第12話 アメジスタかオメガか(1)
無念の世界競技会から数日後には、ヴァージンの傷も全く気にならなくなり、通常のスピードで5000mを走り切っても何ら違和感を覚えないほどに回復していた。
走り終えると、マゼラウスがヴァージンのもとにゆっくりと近づいてきた。
「タイム14分39秒20だな……。数日走らなかった割には、戻ってきてるではないか」
「えぇ、練習できなかったといっても、数日ですもの」
ヴァージンはショーツを少しだけ捲し上げて、跡もほとんど肌の色と変わらなくなった腰を見せた。マゼラウスは数回うなずいた。
「もう少し時間がかかると思っていたのだがな。あの時、激しく燃えてたから」
「大丈夫ですよ。もう。ここから、またワールドレコードを目指しますから」
「そうか。なら、明日も明後日も、このタイムを下回るな」
「わかりました」
ヴァージンは、マゼラウスとほぼ同時にうなずいて、クールダウンを始めた。一緒にトラックからアカデミーの建物の中に向かって歩き出すと、さすがに少し痛みがあふれ出してくるが、それでも大会直後のような激しい痛みではなかった。
(この走りを、大会で見せたかった)
大会直後は、あまりの衝撃に思い返すことすらできなかったヴァージンも、踏み慣れたトラックの上を歩いているうちに、あの日のレースを途中まで思い出すことができた。独走状態になったとは言え、結果は棄権ということに変わりなかった。
世界競技会で優勝確実、とうわさされていたことが、今さらになって思い出される。だが、そこで悔やんでも仕方なかった。
(私は、あの場所に戻ってくるって言った。だから、次にあの場所で走るときに、恥ずかしくない走りをすればいいだけの話だと思う……)
ヴァージンは一度だけうなずいた。
「ヴァージンじゃない」
「……っ!」
マゼラウスからやや遅れて建物の中に入りかけると、そこには見慣れたアスリートの姿が飛び込んできた。このところ、関係が変わってきてしまったシェターラだ。
ヴァージンは思わず手を口に当てる。
「シェターラさん……。どうして、この場所に……」
「ヴァージンがセントリック所属だって、前に何度か言ってたような気がするし……。あのね、今日はとても大事な話があってきたの」
「えぇ」
シェターラの手には、どこかのデパートで買ったような紙袋がつるされていた。シェターラはゆっくりと腕から紙袋を外すと、スッとヴァージンに差し出した。
「これ、ヴァージンの怪我見舞い」
「いいんですか……?シェターラさん……」
ヴァージンは、車いす姿のシェターラに会ったりしたことはあったが、これまでシェターラに対してモノの一つ送ったこともなかった。何より、シェターラの方が故障の程度としては大きいということを思うと、ヴァージンは手が震えて仕方なかった。
「いいのよ。ヴァージンのほうが、私なんかよりずっと不幸な怪我だから」
「えぇ……。でも……、もらっちゃっていいんですか?」
「いいのよ。というか、私はヴァージンに謝らなきゃいけないし……」
そう言うと、シェターラはゆっくりと地面に膝をつけ、ヴァージンを見上げた。ヴァージンもゆっくりと腰を落とし、シェターラの表情を見つめた。
数秒の沈黙があっただろうか、シェターラはゆっくりと口を開いた。
「私は、怪我でレースができないのに、みんながレースできてるのがあまりにも悔しかった。だから、その怒りを……、ずっとヴァージンにぶつけてしまっていた……」
「シェターラさん……」
世界競技会予選の日に言い放った怒りとは比べ物にならないほど、シェターラの表情は落ち着いていた。涙こそ出てこないが、その声は限りなく涙声に近いものになっていた。
「でも、そのあなたが決勝であんなことになってしまって気が付いた……。私だけじゃないんだって」
シェターラは、首を軽く横に振った。そして、ヴァージンをもう一度見つめた。
「そして、そんなことになっても、ヴァージンは強かった」
――私は負けない!どんな差別にも負けない!
