第11話 狙われたヴァージン(1)
8月、オメガ国の首都、オメガセントラルの空はどんよりと曇っていた。世界競技会の行われる会場には、時折小雨程度の雨が降り、薄青のトラックを優しく撫でていた。
女子5000m予選が行われる日。ヴァージンはマゼラウスとともにオメガセントラルスタジアムへと足を踏み入れた。スポンサー契約が次々と締結されるにつれ、ボストンバッグの中身が軽くなるばかりか、ずっしり重くなるが、2年近くプロの世界で叩き上げられてきたヴァージンは、むしろバッグを以前より軽々と持っていた。
出場選手の受付へと並ぶヴァージンの耳に、マゼラウスの声が響く。
「そう言えば……、一昨日、私のもとにお前の代理人からメールが届いててな」
「ガルディエールさんですか?」
「そう。ガルディエールと言う。まだ会ったことはないんだが……、なかなか礼儀正しそうな人のように見えたんだが……」
「私、あの世界のことまだ知らないけど、みんなそうですよ」
そう言って、ヴァージンは軽くうなる。
「まだ、アレクシス・ストレームに未練はあるようだな」
「もうないです。代理人を二人抱える必要もないですから」
「容姿だけで、選んだそうだがな……」
「えっ?」
ヴァージンは、そこまで言ってマゼラウスに顔を向けた。たしかに、フェアラン・スポーツエージェントに面接に行ったことや、そこでパートナーとなった代理人の名前はマゼラウスに話しているが、彼女がその場でどうしてガルディエールを選んだか、何も話してなかった。
アカデミーでグラティシモに話した程度だが、グラティシモからフェルナンド経由でマゼラウスに漏れたのだろうか。
「代理人がついたことは、確かに素晴らしいことだ。トップアスリートとしてあっちが認めてくれたからな」
「えぇ」
「だが……、もしかしたら現役生活全てに付いて回る代理人を、容姿で選ぶのは、あまりよくないと思う」
マゼラウスがかすかに首を横に振るのが、ヴァージンにははっきりと分かった。一年で最大の大会を前にして、マゼラウスがヴァージンに怒ったような表情を見せるのは、2年間で一度もなかった。
「すいません」
「いや、すいませんじゃない。謝る必要なんかないんだ。……ただ、私の人生経験上、見た目がいい人の中身は、かなりずさんだったりする」
「ずさん……」
何となくまずい感じのするイメージの言葉を、ヴァージンはマゼラウスの後に続いて呟いた。
「メールでは、いい文章を書いているが、果たしてどうなのか……。私には分からない」
「コーチ、決勝にはガルディエールさんが来てくれますよ」
「そうか……。なら、一度くらい会ってみたいものだな」
そう言うと、マゼラウスは選手登録の列から離れ、ヴァージンの肩を叩いた。
「……頑張れ、ヴァージン。世界競技会2年連続予選落ちだけは、絶対にないと信じるからな」
「分かってます」
ヴァージンは、首をかすかに縦に振った。そして、列に並ぶアスリートたちの姿をはっきりと見た。
ロッカールームでは、先に会場入りしていたシェターラが黙々と着替えていた。ちょうど、ゼッケンのついたレーシングトップスの上に、白のトレーニングシャツを羽織るところだった。
「……シェターラさん、おはようございます」
「おはよう」
シェターラは、その声がヴァージンのものだと分かると、ヴァージンに顔を向けることすらなく、すぐに後ろを向いてしまった。
「今日はどういう感じですか?」
「……ヴァージンにだけは負けない。それだけ」
(冷たい……)
ヴァージンは、シェターラの言葉の一つ一つがあまりにも冷淡に聞こえて仕方なかった。勝負前のこの状況下で、話しかけるヴァージンに気軽に対応することなどできないと、その茶髪がはっきりと言っているようだった。
少なくとも、ホテルの中で気軽に話しかけてくれたシェターラの姿は、この一年近くの間にすっかりなくなってしまっていた。
立ち尽くすヴァージンに見向きもせず、シェターラはいそいそとロッカーを出てしまった。
そして、1時間ほどサブトラックで軽く調整した後、ヴァージンは集合場所に向かう。
(いつになく多い……。今年は何人エントリーしてるんだろう……)
去年は2組だった予選が、今年は3組になっていた。ヴァージンと同じ予選1組で集合場所に向かったのが15人と考えると、単純計算で45人登録されていることになる。そうなると、各組の上位4人までと、それ以外から記録順に数人、決勝に駒を進めることになる。
だが、14分19秒03のワールドレコードを生み出すその足が、この15人の集団を前に竦むことなど、絶対にありえない。不安が入り混じっていた昨年の世界競技会とは完全に違う。
