第11話 狙われたヴァージン(4)
ヴァージン一人を狙った攻撃。
誰も予想していなかったはずの事件が、起きてしまった。
スピードスターのレーシングショーツが赤い炎に蝕まれていく。
立ち込める煙に、スタジアムの中が騒然としはじめる。
駆け付けたスタッフによって、トラックの内側へとはじき出されるヴァージン。
その横を、ほんの数十秒前まで引き離し続けていたメドゥやグラティシモが、何事もなかったかのように次々と追い越していく。
(熱い……!熱い……!)
レーシングショーツを脱ぎ捨てるわけにもいかず、ヴァージンは必死に火を消そうと、右手で風を起こしていたが、そんな程度で炎が収まるわけがなかった。
そして、スタッフがショーツに水をかけてようやく火は収まったが、軽い素材でできていたショーツにところどころ穴が開き、ヴァージンは見るからにみすぼらしい姿へと変わり果ててしまった。
「ヴァージン・グランフィールド……!」
ヴァージンがようやく立ち上がりかけたその時、ゴールの方からやや早足で駆けてくるライバルの姿がその目に映った。
「メドゥさん……っ!」
まだ右足を地面につけられないくらい右膝の痛みが残っていたが、ヴァージンは気力で立ち上がった。そして、駆けてくるメドゥを両腕で抱きしめた。
ヴァージンもメドゥも汗だくの体だったが、ほんの数十秒間彷徨った死の世界の感触に比べれば、メドゥの肌はあまりにも優しく感じられた。
「メドゥさん……、おめでとうございます……」
「ありがとう……。でも、本当はあなたがトップでゴールを……」
「えぇ……」
メドゥの視線は、いつしかヴァージンの膝に向けられていた。その狙われた膝を見るメドゥは、何度か首を横に振った。
そして、続けざまに集まってくる、5000mを走り終えた「仲間」たち……。
しかし、その輪の中に3位でゴールしたバルーナが飛び込んできた時、ヴァージンの耳を叩き付けるような音が鳴り響いた。スタジアムじゅうのスピーカーが割れるような声が、アナウンスされる。
「思い知ったか!ヴァージン・グランフィールド!」
(誰……?)
自らの名を呼ばれ、ヴァージンは瞳を細めた。痛みをこらえながらも、ヴァージンの意識はその声に向けられていた。
「女子5000mなんかに……、陸上なんかに、貴様はいらねぇんだ!」
いらない……。
ヴァージンの細くなった目が、突然大粒の涙に覆われた。
その声に何かを言おうとしていたはずのヴァージンは、その音量を前にどうすることもできなかった。少なくとも、分かっていることはスタジアムの放送を誰かがジャックし、その犯人が自分を陸上の世界から追い出そうとしている。それだけだった。
「これまでな……、世界競技会の上位は、みんなオメガ人が独占してきた!女子の長距離走は、ここ何年もオメガ人が……表彰台に立った!」
それは、ヴァージンも周りのライバルも、みな分かっていることだった。
異様な空気が漂う中、ジャックされた放送は続く。
「だが、ヴァージン・グランフィールド!貴様は、世界一貧しい国から……やすやすとこの世界に飛び込み、世界記録をも手にした!そんな貴様の走りを、面白いと思わないオメガ人は、たくさんいるんだ!」
「……っ!」
「だから、俺はスタッフを装って、番号シールに導火線を入れた!リモコンで発火させた!貴様の選手生命を断ち切るためにな!」
(私は、その全てを……否定されている……)
ヴァージンは、ぐったりと首を垂れて下を向いた。
これまで、何度となくライバルたちに、そして世界記録に挑んできたはずの足が、ガクガクと竦んでいた。
「ヴァージン、見て!あそこ!」
ほんの数秒もしないうちに、ヴァージンは突然肩を叩かれた。すぐ真横に立っていたグラティシモが、右手の人差し指をスタジアムの観客席最前列に向けていた。選手との距離が近い分、目立ちにくい場所だった。
黄色い大会用のウェアを着ている、ヴァージンにゼッケンを渡した男。その姿に、ヴァージンは思わず口を押えた。
(あっ……!)