「そう言ったじゃない、ヴァージン」
「……言いました。なんか、感情的になっちゃってかもしれませんが」
「感情的だったのね……。でも、それがヴァージンらしかった」
シェターラは、ここで少しだけ薄笑いを浮かべていた。ヴァージンも、シェターラの口元が緩むと同時に、軽く笑ってみせた。
「シェターラさん、ありがとうございます」
「いいえ……。それに、ヴァージンはもっとすごい」
「どういうところですか?」
「あんなことになっても、決して負けない。怪我ですべてが終わってしまったなんて言わない。そんなヴァージンを見て、私は勇気づけられたの」
シェターラは、右手をヴァージンに向けてスッと差し出した。反射的にヴァージンも右手を伸ばす。
「私だって、もう1年以上まともなレースができていない。でも、ここで諦めるわけにはいかないって思った。だから、ヴァージン。もう一度勝負させて」
「分かった」
ヴァージンは、近づいてきたシェターラの手をゆっくりと握りしめて、そしてそのまま離さなかった。再び燃え上がったシェターラの手は、決して冷えてはいなかった。
「私たち、やっぱりそうすることでしか、ここにいられないから」
「そうですね……」
その時、ヴァージンはアカデミーの入り口に人影を感じた。反射的に首を入り口の方に向けると、そこにはガルディエールの姿があった。
(ヤバい……)
ライバル同士手をつないでいる姿を、代理人に見られてしまった。事が事だけに、今更シェターラの手を離すこともできなかった。だが、ガルディエールはヴァージンにゆっくりと近づくと、膝の周辺だけを軽く見て、一度うなずいた。
「大丈夫だな、あの時の怪我は」
「えぇ……。もうすっかり良くなりました。今日はもう5000m走れましたから……」
「そうか。じゃあ、これから先のレースはこういう感じでいくが、いいかな」
そう言うと、ガルディエールはヴァージンに一枚のクリアファイルを渡した。その中には、「ヴァージン・グランフィールドの今後のレースについて 素案」と書かれたA4の紙が一枚はさんであった。
「ガルディエールさんが、こういうのも組んでくださるんですね……」
「そんなことはないよ。私が勝手に組んでしまうわけにもいかないし、第一に君の意見も尊重しなきゃいけないからね」
これまでマゼラウス自身がアカデミー経由で大会に申し込んでいたところ、代理人が付くようになり、そういうことをガルディエールが全部やってくれるようになったのだった。
「なるほど……。今年のレースは、あと2回ってことですね」
「そうだな。アウトドアシーズンも、世界競技会が終わるとあまり開催がなくなってくるからな」
そう言われながら、ヴァージンはゆっくりと紙を下の方まで見た。すると、一番下に書かれてあった文字を見て、ヴァージンは思わず口を閉ざした。
(オリンピック……)
陸上に限らず、世界中から様々な種目のアスリートたちが集う、4年に一度のスポーツの祭典。世界一貧しい国で育ったヴァージンでも、このくらいのことは分かっていた。勿論、生まれ故郷のアメジスタからオリンピックに出場した人は、これまでにいるはずもなかった。
「私、……出れるんですね!オリンピックに!」
「勿論だ。一応、国内での選考会があって、そこからオリンピックを目指すことにはなると思うのだが……、君の実力なら、十分金メダルを狙えると思う」
「なるほど……」
ヴァージンは、軽く首を縦に振る。すると、ガルディエールはクリアファイルに右手の人差し指を当てて、これでいいか、と尋ねた。ヴァージンは、再度首を縦に振る。
しかし、次の瞬間、ガルディエールは少し目を細めた。
「ここから先の話は、君次第だけど……」
「ガルディエールさん……」
少し声のトーンを抑えたガルディエールに、ヴァージンは聞き返した。
「本音を言うとな……、君には選考会の段階でハイレベルなレースに臨んでほしい。アメジスタ代表だと、おそらく選考会通過タイムが、大会の定める最低のところに落ち着いてしまうと思うんだ」
「えぇ」
「だから、オメガの選手として出てもいいんじゃないかと思うんだ」
(たしかに、オメガ人以外の選手が活躍することを、よく思ってない人だっている……)
ヴァージンは、素直にノーとは言えなかった。甘いマスクの裏に、国籍を捨てろという言葉がよぎってきて仕方がなかったが、普段ならアメジスタを貫き通すヴァージンも、代理人を前にそんなことは言えなかった。
ガルディエールは、さらに言葉を続けた。
「オメガ人になれば、選考会の段階からメドゥとかと勝負ができるはずだ。この一年は、みんな君の世界記録を意識して戦うはずだからな」
「……すいません」
ヴァージンは、ガルディエールの言葉が終わらないうちにぼそりと呟いた。
「ちょっと、考えさせて下さい」
「……ダメか。じゃあ、この話、なかったことにしよう」
「えぇ」
ガルディエールは、残念そうに首を横に振った。それは、ヴァージンがオメガではなく、アメジスタの選手として生きていくことを決めた、事実上再確認した瞬間であった。
その後、シェターラとレースが重なっていることが分かり、別れ際にかけて本気で戦うことを約束したが、ヴァージンの脳裏はすでにそこにはなかった。来たるべきオリンピックに向けての調整と、何故いまガルディエールがそんなことを言ったのか、ということに終始していた。
後に、これが大事件になることも知らず……。