第11話 狙われたヴァージン(5)
その後、ヒューレットは警察官に逮捕されスタジアムから連れ出された。痛ましい事件が起きてしまったスタジアムが、少しずつ普段通りの活況を取り戻していく。トラックやフィールド内に特に異常が見られなかったことから、その後の競技は滞りなく行われるようだ。
ただ、一人のアスリートが国籍を理由に狙われたという事件は、レースに臨むすべての者にショックを与えたというのは間違いない。ショックを振り切れずに勝負に挑んだ者もいるほどだ。
そして、当のヴァージンは医務室で手当てを受けることになった。腰に染みるような薬をかけられ、包帯を巻かれ、ヴァージンはゆっくりとした足取りで医務室を出てきた。
医務室の前に、マゼラウスとガルディエールが待っていた。ヴァージンは二人の顔が視界に飛び込んでくるなり、深く頭を下げた。
「すいませんでした……」
「ヴァージン!……大丈夫か!」
「えぇ……。傷の方は、ただのやけどみたいで、2週間もすれば完治するって言ってました」
そう言いながら、ヴァージンは狙われてしまった右の腰を押さえた。触ってみると、先程染みたときの感触と、さらにその前に炎を受けた時の痛みがはっきりとわかった。
「……分かった」
マゼラウスは、深いため息をついた。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「ただ、心配なのはそっちじゃない。お前そのものだ」
「私……、そのもの……?」
ヴァージンは、少しだけ目を細めてマゼラウスを見つめる。手を傷跡から離すと、痛みや染みは感じなくなってくるが、マゼラウスの一言で再びヴァージンの動きが止まるようだ。
「そう、お前自身がああいうことをされて、……なんか記憶の中に残っていかないかと思ったんだ」
「記憶……ですか?」
「ヴァージン、精神医学にフラッシュバックという言葉がある。嫌なことを体験してしまったとき、それに似たようなシーンでその記憶が蘇ってくる」
「えぇ」
マゼラウスは、それが具体的に何かは言わなかったが、似たようなシーンとは、つまり独走状態で最終コーナーを回り、あと少しでゴールというところで自分の体が狙われてしまう、ということだ、とヴァージンは悟った。
「嫌なことを受けた場所が場所だけに、私はすごく心配している」
すると、マゼラウスはゆっくりとヴァージンに手を伸ばし、彼女の肩を軽く押さえた。
「ヴァージン・グランフィールド。戦えるか?……これからも、戦えるか?」
それは、ヴァージンがこれまでに聞いたことのないほど甘い声だった。声のトーンこそ、普段トレーニングの時にヴァージンに叫ぶ感じのものだが、その感触はどことなく甘い。あの言葉を解き放ってからヴァージンに襲ってきた後悔を、自分のことであるかのように包んでくれるコーチの、優しい手のぬくもり。
マゼラウスの表情は、あまりにも真剣だった。
「ありがとうございます……!」
ヴァージンは、マゼラウスの胸にたまらず飛び込んだ。マゼラウスは、飛び込んできた教え子の体を両腕でギュッと抱きしめた。
「戦えるんだな……っ!本当に、戦えるんだな!」
「勿論です。なんか、ああいうことをされた自分が、やっぱり諦められないというか……、やっぱりみんな、私がいなくなっちゃ困るって思ってるから……」
ヴァージンは、そこまで言って再び泣き出した。まだ18歳にして、アスリートを続けるか否かの選択すらせざるを得ないこの状況下で、ヴァージンはそれでも勝負の世界に立ち向かっていく姿を見せた。
「そうか……。なら、あとはお前次第だ。さっき、トラックでみんなに誓った言葉、そして私の前で見せてくれたこの表情を忘れるな」
「はいっ!」
「もし、フラッシュバックとか襲ってきて、パフィーマンスが落ちていくようだったら、私は許さないからな」
ヴァージンは、首を縦に振った。あとは自分自身の問題だという言葉が、逆に何度も何度もフラッシュバックしていく。だが、ヴァージンにプレッシャーはもうなかった。
「私、次のレースで必ず記録を出します!」
「よし、言ったな!」
マゼラウスは、ヴァージンの肩をポンポンと叩き、笑った。すると、その横で今まで黙っていた代理人のガルディエールも、優しそうな笑みを浮かべていた。
「よかった!また君の走りが見られて、私も嬉しいよ!」
「ありがとうございます」
「ただ、やっぱり……、きっちりしておかなきゃいけないことは、きっちりするからな」
「きっちり……」