問題は、自分自身をライバルたちが完全にマークするようになったということだけだが、そこは得意のスパートで引き離せばいいだけだ。
「予選1組、待機位置に」
ヴァージンは、トレーニングシャツを脱ぎ、アメジスタ色のレーシングトップをスタジアムに集った人々に映す。その瞬間、ヴァージンのすぐ近くから歓声が上がったのは言うまでもない。
そして、トラックまでゆっくりと移動し、トラックの最も内側でスタートの時を待つ。この組にも、かつてヴァージンと同じトラックで競ったことのあるライバルがいるが、話しかけたことのあるライバルは、せいぜいシェターラだけだった。優勝争いをするアスリートたちが、バラバラになるように、グラティシモが予選2組、メドゥとバルーナが3組というように別れていた。
「On Your Marks……」
勝負の時は来た。ヴァージンは軽くジャンプをし、一度うなずいた。
(私は、もう負けない……。トップ通過をして当然の実力……)
号砲が鳴る。
ヴァージンの軽々とした体が、力強くトラックを蹴り、優勝候補のいない組の中、わずか1周でトップに立つ。むしろ序盤からこの状態になることの方が少なかったが、他に自分と勝負になりそうなライバルがいないため、最初から自分の走りをすることに決めた。
強いて言うなら、ケガに泣いて以来、本当の実力を見せつけていないシェターラか。
(今度こそ……、来るのかな……)
ヴァージンは、コーナーを回る時に、ふと横目で後続のライバルたちを見た。5周目にさしかかっているが、シェターラの姿は、コーナーの手前にはっきりと見えていた。
だが、予選1組がこんなにも単調なレースになるはずがなかった。
3000mを過ぎたあたりで、ヴァージンは真後ろに足音を感じた。
(後ろがペースを上げてきている……?)
トップに立ったのをいいことに、やや力を抜いていたように思えたヴァージンは、そこで再びスピードを上げた。そして、すぐ後ろを見る。
(この選手、見たことない……)
ほんの一瞬だけ振り返った時には、顔もゼッケンも確認することができなかったが、ヴァージンに懸命に追いつこうとしているのだけは確かだった。うかうかしていると、最後に振り切られる。
行くしかない。
ヴァージンは、残り4周以上あるが、ここでスパートをかけることにした。1周72秒程度だったラップが、次の1周で67秒、その次は一気に1分を切る。これまで、ライバルに何度となく見せてきた驚異的なスパートを、レースではこれまでで最も早く見せた。気が付くと、背後の足音は消えていた。
こうなると、もはやヴァージンの勝利は十中八九手に入れたものだ。ヴァージンは、最後尾にいるライバルたちを次々と追い抜き、周回遅れに追い込む。
心なしか、シェターラを追い越してしまったような気がしてならなかった。
そして、最後まで力を緩めることなく、ヴァージンは予選1組を14分27秒30というタイムでゴールした。ゴールラインを割って後ろを振り返ると、先程後ろにぴったりとついていたライバルは、まだ最後のコーナーを回っていなかった。
ヴァージンは、近づいてくるそのライバルの姿をはっきりと見た。有色肌で、黒髪。バルーナのようで、バルーナには見えない。ゼッケンに「ジェルバ」と書いてあるのだけは確認できた。
「何やってるんだか……」
観客席でヴァージンを待っていたマゼラウスは、ヴァージンを見るなり軽くため息をついた。予選1位ということで、楽々決勝に進めたかと思えば、マゼラウスは逆に困惑した様子だった。
「予選で本気を出してどうする。3日後決勝じゃないのか」
「……そうですね」
以前は、予選であろうと決勝であろうとあまり意識しないヴァージンだったが、この日は予選通過タイムが15分20秒だったこともあり、ヴァージンのスピードは完全に速すぎると言ってよかった。
「だがな、これがあまり力を入れていない時のヴァージンの走りだと思うと、むしろもっと記録は伸ばせると思う」
「えぇ」
決勝は3日後、もしかしたらそこで三度目の記録を掴めるかもしれない。ヴァージンは、はっきりとそう悟った。
だが、その決勝でヴァージンの全てを揺るがす事件が起こるとは、誰一人として思っていなかった。
マゼラウスに軽く頭を下げて、再びトラックのほうを向くと、シェターラがようやくゴールしたところだった。ゴール前のタイムは15分52秒30で、勿論今回も予選落ちだった。
シェターラは自分のタイムに見向きもせず、トラックの外をゆっくりと歩くヴァージンを睨みつけた。
「ヴァージン……」