第11話 狙われたヴァージン(2)
ヴァージンは、シェターラが近づいてくるにつれ、すぐに息を飲み込んだ。5000mを走り終えた直後とは到底思えないほど、シェターラの歩幅が大きい。ヴァージンには、それが恐怖にしか見えなかった。
そして、シェターラはヴァージンの前に立ち、両手の拳を握った。そして、やや涙声とも聞こえるような声ではっきりとこう言い放った。
「なんでヴァージンが予選1位で、私が予選落ちなの……!バカ!」
「シェターラ……」
(バカって何……?私がバカなの?)
勝負の世界全てを破壊する。シェターラの言葉は、そのようにヴァージンには聞こえた。
これまでヴァージンがライバルに向かって直接言ったこともなければ、言われたこともない。それは、あの日世界記録を叩き出すまでは、世界的に無名のアスリートだったこともあったが、それ以前に同じ時間、同じ距離の間を勝負してきたライバルだから、というのもあった。
だが、シェターラはそれを全て否定するような口調で、そう言ったのだ。
ヴァージンの中で、一つの糸がプツンと切れた。
「その言い方はないです。シェターラ……さん」
ヴァージンは、声を荒げることなく、シェターラに言った。ここで手を出してしまえば、即お互いがスタジアムから追放されるため、両手をだらんと下に降ろしていたが、腕がうずうずして仕方がない。
しかし、シェターラは少し間を置いてこう言った。
「それが、勝者の言い分?」
「勝者の、というより、この世界で当然のことだと思う……。選手をバカって……」
「そう……」
シェターラは、薄笑いを浮かべた。
(……っ!)
間髪入れずに、シェターラの右足のつま先が激しく動きだし、ヴァージンの右足目がけて飛び上がった。ヴァージンをここまで有名に下唯一の「武器」が、突然奪われようとしていた。
「ちょっ……」
先に風を感じた瞬間、ヴァージンは反射神経で後ろにジャンプして、間一髪シェターラの攻撃を逃れたが、そこで一気にヴァージンは目を細めた。
「どうしたの、急に。いつものシェターラじゃない」
「ヴァージンも、ケガすればいいのよ……!故障すればいいのよ……!」
「したくないわよ……。故障したら、どれだけ辛いか、シェターラの方が分かってるじゃない」
シェターラは、この1年、足のケガでほとんど満足のいくレースができていない。その苦しみを、ヴァージンにも押し付けようとしているのは、目に見えていた。
まして、この1年でヴァージンはあまりにもタイムを伸ばしたのだから。
「分かってる。だけど、私が苦しんでる間に、ヴァージンはメドゥから世界記録を奪って……、一躍スター選手じゃない。そう考えると、私がバカみたいなの」
ヴァージンとシェターラのにらみ合いが続く、世界競技会のスタジアム。そろそろ次の競技に向けてトラック上が熱くなる時間のはずだが、次第に大きくなってくる二人の女子選手の声に、周囲からどよめきが聞こえた。
マゼラウスすら、震え上がって二人を見つめているように、ヴァージンには見えた。それでも、シェターラは周りを一切気にすることなく、これまでで最も大きい声でこう言い放った。
「私が足をケガなんかしなければ……、私が世界記録を奪ってた!ヴァージンより、ずっとずっとトレーニングして……、私の方がいつもヴァージンよりも速く走って……、有名になってた!」
まさに一触即発。殴り合いや蹴り合いに発展するのは、時間の問題のように思えた。
しかし、ヴァージンはそれでもこう返事をした。
「その気持ちを、その両足に託せばいいじゃないですか」
「この絶不調の状態で、ヴァージンに追いつけってこと?」
「そういう意味じゃないです」
ヴァージンは、首を軽く横に振った。そして、一度は遠ざかったシェターラとの距離を、一歩足を前に出すことで近づけた。
「シェターラ……さん、今はまだ完全な走りができなくても、その中で1秒でも早く走り抜けて、少しずつ記録を伸ばしていって……、私に追いつく……。だから、私は、ずっと待ってます」
ヴァージンは、はっきりとそう言った。しかし、シェターラはうなずきすらしなかった。
「ヴァージン、それ本気で言ってるの?教科書的なことを言ってるだけじゃないの?」
「私の気持ちです。だって……、私を最初にアスリートと認めてくれたのは……、シェターラさんじゃないですか……!」
