第12話 アメジスタかオメガか(2)
翌9月、サラディ共和国の首都サラディで行われた大会で、ヴァージンは14分32秒30のタイムを出し優勝した。世界競技会が終わってすぐということもあり、軒並み実力のある選手が出なかったということもあってか、レース序盤からかなりスローペースのレース展開となり、ヴァージンは2000mを過ぎてから独走状態になった。
「まぁまぁじゃないか」
ゴール横に表示されているタイムを見て、ヴァージンがゆっくりとマゼラウスのもとに向かうと、タイム的には最高というわけでもないのに、マゼラウスは妙に喜んでいる表情だった。
「もう少し速く走れたかなと思ったんですが……、今日は珍しく体感のスピードのほうが速かったような気がします」
「そうか……。ただ、一度怪我をしているというのもあるし、そう毎回毎回記録を出せるほど、陸上の世界は甘くないわけだからな……」
そう言うとマゼラウスはふぅとため息をついた。そして、言葉を続けた。
「ヴァージンよ」
「はい……」
「何度も言ってるかもしれないが、お前はもう一流のアスリートなんだからな。自分のタイムを評価するのは、君次第だ」
「私次第……ですか?」
「そう。私はこれまで、タイムが伸びてないとか言って、お前を後押ししてきたが、実際にトラックを走るのはヴァージンなんだからな。その日走り終えて、次の目標を立てたり、まずかったところを修正したりするのも、最終的には君ひとりでやらなきゃいけなくなるんだからな」
マゼラウスのきっぱりとした声に、ヴァージンは大きくうなずいた。
「分かりました」
「で、その話をしてから、君に聞こう。次のファーシティ大会が、ガルディエールがエントリーしてくれた今年最後の大会になるわけだが、君の目標タイムを教えてほしい」
「……18秒台、です。できれば、またワールドレコードの文字を見て、フィニッシュしたい」
「そうか。じゃあ、明日からのトレーニングも気を抜くわけにはいかんな」
「ありがとうございます」
差し出されたマゼラウスの手を、ヴァージンは両手で握りしめた。そして、握りしめたマゼラウスの手を力強く振りおろし、ヴァージンはレースで疲れ切った自らの体に再び力を入れた。
「……あれ?」
ロッカールームで着替えを済ませ、選手出入口のほうに向かうと、ヴァージンの目に見覚えのある人物の顔が飛び込んできた。
「やぁ、ヴァージン。今日の君も、カッコよかったよ」
「アルデモードさん……」
サウザンドシティでヴァージンがヒューレットから攻撃されて以降、全く連絡のなかったフェリシオ・アルデモードが、茶髪を流れる風になびかせながらヴァージンを手招きしていた。
「ごめんね。最近レースを見られなくて。次も見に行くとか行って、結局世界競技会すら見に行けなくて」
「別に……、気にしてなんかないですよ。でも、アルデモードさん、ここオメガから結構離れてるじゃないですか……?」
ヴァージンは、目の前にサラディ共和国の国旗を見つけ、思わず考えた。ヴァージンは世界を転々として勝負に挑んでいるが、いち会社員となったはずのアルデモードがこの地に来ていることが信じられなかった。
「僕は……、会社辞めたんだ。オメガ・アイロンを」
「そんな……。あれだけ苦労してアメジスタを出たのに」
ヴァージンは、思わず息を呑み込んだ。収入を失うはずの行為をしているのに、平気な顔をしていられるアルデモードが逆に不気味でならなかった。
「君がそう言うのも分かる。だけど、あんな考えを持ったトップがいる会社じゃ……、僕の夢はいつになっても叶えられないって思ったんだ」
アメジスタという世界一貧しい国が陸上の世界で活躍するのはおかしい。
ヒューレットは、根っからこの考えの持ち主であり、だからこそ世界競技会の時もスタッフになりすまし、ヴァージンに危害を与えたのだ。
ヴァージンは、ここにきてうなずくしかなかった。すると、一度うなずいたヴァージンを見て、アルデモードはにっこりと笑ってみせた。
「本当のことを言うとね、君の勇気を見て、僕は退職を決意したんだ」
「じゃあ、もしかしてつい最近のことですか」
「そう。僕も、君があんなことになる瞬間を、家のテレビで見てたんだけど……、それでも君は、トラックの外で争うことを拒んだ。そして、まだトラックの中で勝負を続けることを、あの時大声で叫んだ」
「その様子が、テレビでも流れてたんですか?」
ヴァージンは、少しだけ苦笑いを浮かべた。ヴァージンとアルデモードの真横を、大会に参加する数多くの選手が通り過ぎていくが、何人かが時折二人のほうに首を向けていた。
