第11話 狙われたヴァージン(3)
3日後、女子5000m予選で上位のタイムを叩き出した15人が、すっかり晴れ渡ったオメガセントラルスタジアムへと再び集った。
ヴァージンは、マゼラウスと一緒に本番約3時間前に会場に辿り着いたが、スタジアムに足を一歩入れた瞬間、あまりの人の多さにヴァージンは立ち止まった。どこか混みごみとしている。
「今日、本当に人が多くないですか?」
「世界競技会だから、これくらい人が集まるのも無理はないだろう」
「でも……、3日前に来たときには、こんなに多くなかったです……」
そう言いかけて、ヴァージンはカメラのフラッシュが自分に向けて輝いていることに気が付いた。軽く首を向けると、たくさんの人がカメラをこちらに向けていた。
(私、もしかして注目されてる……?)
ヴァージンは、思わず左手の拳を握りしめた。今や陸上の雑誌で、何度か顔写真が載っているので、もはや金髪を靡かせたこの顔が陸上ファンにはインプットされているのだった。
「ヴァージン、これが君を注目している証拠だ。行くぞ」
「えぇ」
そう言うと、一歩先を歩き出したマゼラウスを追いかけるように、ヴァージンの力強い足はスタジアムに吸い込まれていった。
決勝には、大方予想通りのメンバーが集っていた。
世界競技会3大会連続優勝に燃えるメドゥや、それを追いかけるグラティシモ、そしてバルーナ、モニカ・ウォーレットといった、いま最も調子のいいアスリートたちがこの場所に集まっていた。
しかし、この日オメガセントラルスタジアムに集まった人々の注目は、ただ一つだった。
ヴァージン・グランフィールドが新たな世界記録を叩き出すか。
しかし、その期待が大きすぎるショックに変わることを、その時誰もが分からなかった。
「グランフィールド選手ですね」
「えぇ」
ヴァージンが受付で名前を記入すると、黄色い大会用シャツを羽織った、年齢にして50歳くらいのおじさんが、ヴァージンのゼッケンと番号シールを丁寧に運んできた。そして、何度も名簿を確かめながら名前やレーン番号を確認する。
ここで間違ってはいけないので、渡す際には慎重になりがちだが、この日は特に動きがゆっくりだ。何度も「1」という数字と「GRANFIELD」という文字を確認しては畳み、再び開く。これまで何度もゼッケンを受け取ってきたが、ここまで待たされたことなどなかった。
「あの……」
1分ほど確認が続いた頃、ついにたまらなくなって、ヴァージンは思わず呟いた。すると、係員のおじさんは軽く笑いながら、ゼッケンをヴァージンに手渡す。
「すいませんでした。こちらがゼッケンになります。本日は1レーンからのスタートです」
(なんか変なおじさんだった……)
レース前から気を取り乱してしまったヴァージンはロッカールームに入り、アメジスタ国旗の色に染まったレーシングシャツとショーツを身に付ける。そして、トレーニングシャツを着る前に、先程慎重に渡されたゼッケンやシールを所定の場所に貼りつける。
その時、ヴァージンは腰に貼る番号シールが少し重いような気がすることに気が付いた。
(ゼッケン、少し材質を変えたのかな……)
番号シールがつるつるではなく、ところどころ白い筋が間に入っていた。ヴァージンは首を傾けながら、ゼッケンを慣れた手つきで身に付けた。身に付けると、あまり肌がその筋を感じることがなく、パフォーマンスに支障をきたすほど重くもないことが分かった。
(まぁ、いいか……)
ヴァージンはどこか引っかかるところがあったが、急いで済ませてサブトラックへと向かった。
「これでもう完璧か」
「はい。完璧です」
サブトラックを軽く3周したヴァージンは、いつになく大きな声でマゼラウスに尋ねられて、大きく首を縦に振った。バッグからエナジーノヴァのドリンクを取り出し、軽く口に含むと、バッグのチャックをしまって、肩にかけようとした。
その時、ヴァージンの目の前に、見覚えのある人物が現れた。
「ガルディエールさん……!」
「久しぶりだな。今日は私に、どんな走りを見せてくれるんだい」
32歳のガルディエールは、サブトラックの外からゆっくりと入ってきた。今や47歳になったマゼラウスとは雲泥の差と言えるくらい、その容姿はスタジアムの風に輝いていた。
黒髪の額に、この日もまたヴァージンのために笑顔を浮かべていた。
「はい。もうガルディエールさんも驚くくらいの走りを見せたいと思っています」
「分かった。じゃあ、私は君をスタジアムの上段から食いつくように応援するよ。いい?」
「はい。ありがとうございます!」
ヴァージンの右手がゆっくりと伸び、ガルディエールの柔らかい右手に吸い込まれていった。ガルディエールの見せる甘いマスクに、勝負に挑む前のヴァージンの心臓の鼓動は、少しだけ速くなった。
全てを懸けた勝負が始まる、わずか数十分前のクライマックスがそこでは紡がれていた。
しかし、これまで様々なアスリートと接してきたガルディエールであっても、この先に最悪の結末が待っていることだけは全く予想できなかった。
薄青のトラックへと足を踏み出したヴァージンは、ライバルたちが会す集合場所へとゆっくりと歩いて行った。そして、いつものようにトレーニングウェアを脱いでカゴにしまい、レーシングトップスとショーツをスタジアムの風に翻した。
そして、先程触った感じで違和感を覚えた番号シールも……。
「On Your Marks……」
カメラがトラックをゆっくりと横切ると、係員の一声でライバルたちは一斉にスタートラインに移動した。ヴァージンも、多くの歓声に後押しされるようにゆっくりと1レーンの立ち位置に移動する。最も内側に立ったヴァージンの目に、自分を応援してくれる、数多くの人々が映った。
(よし……!)