覚えている。
スポンサーを断ったオメガ・アイロンの専務、ヒューレットだ。
白髪、いかつい表情。そして、どこか根に持っているかのような、ヴァージンに対する強烈な憎しみ。
あの時で、事は終わっていなかった。
ヴァージンは、ヒューレットの表情を見るなり、再び足が竦みだした。ヒューレットがマイクを口に近づけ、再び何か言葉を浴びせようとしている。
その時、聞き慣れた声がヴァージンの耳に飛び込んできた。
「それは違うっ!」
(メドゥさん……)
涙を手で拭ったヴァージンの目の先に、ヒューレットに向かって仁王立ちするメドゥの姿が映った。勝負で使い切ったはずの体力をまだ余しているかのように、この日最も速く5000mを走りきった女性アスリートは力強く立っていた。
「どうしてだよ、メドゥ。世界記録を奪われたのに、俺の言葉を否定するのかよ!」
「否定するわよ!戦うわよ!……私たちの戦う場所を守るために!」
(戦う場所……)
ヴァージンの目は、無意識のうちに薄青のトラックを見つめていた。その場所で、どのライバルも同じ距離をコンマ1秒でも速く駆け抜けようとしている。
「あなたは……、勝負の場を傷つけた!あなたがどれくらい憎らしいか分からないけど、一人のアスリートが、その犠牲になってるのよ!この場所を、ダメにしたのはあなたなのよ!」
メドゥは、懸命になってヒューレットをなだめようとする。しかし、ヒューレットの怒りは、一層エスカレートするばかりだった。
「違う!俺のしたことは、この場所を守るためだ!世界一貧しい国の……、血に……、このスタジアムが染まるのだけは、勘弁してほしいんだ!」
ヒューレットも負けてはいない。だが、すぐにメドゥは、力強く反論した。
「私は、この場所にアメジスタの風が流れても構わない!だって……、ヴァージン・グランフィールドは……、私たちの仲間なのよ!」
(……仲間)
ヴァージンは、その場に立ち竦んだ。メドゥの声に、うなずくことすらもできなかった。しかし、その目は明らかにメドゥを見守っていた。
ヴァージンよりもはるかに長い間、勝負の世界に挑んできた一人の人間。いま、まだアスリートとしては「幼い」ヴァージンを必死に守ろうとしている。その姿だけが、ヴァージンの目に焼き付いた。
メドゥは、少し声を抑えて、ヒューレットへの説得を続けた。
「たしかに、ヴァージンは生まれた国も、肌の色も、何もかも違う。けれど、ただ一つ……、私たちと同じものがある」
「同じもの……」
「それは、この5000mを全力で駆け抜ける、一人のアスリートであるということ!……だから私は、いや、私たちはヴァージンをアメジスタからやってきたと知っても、決してバカにしてこなかった」
時折メドゥは涙を拭っている。スタジアムに集った全ての者が、衝撃の瞬間を乗り越え、メドゥの叫びを耳を傾けていた。
「だからこそ、私は……、世界記録をヴァージンが手にした時、素直になれたの……」
「悔しく……、なかったのかよ……」
「悔しいわよ。目の前で記録を出されて……、悔しかった……。でも、同じ場所で、世界の誰よりも速く走りきったヴァージンに、私は言った。……おめでとう、って」
ヴァージンの脳裏に、わずか数ヵ月前の記憶が甦った。
世界記録を樹立したその日、誰よりも悔しいはずのメドゥが真っ先に駆けつけてくれたこと。
そして、新たな世界記録に、素直に「おめでとう」と言ったことを。
「だから、私たちはヴァージンを守る。もし、ここで私たちが屈したら、陸上界は一人のかけがえのない選手を失うことになる……」
そう言って、メドゥは口を塞いだ。
しばらく、ヒューレットとメドゥとのにらみ合いが続いた。
反逆者ヒューレットのもとに近づけないでいた警官も、ようやくヒューレットに一歩ずつ近づいていく。
そして、ヒューレットの手に手錠がかけられた。
だが、ヴァージンは軽く首を横に振っていた。
(このままで終わっていいの……?)
メドゥを始め、多くのライバルが自分を支えている。全く同じ嫌がらせを受けたあの時でさえ、最後にはアルデモードが守ってくれた。だが、いずれも自分は無力だった。
悲しかった。別の意味で悲しかった。
この負の連鎖を振り切りたい。
アメジスタ人だからと、今後もバカにされ、そして仲間に助けられるだけのアスリートになっていいのか。
ヴァージンは、ゆっくりとメドゥの前に立った。そしてヒューレットを軽く見つめた。
「私は負けない!どんな差別にも負けない!」
その瞬間、スタジアムは再び静まり返った。
メドゥの優しく見つめる視線が、ヴァージンに追い風になっているように思えた。
「たしかに、アメジスタ人のくせに、って思ってる人は少なくない……。けれど、私の走りを見て、アメジスタにもこんなアスリートがいるって、感じて欲しい!」
ヴァージンは一度だけ、首を縦に振った。そして、これまで一度も出したことのない大きな声で、声が枯れるくらい叫んだ。
「私は、私を快く思わない人から浴びせられた傷を、すぐにでも治す!必ずこの場所に戻ってくる!そして……、私は走ることで、みんなに勇気を与える!」
(……言ってしまった)
ヴァージン本人も、最後に何と言ったか忘れるほど、言った直後は頭の中が真っ白になっていた。
だが、すぐにスタジアムから大きな歓声が上がり、自分の言ってしまったことの大きさに気が付いた。
「頑張れよ!俺たちだってついてるから!」
「世界最速のその走りで、もっと羽ばたいてくれよ!」
波のような声たち。その一つ一つに、ヴァージンは手を振った。
(ありがとう……)
ヴァージンは、大粒の涙を隠すことができなかった。
それが、彼女にとって大きな転機となったことは言うまでもない。