ヴァージンは、この時かすかに涙を流し始めた。自分があまりにも恥ずかしいことを言ってしまったような気がした、そんなかすかな衝動だけで、ヴァージンの涙腺が緩んでしまったのだ。
「私を将来一流のアスリートになれると言ってくれた、シェターラさんだって、立派なアスリートだと思います」
その瞬間、シェターラの動きが止まり、ゆっくりと下をうつむくのがヴァージンの目に見えた。
「何て返していいか……、もう分からない……」
「シェターラ……」
その目からは、涙が出ていた。必死で予選を走りきったはずの疲れをも吹き飛ばすような涙だった。ヴァージンよりも後に泣き出したはずなのに、その粒はあまりにも大きかった。
「私は……、しばらく考える……」
(行ってしまった……)
今や最速となったヴァージンに背を向け、ガックリと肩を落としながら歩き出すシェターラ。まだ完璧とは言えないその足を見ることすら、ヴァージンの目はできなかった。
ヴァージンの目の先にあるのは、変わり果てたライバルの姿……。
(私……。何て言えばよかったんだろう……)
たしかに、シェターラはあの日以来深い傷を負って、それでも何とか走り続けた。それは分かっていたつもりだった。けれど、現実は想像と大きくかけ離れてしまっていた。
その後、ようやく近づくことのできたメディアの取材に、ヴァージンは応じた。だが、既に予選であのタイムを出したことなど忘れてしまったかのように、インタビューにはありふれた言葉でしか応じることができなかった。
ヴァージンは、ロッカーでレーシングトップスを脱ぎ、ゼッケンをたたんでバッグの中に押しやった。ふぅとため息をついた。
ロッカーを出ると、選手受付の先にマゼラウスが立っていた。普段はスタジアムの出口付近で待っているはずのコーチが、ここまで出てくることにヴァージンは、違和感すら覚えた。
「すいません、コーチ。待たせてしまって」
「いいんだ、いいんだ。……でも、何か暗そうだが、大丈夫か?」
「えぇ……」
シェターラとの会話が少しずつエスカレートしていたため、明らかにマゼラウスにも聞こえていたはずだ。ヴァージンは、もう逃げることもできなかった。
「コーチ。私は、やっぱり恵まれてるのかも知れませんね」
「どうして、そう思うんだ?」
「アメジスタという貧しい国から出て、それなりのハンディを背負ってると思ったんです。でも、この2年間プロの世界で戦ってきて、ここまで何の故障もなくやっていけることって、そのハンディを超えるほど素晴らしいな、って思うんです」
ヴァージンは、少しずつ下を向き始めた。目線だけはマゼラウスを向いているが、その目で見つめるマゼラウスの表情があまりにも怖かった。
「ケガをすれば、アスリートはこんなにも辛い想いをするんだって……思ったんです」
「そうか……」
マゼラウスは、ゆっくりとため息をついた。そして、再び口を開こうとする。
ヴァージンの唇が、かすかに震えた。
「ケガで全てが台無しになるとは思うな。人は、いくらでも変われる」
(いくらでも……変われる……)
マゼラウスは、決してヴァージンの言葉を否定するわけでもなく、ただ短くこう言っただけだった。シェターラに何もしてあげられなかったことの一点しか頭の中になかったヴァージンは、脳に強い衝撃を受けたように思えた。
「さっき、シェターラに何と言ったか、私には分からない。だが、まだ彼女も戦うことを諦めたわけじゃない。むしろ、この悔しい気持ちで、変わってくる可能性がある。再びライバルになる可能性だってあるんだからな」
「はい……」
ヴァージンは、ここではっきりとうなずいた。気にかけていた一人の「親友」が、再びライバルのように見えた。
「それに、ヴァージンよ。今は、決勝のことを考えろ。お前をマークして、みんなハイレベルなレースを挑もうとしているはずだ」
「分かりました」
マゼラウスの手が、ゆっくりとヴァージンに伸びていった。ヴァージンは、その手をギュッと握りしめ、そこに向かって熱い涙を一粒だけ零した。
(シェターラ……さんは、いつかきっと、私に追いついてくるのかも知れない……)
ヴァージンの見上げた空は、決して晴れ渡っていなかった。だが、先程まで降っていた雨は止み、ほんの少しだけスタジアムに光を降り注いでいた。
勝負は、3日後だった。