女子5000m決勝。最高の自分を出し切れば、アメジスタ人として初の金メダル、そして3度目の世界記録が待っている。ヴァージンは、アメジスタ色のトップスに軽く目をやり、首を縦に振った。
始まりを告げる号砲が鳴った。
ヴァージンは、最近のレースと同じようにスロースタートで上位集団の中ほどのポジションを狙おうとした。だが、一番内側からスタートしたヴァージンの目に映ったのは、これまでのレースで見たこともない、ゆっくりとしたポジション確保だった。ほとんどのライバルが、明らかにヴァージンの後ろから付いて行こうとしている。
(私、完全に意識されている……)
これまで常にトップ集団で突き進んできたメドゥもグラティシモも、すぐに完全に視界から消えてしまった。気が付くと、ヴァージンの前にはウォーレットしかいなくなっていた。そのウォーレットも、ヴァージンの体感速度で最初の1周が78秒と、序盤のレースを引っ張っていくにはかなり遅いスピードだった。
予選ではほぼ独走状態で走っていたヴァージンも、ここまでライバルたちが作戦を変更すると少しだけ不安になる。
(これは、勝負に出るしかない……)
ヴァージンは、ラストスパートにかける余力だけを残して、少しだけスピードを上げることにした。すると、後ろから風に乗ってこだまするライバルたちの足音も、同じだけテンポアップするようになった。メドゥもグラティシモもバルーナも、完全にヴァージンについていこうという気だ。
前に誰もいなければ、トレーニングと同じように独走状態で走ればいいにもかかわらず、この日のヴァージンは走るペースが定まらない。世界記録を叩き出した過去2度のレースと違って、勝負する相手というペースメーカーがいないのだった。そしてヴァージンはトップで快調に走り続けるも、1周74秒程度を行き来するようになり、ここ最近の彼女のレースではスローペースとも言える状態が、3000mまでずっと続いた。
3000mを通過する直前に、ヴァージンは左前方に映ったタイムに目を疑った。
(9分21秒……)
ヴァージンは、少しだけ首を横に振った。3000mでのタイムが9分20秒台になってしまうことは、ここ最近のトレーニングでも相当悪い方だった。この状態から出せたタイムは、早くて14分30秒台後半でしかない。
既に遠くなりかけている、自身の3度目の記録更新。だが、スタジアムの声はヴァージンの世界記録を待っているかのような高まりだ。
ヴァージンは、ここで一気にスピードを上げた。スローペースだったため、まだ余力のあるヴァージンは、ラップ73秒だったペースをたちまち65秒程度まで突き上げていった。
だが、一気にペースアップすれば、最後まで力がもたない。しかも、さらに追い打ちをかけるように、ライバルたちも懸命にヴァージンのスピードに合わせようとするので、足音が遠ざからない。レース自体がゆっくり進んでいった分、ライバルは皆、ヴァージンとの勝負ができる力を残していたのだった。
最後の最後に、誰かが自分に勝負を挑むかもしれない。
(今は、ガルディエールさんに最高の走りを見せるしかない……!)
ヴァージンの脳裏から、記録という言葉はいつの間にか消え去っていた。4000mに辿り着く前に12分の大台を過ぎてしまったことを最後に、ヴァージンはタイムなど全く意識せずにスピードをグンと高めていった。最後の1周で見せるトップスピードを、ライバルたちを振り切るためにここで見せ始めた。
それが功を奏したのか、4400mの通過タイムが13分11秒、4600mの通過タイムが13分42秒。次第にライバルたちの足音が遠ざかり、歓声は大きくなっていく。この日の記録更新は不可能であっても、誰もがヴァージンの力強い走りに釘付けになっているかのように、当の本人には思えた。
そして、最後のコーナーを回った。ゴールテープが見える。
もうライバルはいないが、ヴァージンは最後までスピードを緩めようとしない。
しかし、事件は起きてしまった……。
(……っ!)
ヴァージンは、右側の腰に激しい痛みを覚えた。ランニングフォームが右膝から崩れ、ヴァージンは前かがみになりながらも、なんとか前を向いて走り続けた。だが、痛む腰に右手を当てた瞬間、今度は右手に激しい熱を感じ、ついにヴァージンは右膝からトラックの上に倒れ込んでしまった。
(シールが……、燃えている!)
耐え切れない痛みと熱さ。見えかけていたゴールを前に、ヴァージンはトラックの上でうずくまってしまった。