甘いマスクが自慢のガルディエールの表情から、フッと笑顔が消えていた。小さめのノートをポケットから出し開いた。そして、一度、二度とうなずいたのちにヴァージンに見せた。
「これは……」
「やっぱり、君を守ってやりたくて……、事件をしっかりとメモしておいたんだ」
すると、ノートを見せるガルディエールに向かって、マゼラウスが少しだけ眉をひそめる。
「ガルディエールさん……。失礼ですが、そこまでされてたんですな」
「勿論です。一人のアスリートの代理人として、果たさなきゃいけない責務は大きいですから」
(代理人……)
ヴァージンは、少し目線を下に落とした。これまで見た目だけで選んだ代理人の、本当の仕事姿を見たことがなかっただけに、ヴァージンの体はかすかに震えていた。
だが、二人の大人は、ヴァージンが震えているのを横目で見ながら、話を進めていく。
「それは、ヴァージンに記憶として残すためのものですかな」
「いいえ。さっき、フラッシュバックがどうのとか言ってたじゃないですか。それを毎日のように本人に見せることはしませんよ」
そう言うと、ガルディエールは一息ついて、そっとこう言った。
「私は、クライアントの身に起きたこの事件で、何としても戦わなければならない。具体的に責任を追及して、真相を解明する。それが、一人のアスリートの代理人として、やらなければならないことだと思うのです」
(また……)
ヴァージンは、かすかに唸った。再び誰かに守られるという言葉が脳裏に浮かび、ヴァージンは思わずガルディエールの目をまじまじと見つめた。
「私も……、許せないです」
「分かるよ」
ガルディエールは、静かにそう返す。だが、ヴァージンに軽く首を向けただけで、ガルディエールは再び口を開いた。
「けれど、君は勝負に専念するんだ!なっ」
「勝負に……」
(そうか……)
ヴァージンは、このとき初めて、代理人の存在意義を思い知った。以前、グラティシモが代理人という言葉を口にした時も、ほぼそういうニュアンスだったと分かるまで、そこから時間はかからなかった。
今回の事件に例を見るようなトラブルに巻き込まれ、アスリート自身が何かしら動かなければならなくなったときに、本人の代わりに動いてくれる人物。それが代理人だった。
日夜トレーニングを続けて、勝負の世界に挑める体にもっていくアスリートたちに、そこまでの時間はない。だからこそ、ガルディエールといった代理人がトレーニング外の様々な手続きをするのであった。
「そう。あとは、私がやっておくから。今回の事件、決着がついたら君にしっかり報告しておくよ。……きっと、たくさん賠償金取れると思うからさ」
「ありがとうございます!」
そう言うと、ヴァージンは深く頭を下げた。ガルディエールの表情が、この時あまりにも凛々しく見えたのは言うまでもなかった。
「じゃあ、私は仕事があるので、これで」
「ありがとうございました。また、私の走りを見に来てください」
「勿論。次こそ、世界記録更新の瞬間を見に行くよ」
そこまで言うと、ガルディエールはゆっくりと歩きだし、ヴァージンの視界から見えなくなってしまった。その横で、やや睨みつけるような感じでマゼラウスがヴァージンと同じ方向を見つめているのが、ヴァージンの目にはっきりと分かった。
しかし、その時はこの事件が後に尾を引くことになるとは、ガルディエールすら思っていなかった。
翌日、ヴァージンの姿は早くもセントリック・アカデミーにあった。
医務室で塗られた薬を自分で塗ったため、前日以上に染みる結果となり、歩くだけでも少し違和感を覚えた。包帯も巻かれた状態で、まだヒリヒリする。この状況下で、普段とまったく同じように5000mを走り切ることは、さすがのヴァージンにもできなかった。
だが、安静にしていたら体力は落ちていく。ヴァージンに休むことはできなかった。
「やっぱり、ヴァージンはここに来たな」
コーチ控室からその姿を見た途端、マゼラウスはヴァージンのもとに駆けていった。
「えぇ。私はまだ、負けたわけじゃないですから」
「そうか。やっぱり、君はもう一流の選手だよ」
「ありがとうございます」
「なら、今日は限界に近いところまで体を動かしていこう。本気で走るのは無理そうだから、あの場所に負担をかけないようなメニューを用意してきたぞ」
「本当ですか!」
「そうだ。私だって、ヴァージンを育てなきゃいけないからな」
マゼラウスは、アカデミーのロビーでかすかに笑った。世界競技会で起きてしまった事件を、少しでも吹き飛ばすように。
そして、ヴァージンの挑戦が再び始まるのであった。