「勿論。だって、あれだけの大事件でレースも中断していたから、カメラはずっとそっちを向いていた。そんな中で、メドゥや君の言葉は、全世界に流れていったんだ」
「私、ちょっと恥ずかしいことをいったかも知れないのに……、それが全世界に流れたってことですよね」
「そう。君は、世界記録を持っているし、差別と闘う勇気あるアスリートだと思われているのかもね」
「逆に恥ずかしくなってきた……。私は、まだまだこれからなのに」
これにはアルデモードも失笑しかけた。だが、彼はそこで作り笑いを浮かべて、ようやく表情を元に戻した。
「じゃあ、ちょっと話を戻すけど……、僕は、あんな状況になった君が、まだ一人のアスリートとして戦い続けるって考えたんだ。だから、もっと自分を受け入れてほしい。そのために、僕は会社員じゃなくて、自分の本当にやりたい夢を、叶えようとしたんだ」
「サッカーの……、スター選手」
「そう。できれば、国の代表になって、世界の強豪を相手に戦いたいなって思うんだ」
アルデモードの目は、そう言った途端眩しく輝いているように、ヴァージンには見えた。そして、ヴァージンが真剣な眼差しでアルデモードの夢に釘付けになる中で、アルデモードははっきりと言った。
「だから、僕はオメガ代表になるために、この歳だけどプロリーグにトライアウトすることに決めたんだ」
「えっ……。オメガ代表、ですか?」
「帰化したんだよ。亡命者としてじゃなくて、ちゃんとした方法で、僕はアメジスタ国籍を捨てた」
「そんな……」
そう言いかけて、ヴァージンは言葉をやめた。たしかに、亡命者とはいえ、フェリシオ・アルデモードという名前はアメジスタ国籍として残ってしまっている。オメガ・アイロンでは偽名を使って働いていたが、それではなく、ちゃんとしたオメガ国籍の人間として生きていくのだった。
「じゃあ、アメジスタ人じゃなくなってしまったってことですか?」
「心は、アメジスタだよ」
アルデモードは、普段見せるように軽く笑ってみせた。だが、ヴァージンは素直に笑い返すことができなかった。
「アメジスタの国籍だったら、いつまで経ってもアメジスタ代表として生きていくしかない。でも、アメジスタ代表と互角に戦えるチームなんて、もうないわけだし……、どうせなら夢は高く、強豪国オメガの代表で夢を叶えたいんだ」
「それが、本当に正しいことなんですか……?」
気が付くと、ヴァージンは首を激しく横に振っていた。もはや、まじまじとアルデモードの表情を見ることができなかった。
「だって、アルデモードさんがアメジスタで活躍すれば、アメジスタから強いサッカーの選手が出て、世界ランク最下位のこの国を……、立て直すことができるような気がするんです」
(言ってしまった……)
そこまで言って、ヴァージンはガックリと首を下に傾けてしまった。アスリート歴がはるかに長い「先輩」を相手にして、言ってはいけない一線を越えてしまったように思えた。
だが、アルデモードはそんなヴァージンに決して怒ることなく、静かにこう言った。
「僕には、それができなかった」
「えっ……」
「サッカーは、一人でできるはずがないんだ……。11人のみんながいて、初めて力を出せる。たしかに、僕がアメジスタの代表として世界で活躍すれば、みんな付いてくると思うけど、それは途方もない時間がかかってしまう。僕はそこまで待てなかったんだ」
アルデモードは、そう言った後、すぐにため息をついた。そのため息には、自分がこれまで全く活躍できなかったことに対する怒りすらこもっていた。
「逃げだと思われるかも知れないけど……、それでも僕はアメジスタ生まれって……、事あるごとに伝えていこうと思う。それで、アメジスタの人々が……、一人でも二人でも、未来のために動いてくれればと……」
「私も力を貸します」
気が付くと、アルデモードはすすり泣きを浮かべていた。ヴァージンはそんなアルデモードの肩を軽く叩き、大きくうなずいた。
「ヴァージン……」
「たとえアルデモードさんが、こうやって折れてしまっても、私と同じ考えを持っているのですから……」
この時、世界競技会の数日後に代理人に言われたことが、ヴァージンの脳裏をフッと横切った。
(私も、オメガ人に帰化したほうがいいって言われている……。けれど……)
ヴァージンは、そこで息を呑み込んだ。そして、拳をギュッと握りしめた。
「私は、帰化しない道を選ぶ。私のいる世界は、一人でも夢を叶えられるから」