいる。何とか職を見つけるが、そこで得た満足や富を、ほかに回す余裕がない。そんな雰囲気が、窓1枚隔てていたとしてもはっきりと伝わってくる。
(私もアルデモードさんも、この場所から全てが始まった……)
そこまで思うものの、アメジスタの国土が遠ざかるまで、そこから何も思うことはできなかった。少なくとも、ヴァージンがオメガ人として生きていく理由を考えることができなかったのは、確かだった。
「見えたか?ヴァージンの母国は」
「……はい」
まるで幽霊でもいるかのような雰囲気の中で、ゆっくりと目を覚ましたマゼラウスに、ヴァージンははっきりとこう答えた。
「お前が私のところについてから2年は経つが、なんか変わったようなことはなかったか?」
「いえ……。そんな上空からじゃはっきりとは分からないですし」
「だよな……。私の言った通りになった」
軽く笑ってみせるマゼラウスに、ヴァージンも薄笑いを浮かべた。しかし、それが終わるとヴァージンは急に唇をギュッと噛みしめて、マゼラウスにこう告げた。
「私、シーズンオフに帰ります。アメジスタに」
「そうか……」
やや感情を込めて言ったヴァージンに、マゼラウスはただうなずくだけだった。
「君の大事な故郷だ。コンディションの管理だけちゃんとやってくれれば、私は別に何も言わない」
「ありがとうございます」
だが、マゼラウスも快く了承してくれた母国への帰省で、ヴァージンに不幸が襲い掛かることなど、この時の二人には知るはずがなかった。
高いところから見下ろしたアメジスタが、何一つ前に進んでいなかったことからも分かるように……。
帰省することを決めたヴァージンに、もう心の迷いはなくなっていた。オメガに到着した次の日には、セントリック・アカデミーに姿を見せ、室内練習場でダンベル片手にトレーニングをしていた。
「早いな……。君らしいが」
「そんなこと、しばらく言われなかったような気がします」
薄笑いを浮かべながら、慌てて入ってきたマゼラウスにそう答えた。すると、マゼラウスも軽く笑ってみせた。
「まぁ、とにかくこの前お前が言ったように、18秒台……、いや17秒台に照準を合わせていこう。最高の走りを見せ、また世界記録を更新したいんだろ」
「ここまで来たら、私はもう狙いたいです」
「じゃあ、ファーシティの大会まで手を抜くことはできないな」
「分かりました」
ヴァージンがそう言うと、マゼラウスは大きくうなずき、少しの間を置いて言った。
「なら、ファーシティ大会の前哨戦ということで、明日、勝負をしてみよう」
「勝負……。グラティシモさんですか?」
世界競技会2位のグラティシモとは、その大会以降アカデミーに姿を見せていない。フェルナンドコーチと一緒に、別の場所で長期トレーニングをしているらしいが、そのライバルがアカデミーに帰ってくる、とヴァージンは読んでいた。
しかし、マゼラウスははっきりと首を横に振った。
「もっと身近な人だ」
「えっ……?」
ヴァージンは、マゼラウスのほうをまじまじと見つめたまま、目を泳がせることも、体を動かすこともできなかった。次にコーチが何と言うか、そればかり気にしていた。
「私だ」
かつて、男子10000mで世界記録を樹立したことのあるその足に、ヴァージンは思わず目をやった。これまで、マゼラウスはペースメーカーみたいな感じで、ヴァージンの5000mトライアルの真横で途中まで付いて走ることはあったが、最後まで同伴したことは一度もなかったのだ。
「本当ですか?コーチ」
「勿論。ヴァージンと本気で5000mを戦うのは、今までなかったからな」
マゼラウスの、室内練習場に響き渡る声に、ヴァージンは首を大きく縦に振った。
「はい」
「それだけ、ヴァージン・グランフィールドというアスリートが、私とまともに勝負できるまでに成長したってことだ。どうだ、やってみるか」
「やります」
大会明けのヴァージンの目に、いま新たな情熱が湧き上がった。